第18話 数字は残る
モニターが暗くなった。
黒い画面はすぐにただの板になり、そこに映っていた規則も、箇条書きも、最初から存在しなかったみたいに消えた。
報奨金体系。市街地補正。控除。配分。
読めば読むほど、数字が霧になる。
もう少し掘れば理解できる。
だが今日はやめた。
次でいい。
バックヤードのドアを押すと、外の音が一気に流れ込んだ。
――レジの音。
硬貨が落ちる高い音。袋が擦れる音。誰かの笑い声。
白い蛍光灯に照らされた店内は、思ったより明るかった。明るいだけで、ここは別の世界に見える。
客が二人。どちらもスマホを片手に持ち、もう片方の手で棚の商品を触っていた。
せどりか?
「……あ、茂くん」
カウンターの内側から声が飛んだ。パートの中野だった。
制服のエプロンが少し斜めだ。
茂は頷くだけで返した。
「もういいの?」
「うん」
それだけ。
中野は何か言いかけて、やめた。
一瞬だけ生まれた言葉が、そのまま消える。
店のドアに手をかけた。
ビルの自動ドアが開いた瞬間、光が刺さった。
眩しいのに暖かくない。風が冷たく、肌の表面だけが乾く。
街の音が変わっていた。
車が走る音の間に、警報の音が混じる。遠くのスピーカーが、どこかで鳴って、途切れた。
スマホが震える。
通知。
ポケットのスマホを一度だけ触った。画面は見ない。
今は――飯。
身体がそう言っていた。
テリヤキバーガーのセット。
コーラ。
受け取ったレシートを見る。
合計、千三百八十円。
ゲートができてから、値段は何度も上がった。
セットは千円を越え、千百《1080円》になり、千二百《1180円》になり、そして今はこの数字だ。
トレーを片手で持ち、店内を見回してから窓際の席に座った。
店は中途半端に混んでいる。家族連れはいない。制服の学生が二人。作業着の男が一人。女が一人でスマホを見ている。
茂は包装をめくり、バーガーを取り出した。
甘いタレの匂いが先に来る。肉の匂いというより、砂糖と醤油の匂いだ。食欲を刺激する匂い。だが食欲という言葉は、茂の中ではもう薄い。
必要だから食う。
身体が熱を求めている。胃が空腹を訴える前に、筋肉がカロリーを要求する。
一口で大きく噛んだ。
咀嚼して飲み込むまでが短い。味は分かる。だが、味を楽しむという回路が働いていない。
次の一口。
口の中の甘さが増える。タレが舌に残る。そこでやっと旨いに近いものが浮かびかけ、すぐに消えた。
余計なものだった。
コーラの蓋を外し、ストローを差して一息に吸った。
炭酸が喉の奥を刺す。冷たい。胃が一瞬だけ落ち着く。脳が糖を受け取った。
咀嚼を止めないまま視線だけを上げた。
壁のテレビには、ニュースが流れていた。音は小さい。画面の隅に、テロップが出ている。
[害獣警報 K市南部 中型 目撃]
目を細くした。
店の誰もテレビを見ない。
警報はもう、ニュースじゃなかった。
窓の外を走る車の中で、運転手がスマホを見る。青信号の間に、指が動く。視線はまた前に戻る。
バーガーを食い切った。
紙包みを丸め、トレーの端に寄せる。
ポテトの塩は濃い。
塩と油で満たされた胃が落ち着いていくのに、身体の奥はまだ静まらなかった。芯のところが、落ち着く場所を知らないみたいにざわつく。
苛立ちとも違う。
ただ、余っている。
コーラをもう一口吸い、紙コップを置いた。
氷が紙コップの中で小さく鳴った。
落ち着かないのは身体のせいだった。
飯を食っても、静まらない。満腹と鎮静が繋がっていない。
昨日までは繋がっていた。
だが昨日の駅前で、身体の中の何かが一段ずれた。
――食っても足りない。
それだけの話だ。
ポテトを二本、口に放り込み、咀嚼しながらスマホを取り出した。
八十万。
最大合計。特大型。市街地補正込み。
そこから先。
手数料。買取。配分。
取り分は、五十五万。
前後じゃない。ほぼそれだ。
業者の取り分は既に確定している。精算の仕組みは、数字の形で脳に残った。
――フリーは、売る。
国へ申請する資格がない。
だから自分の死体を、回収業者へ売って現金にする。
登録者なら国が回収費用を払う。
未登録なら払わない。
それだけ。
ポテトの最後の一本を噛み潰し、飲み込んだ。
そして、配分。
――単独は成立しない。
駅前は混戦だった。矢が刺さっていた。石が跳ねていた。ガラスが割れていた。
誰のものか分からない痕跡が、死体の表面に残っている。
アジャスターが言う現物痕に基づき査定するという文章は、現場だともっと露骨に働く。
痕が残っている限り、寄与はゼロにできない。
数%。
何%かは知らない誰かに行く。
その「知らない誰か」は、駅前で震えていた素人かもしれないし、登録の連中かもしれない。
勝つことは、倒すことじゃない。
勝つことは、倒して、死体を取って、
書類と割合と手数料を通して――
現金になることだ。
紙コップを握り、残っていたコーラを最後まで吸った。
トレーを返却口に滑らせると、プラスチックが擦れて軽い音がした。
茂は店を出た。
空が明るい。日差しがある。なのに、安心に繋がらない。
ポケットからスマホを出す。
通知が溜まっている。
[目撃通知 K市南部 中型]
[注意喚起 通学路迂回]
[警報 K市南部 中型 追跡中]
画面を閉じた。
南部。
ここからは距離がある。
今この瞬間、自分の導線に重なっていない。
なら、関係ないか。
歩き出す。
交差点の向こうで、サイレンが一回だけ鳴った。
救急か、警察か。
忙しいな。
歩道を渡りながら、バイト先のバックヤードで読んだ文章を思い出した。
登録=最初は裁量、途中から命令
フリー=最初から自由、最初から無保証
無保証。
呼吸を整え、歩く速度を少しだけ上げた。
午後にやることは、決まっている。
制度を読むのは――今日はここまでにした。
飽きたわけじゃない。
続きは後でやる。
飯も食った。
あとは――勝つための準備だ。ケースのハンドルを持ち直し、前を見た。
街は明るいけど、安全ではない。
息を整え、視線を落とさずに歩き出した。
明日も複数話更新予定です。
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