第0話 異物
ご覧いただきありがとうございます!本日17:00〜21:00にかけて、スタートダッシュとして12話を公開します。
規制線のテープは入口を斜めに塞いでいた。
それの色だけが異様に鮮やかで他はすべて鈍い。
ガラス越しの光も、床に落ちた水も、散乱した展示物だった物も均一に冷えている。
水族館は静かだった。静かすぎるほどに音が死んでいる。
床には身体が散らばっていた。
青年。
子供。
老人。
乳児。
衣服は赤く濡れている。
床に広がった赤い水が、ゆっくりと輪郭を歪めていた。
転倒ではない。
重心が抜け落ちた形だった。
歩行が途切れた角度。抱き上げようとして止まった腕。庇う動作のまま固まった身体。
年齢の差は意味を持たない。
初デートの青年も。
ぬいぐるみを抱えた少女も。
孫と遊びに来ていた老人も。
黄色いワンピースを着た赤ん坊も。
動かない姿勢だけが残っている。
事故の光景には見えなかった。
そこに置かれたような違和感があった。
救急隊員の靴音だけが響く。
ゴム底が水気を帯びた床を踏む乾いた音。
「こちら確認――」
「――心肺停止」
「……搬送対象外」
淡々とした声で感情はない。
少し離れた場所に警察官が立っている。タブレットにイヤホン。
映像を確認している視線はそこから動かない。
規制線の内側で、その男だけが異物だった。
血に濡れているわけではない。
傷を負っているわけでもない。
ただそこに立っている。
センターパートの黒髪。
均整の取れた輪郭。
感情の読めない目。
存在そのものが、風景から浮いていた。
館内中央の大きな水槽の前に、黒い塊が転がっている。
硬質な皮膚と裂けた繊維。
人間の体格を明確に上回る質量を持つそれが、一体死んでいた。
警官が顔を上げ男へ一瞬だけ視線を向けると、何も言わず再び端末へ目を落とした。
規制線の向こうで、生き残った人間たちのざわめきが広がっていく。
「ありえない…」
「見た…」
「見たんだぞ……」
声は低く怒号ではなく、理解を拒否する響きだった。
「なんで………あんな……」
女の声が震えている。
「赤ちゃんを――」
言葉は途中で途切れ、誰も続けず、誰も言い切らないまま。
男は反応もせず視線すら動かさなかった。
警察官の端末には、固定カメラの記録映像が映っていた。
黄色い小さな影が落ちる。
それに反応して、個体が反射的に軌道を変える。
生まれた隙に、刺突が入った。
映像は、その一撃が命を断つ瞬間まで記録していた。
再生が止まり、画面が黒へ戻った。
「……確認しました」
警官の声は極めて平坦で、その瞬間群衆の空気は今度こそはっきりと拒絶へ変わった。
「人間のやる事じゃない!」
「助けられたからって……」
「だからって……」
もう理屈になっていない。
ただ、言葉だけが勝手に出ていた。
男はようやく口を開いた。声は低く、温度がない。
「この状況での判断権限は、正式に承認されています」
誰も理解しない。
誰も聞いていない。
「規制線内での行動権限も、証明可能です」
警官は端末の表示を一瞥した。
「確認済みです」
それだけ。
ざわめきが歪み、怒りと混乱が混ざる。
「そんなの関係ないだろ!!」
「赤ちゃんだぞ!!!」
「お前が……」
男の表情は変わらない。
「救助対象の選定は、最適だったと考えています」
言葉が空気を凍らせる。
「助かる人数を最大化する。それが最も合理的です」
数秒の沈黙。
「化け物――」
誰かが呟いた。怒号よりも小さい声。
だが、館内全体へ広がった。
男の中で、何かが僅かに引っかかった。
痛みではない。
後悔でもない。
一瞬だけ、ノイズが混じった。
胸の奥に残る微細な違和感。だが、それはすぐに消える。
処理され、分類される。
「今までの、記録されていますか?」
男は警察官へ向けて静かに言った。その視線が、ゆっくり群衆へ滑る。
「発言者の身元確認をお願いします。後日、正式に対応します」
群衆の中で、誰かが息を呑んだ。
警官は一瞬だけ男を見た。
否定はしない。
それから群衆へ視線を向け、「……静粛に」と感情のない声を拡声器で響かせた。
館内は再び静かになった。
水槽のガラスには、槍を持った男が映っていた。
両耳につけたゴールドのリングピアスが、歪んだ光を返す。
立ち姿が、異様に完成していた。
この瞬間、その場に理解はなかった。
その視線は、最後まで揺れなかった。
ただ一瞬を除いて。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これは、彼が辿り着く「ある時点」の光景。
第1話より、物語は現代から始まります。




