第8話 見極めるべき者
司馬懿の部屋を出たあとも、司馬昭の足取りは妙に定まらなかった。
廊下を歩きながら、先ほど聞かされた話を頭の中で何度も反芻する。
この時代の者ではない女。
三國が一つになった夜。
夜の虹。
そして、父が澪里を遠ざけたかった理由。
「……何だそれ」
小さく呟いてみても、当然ながら頭の中はすっきりしない。むしろ余計にややこしくなった気さえした。
しかも厄介なことに、あの話の重さと同じくらい、司馬昭の頭にこびりついて離れないものがある。
――父上と澪里の、あの妙に甘くて重い空気だ。
未練などない、などと口にしていたが、どう考えても無理がある。
あれを見て何もないと思える方がどうかしている。
「……やっぱ黒いだろ」
誰に言うでもなくぼやいてから、司馬昭は足を止めた。
このまま一人で考えても埒が明かない。
父にもう一度聞きに戻る気にもなれなかった。戻ったところで、これ以上素直に答えるとも思えない。となれば、行き先は一つだった。
司馬昭は踵を返し、司馬師の部屋へ向かった。
「兄上、起きてますか」
扉の向こうに声をかけると、間を置かずに返事が来た。
「起きている」
やっぱりな。
司馬昭は小さく息を吐いてから、扉を開けた。
書案に向かっていた司馬師が、筆を置いて顔を上げる。灯りに照らされたその顔は相変わらず整いすぎていて、こんな時間に見ると少し腹が立つ。
「珍しいな。お前の方から来るとは」
「ちょっと……聞きたいことがある」
「答えるとは限らぬが」
「先にそう言うなよ」
司馬昭は顔をしかめつつ、司馬師の向かいに腰を下ろした。だが、すぐには口を開かなかった。
司馬師はそんな弟をしばし眺め、わずかに片眉を上げる。
「どうした。賈充にでも刺されたか」
「刺されてねえよ」
「元姫か」
「だから違うっての。何でそうなるんだよ」
「では何だ」
司馬昭は少しだけ黙った。
何から話すべきか、自分の中でもまだ整理がついていない。
そんな沈黙ごと見透かすように、司馬師がふと目を細めた。
「父上か」
「……何で分かる」
「お前がそんな顔をする時は、大抵父上絡みだ」
それも少し腹が立つ。
司馬昭は小さく舌打ちしてから、ようやく切り出した。
「兄上。父上と澪里、やっぱり黒いと思うか」
「……は?」
珍しく、司馬師が一瞬だけ間の抜けた顔をした。
その反応に少しだけ気分がよくなったが、すぐに司馬師はいつもの顔へ戻る。
「説明を求めても?」
「求めるなって言っても求めるだろ」
「当然だ」
司馬昭は深く息を吐いた。
「さっき、父上の部屋の前で澪里と父上が話してるのを見た」
「盗み見たのか」
「見ようと思って見たわけじゃねえよ。いや、途中からは見たけど」
「結局見たのだな」
「そこはいいだろ」
司馬昭は手を振って流した。
「で、父上が澪里を抱き寄せてた」
「……それはまた、随分と分かりやすい」
前と同じようなことを言う兄に、司馬昭はじろりと睨みを向ける。
「その言い方、前から何か気づいてたみたいに聞こえるんだけど」
「さあな」
「その顔が怪しいんだよ、兄上は」
司馬師は小さく笑っただけで、否定もしなかった。
「しかも父上、“私はお前に未練などない”とか言ってた」
「ふっ」
「何で笑う」
「父上も、案外分かりやすいところがあるのだなと思ってな」
「だろ?そうなんだよ。そこだけ妙に雑なんだよ、あの人」
思わず司馬昭は身を乗り出した。
「兄上、どう見てもただの旧知じゃないよな」
「そうだな」
「やっぱり?」
「父上にとって、特別な相手であるのは確かだろう」
「澪里にとっても?」
「恐らくは」
あっさり言われて、司馬昭は少し黙った。
やはり自分の見立ては間違っていなかったらしい。
「……で、そこに加えて、もっと面倒な話を聞かされた」
「ほう」
司馬師が興味を示したのを見て、司馬昭は少しだけ身構えた。
「父上に口止めされてる。だから、全部は話せない」
「全部でなくてよい。お前が混乱している部分だけでも話せ」
そう言われると、少し楽になる。
司馬昭は眉間を押さえながら言った。
「澪里は、ただの間者じゃない」
「それは分かっている」
「父上が、三国全部を巻き込むような秘密だって認めた」
司馬師の目が、わずかに鋭くなる。
「三国を?」
「ああ。魏だけじゃない。呉も蜀も関わる」
「……続けろ」
「過去に一度、三国は一つになったらしい」
「三国が?」
「ああ。しかも戦じゃなく、澪里が言葉でまとめたとか何とか」
司馬師はすぐには口を開かなかった。
その沈黙が、かえって重い。
「父上が昔言ってたろ。過去に一度だけ、三国が一つになった時があったって」
「夜の虹の話か」
「そう。それが澪里のことらしい」
司馬師は指先で書案を軽く叩き、しばし考え込んだ。その横顔を見ながら、司馬昭は少しだけ落ち着かなくなる。
父上に話を聞いた時より、今の方が妙に現実味が出てきている気がした。
「一度は三国が、その女の言葉に従ったということだな」
「……まあ、そうなる」
「それは厄介だ」
「厄介?」
「武でねじ伏せたのなら、まだ単純だ。奪えばよい。殺せば終わる」
司馬師の声は静かだった。
「だが、言葉でまとめたのなら違う。信を得たということだ」
「信……」
「人が人に従う理由として、それは最も面倒だ」
司馬昭は小さく息を呑む。
「つまり?」
「魏にも呉にも蜀にも顔が利くということだ。しかもただの旧縁ではない。一度は三国を動かしたほどの信がある」
「そんなに……?」
「ある」
司馬師は、はっきり言い切った。
「魏に引き込めるなら大きい。敵に回るならなお危険だ」
「敵って……」
「澪里がどこへ傾くかで、流れが変わる可能性がある。少なくとも、父上があそこまで隠す理由にはなる」
司馬昭は言葉を失った。
自分も、澪里の知るものが使えるとは思った。だがそれはもっと軽い打算だった。
面倒を避けられるとか、楽ができるとか、その程度のものだ。
だが兄の口から出ると、話の重さがまるで違う。
澪里は便利な札ではない。
国そのものを動かしかねない札だ。
「……兄上、怖いこと言うな」
「怖いのは事実だからな」
「父上が隠したがるわけだ」
「そうだろうな」
司馬師はそこで一度言葉を切り、司馬昭を見た。
「だが、お前が一番気にしているのはそこではないのだろう」
「は?」
「父上と澪里の関係だ」
図星を刺され、司馬昭は顔をしかめた。
「……まあ、そりゃ気になるだろ」
「だろうな」
司馬師は淡く笑う。
「父上にそこまでの顔をさせた相手だ。お前が気にするのも無理はない」
「兄上は気にならねえの」
「気になると言えば気になる」
「何だその薄い反応」
「お前ほど素直ではないのでな」
涼しい顔で返され、司馬昭はわざとらしく溜め息を吐いた。
「で、どう思う」
「何がだ」
「父上と澪里のことだよ。昔どういう関係だったとか」
「さあな」
「またそれか」
「ただ」
司馬師が少し目を伏せる。
「終わった話であるようでいて、綺麗には終わっていない。そういう類だろう」
「……残り火、みたいな?」
「お前にしては悪くない表現だ」
司馬師は肩をすくめただけだった。
部屋に少しだけ沈黙が落ちる。
司馬昭はその沈黙の中で、父上の顔と、澪里の顔と、今兄上から告げられた“信”という言葉を反芻していた。
「……兄上」
「何だ」
「父上、あいつのことで判断鈍ったりすると思うか」
「するかもしれぬな」
「即答かよ」
「だが、それだけではあるまい」
司馬師は静かに続ける。
「父上は感情だけであの女を隠したわけではない。隠すだけの価値があると知っているから隠した」
「感情もあるけど、価値もある」
「そういうことだ」
司馬昭は大きく息を吐いた。
「……面倒くせえな」
「今さらだろう」
「父上も、澪里も、全部面倒だ」
「お前が関わった時点で、いずれこうなる」
あまりにもあっさり言われて、司馬昭は書案に肘をついた。
「で、俺はどうしたらいいと思う」
「珍しいな。お前が私に意見を求めるとは」
「今はそういう嫌味いらねえんだよ」
司馬師は少し考え、静かに答えた。
「まずは見極めろ」
「何を」
「澪里が何を望み、どこへ傾くかだ」
その言葉に、司馬昭は顔を上げる。
「魏に引き込めるなら引き込むべきだと?」
「当然だ」
「……兄上も人が悪いな」
「いずれにせよ価値はある。使える札を捨てる理由がない」
司馬師は竹簡を脇へ寄せ、再び筆を取った。もう話は終わりらしい。
だが、司馬昭はすぐには立たなかった。
「……厄介すぎるだろ」
ぽつりと零すと、司馬師が小さく笑う気配がした。
「だから面白いのだ」
「俺は面白くねえよ。面倒なだけだ」
そう言いながらも、司馬昭の胸の中には先ほどとは違う熱があった。
まだ全部は分からない。だが、分からないまま放っておける相手ではない。それだけは、はっきりした。
司馬師の部屋を出たあと、司馬昭はひとり廊下を歩いた。
夜気は冷えているのに、頭の中は妙に熱い。
父上から聞かされた話も、兄上に突きつけられた言葉も、どれもまだ胸の内でざわついている。
澪里。
未来を知る女。
三国を一度まとめた女。
そして、父上にあんな顔をさせる女。
「……厄介すぎるだろ」
呟いてから、自分で小さく笑った。
厄介だ。間違いなく。
だが厄介だからこそ、放っておけない。
兄は、見極めろと言った。それは正しいのだろう。
何を望み、どこへ傾くのか。それを見誤れば、魏にとっても危うい。
だが、司馬昭の中では、もう少し単純な答えが先に立っていた。
「……いや、まずは味方に引き込む方が先か」
ぽつりと零す。
見極めるにしても、敵のまま眺めるより、手元に引き寄せてからの方がよほどいい。
澪里の知るものも、三国へ通じる縁も、こちらにあれば強い。
少なくとも、呉や蜀へ渡るよりはずっとましだ。
それに。
司馬昭はふと、牢で見せた澪の顔を思い出す。
妙に肝が据わっていて、くるくる表情が変わって、厄介事の中心にいるくせにどこか呑気で、目が離しづらい。
「味方なら、面倒も減るだろうしな」
そう言ってみる。
だが口にした瞬間、それだけではないと自分でも分かった。
味方にしておきたい。
目の届くところに置いておきたい。
少なくとも、父上や兄上や、ましてや呉や蜀の連中に好きにされるのは、何となく面白くない。
「……何だそれ」
自分の胸の内に生まれた、まだ言葉にもならない感覚に、司馬昭は眉をひそめた。
だが、深く考えるのはやめる。
今はまだ、そこに名前をつける時ではない。
「まあいい。まずはこっち側に引っ張る」
ひとり頷く。
策を練るのは性に合わない。面倒だ。できれば寝ていたい。
だが、今ここで少し面倒を引き受ければ、この先の面倒を減らせるかもしれない。
そう思えば、やる価値はある。
「千里の道も一歩から、か」
大きく伸びをしながら、司馬昭は夜の廊下を歩き出した。
「……あー、めんどくせえ」
ぼやいた声は、どこか少しだけ楽しそうでもあった。




