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三國残夢  作者: 仄か
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第9話 俺を使え

「……よぉ。澪里」


 城壁に出ると、澪里はひとり、星空を見上げていた。


 声をかけると、彼女がゆっくり振り向く。月明かりに照らされた横顔は、どこか思いつめて見えた。


「……司馬昭。何か用?」

「少し、いいか?」

「いいよ」


 了解を得て、司馬昭も城壁へ上がる。


 澪里は少しだけ体をずらし、隣の場所を空けてくれた。司馬昭も同じように、低い壁へ身を預ける。


 少しの沈黙。


 夜風が二人のあいだを抜けていく。


「……父上に事情は聞いた」

「事情……?」

「お前が、未来から来たって話」


 その瞬間、澪里の指先がぴくりと動いた。


 ぎゅっと手を握りしめ、そのまま俯く。


「そう……司馬懿がね。彼がそれに足ると思ったなら、聞かないわけにもいかないね」


 澪里は一度だけ息を吐き、それから司馬昭を見た。


「それで、私に何の用?」

「お前が魏と呉と蜀を一つにしたって聞いた。……この先に起こるいろんな出来事を知ってるってこともな」

「一つにしたとは言わないよ。みんなが私のために、一つになってくれただけ」

「同じことだろ」


 司馬昭はすぐに返した。


「みんながその望みを叶えるために、お前のもとに集まったんなら、それは十分すごいことだ」

「すごくなんかない」

「あるさ。それに……お前の知識は、運命を変える力だ」


 だが、澪里はゆるく首を振った。


「私に運命は変えられない」

「どういう意味だ?」

「そのままの意味だよ」


 澪里は苦く笑う。


「私は、あらかじめ知ってるだけ。何が起こるか、誰がどうなるか、先に知ってるだけで……変える力なんてないの。期待しないでね」

「期待してるんじゃねえよ」

「……え?」


 司馬昭は眉をひそめた。


「期待して、便利に使おうって話をしてるんじゃない」


 そう言ってから、少しだけ言葉を切る。


「……いや、まったく使う気がないって言ったら嘘になるけどな」


 澪里が目を瞬かせた。


「正直すぎない?」

「嘘つくよりましだろ」


 司馬昭は低い壁に肘をつき、星空を見上げた。


「お前が知ってることは、たぶん使える。魏にとっても、司馬家にとっても、俺にとってもな。呉や蜀に渡すくらいなら、こっちにいてもらった方がいい」

「……それを本人に言うんだ」

「言うだろ。あとで隠してたって怒られる方が面倒だ」


 澪里は呆れたように司馬昭を見た。だが、すぐにその目を伏せる。


「でも、無駄だよ」

「何が」

「知っていても、変えられない」


 澪里の声が、少し低くなった。


「知ってても、駄目だった。動いても、止められなかった。助けようとしても助けられなかった」


 その声は、さっきまでよりずっと弱かった。


「だから分かるの。知ってるだけじゃ駄目なんだって」


 司馬昭は黙った。


 父上から聞いた時は、澪里の知識はただの力に思えた。


 使える札。

 守るべき秘密。

 三国が欲しがる厄介な価値。


 だが、今目の前にいる澪里は、そんなものを持って誇っているようには見えなかった。

 むしろ、その知識に押し潰されかけているように見える。


「……それで諦めたのか」

「諦めるしかないでしょ」


 澪里は顔を上げた。その目は揺れていた。怒っているようにも、泣きそうにも見えた。


「あなたには分からないよ、司馬昭。誰が死ぬか知ってるのに止められない怖さなんて。何かを変えようとして、別の何かを壊してしまうかもしれない怖さなんて」

「分かんねえよ」


 司馬昭はあっさり言った。

 澪里が少し目を見開く。


「分かるわけねえ。お前みたいに未来を知ってるわけでもないし、そんなもん背負ったこともない」

「だったら」

「けど」


 司馬昭は澪里の言葉を遮った。


「分かんねえから黙ってろ、ってのは違うだろ」

「……」

「お前にとっては過去でも、俺たちにとってはまぎれもない“今”なんだ」


 澪里が息を呑む。


「終わったことみたいに言うなよ。まだ終わってねえんだよ、俺たちには」

「でも、運命は……」

「運命、運命って」


 司馬昭は少しだけ顔をしかめた。


「正直、そういうでかい話はまだよく分かんねえ」

「司馬昭……」

「けどな、何もしねえで“決まってたことだ”って顔されんのは、もっと嫌だ」


 その言葉に、澪里は黙り込んだ。

 司馬昭は少しだけ頭をかき、苦い顔をする。


「俺だって面倒は嫌だよ。できるなら、のんびり暮らして、適当に飯食って、寝て、余計なこと考えずに生きてえ」

「……うん」

「でも、お前が知ってるせいで苦しんでるなら、見て見ぬふりの方が後味悪い」


 そこまで言ってから、司馬昭は澪里を見た。


 澪里を味方に引き込む。


 それが目的だった。


 未来を知る女。

 三国に縁を持つ女。

 父上にあんな顔をさせる女。


 そんな女を、魏の外へ出すわけにはいかない。


 敵に回すのも、呉や蜀に渡すのも面倒だ。

 ならば、どう言えば澪里はこちらを向く。

 何を差し出せば、この女は立ち止まる。


 司馬昭はそう考えていたはずだった。


 なのに、目の前の澪里を見ると、ただの札としては見られなかった。


 傷ついている。


 それは分かる。ならば、その傷ごとこちらへ引き寄せるには――。


「一人でどうにもならなかったんなら、次は一人でやるな」

「……え」

「変えられなかった?そりゃそうだろ。一人で背負って、一人で決めて、一人で何とかしようとしたら限界もある」


 澪里の目が揺れる。

 司馬昭は、そこから目を逸らさなかった。


「一人じゃどうにもならねえ時は、味方を探すんだ」

「味方……?」

「俺を使え」


 澪里の唇が、わずかに開いた。


「司馬昭を……?」

「ああ」

「使えって……」

「こっちは、お前の知ってることを利用する。だったら、お前も俺を利用しろ。その方が公平だろ」

「公平……」

「変えたいなら付き合う。止めたいなら考える。失敗しそうなら別の手を探す」

「そんな簡単に言わないで」

「簡単じゃねえのは分かってる」


 司馬昭の声が、少しだけ低くなる。


「だから一人でやるなって言ってんだよ」


 澪里は言葉を失ったように、司馬昭を見ていた。その視線が痛い。


 見極められている。

 試されている。


 たぶん、澪里は司馬昭の言葉のどこまでが打算で、どこからが本音なのかを探っている。

 司馬昭自身にも、それはよく分からなかった。


 未来知識は必要だ。


 魏にも、司馬家にも、自分にも。

 それは間違いない。


 けれど、それだけならこんなに胸の奥がざわつくはずがない。


「未来を知ってるとか、三国をまとめたとか、そういうのももちろん厄介だ。魏にとってもでけえ話だと思う。正直、使えるなら使いたい」

「うん。そこは分かった」

「でも、それだけじゃねえ」


 司馬昭は、ゆっくり息を吐いた。


「お前一人で抱えて、勝手に折れて、勝手に諦めるのは何か違う」


 澪里の目が、また少し揺れる。


「運命がどうとか、正直まだ全部は分かんねえよ。けど、変えたいって思うなら付き合う」

「付き合う……」

「結果がどうなろうと、お前だけに背負わせる気はねえ」


 夜風が吹いた。


 澪里の髪が揺れ、司馬昭の頬をかすめる。


「澪里。三国を一つにしよう」

「……」

「戦をなくして、平和な時代を築こうぜ。だから魏に――俺に力を貸してくれ」


 澪里は何も言わなかった。ただ、じっと司馬昭を見ている。

 その目は、言葉の奥にあるものを見極めようとしているようだった。


「……本気なの?」

「あ?」

「あなた、自分で面倒は嫌だって言ったじゃない」

「嫌だよ」

「じゃあ、後悔するかもしれないよ」

「するかもな」


 司馬昭は肩をすくめた。


「面倒だし、しんどいし、やっぱやめときゃよかったって思う日も来るかもしれねえ」

「……」

「けど、何もしねえで後からぐだぐだ言うよりはましだ」


 澪里は、しばらく黙っていた。


 やがて小さく息を吐く。


「……ずるいな、司馬昭」

「何が」

「そんな言い方されたら、少しだけ……信じたくなる」


 司馬昭は目を瞬かせた。


「少しだけ、かよ」

「全部は無理」

「まあ、そうだろうな」


 それは妙に納得できた。


 この女がここで簡単に全部預けてくる方が、むしろ気味が悪い。


 澪里は少し俯き、それから小さく頷いた。


「……話は聞く」

「おっ」

「でも、約束はまだしない。ちゃんと見て、自分で決める」

「それでいい」


 司馬昭は笑った。


「じゃあ、まずはそこからだな」

「うん」


 少しだけ空気が緩む。


 司馬昭はその勢いのまま、ひょいと手を差し出した。


「なに?」

「握手だ」

「は?」

「今のは、まあ仮契約みたいなもんだろ。だったら握手くらいしとけ」

「しない」

「即答かよ」

「だってまだ、相棒って決めたわけじゃないし」

「……可愛くねぇな」


 司馬昭は手を引っ込め、わざとらしく溜め息をついた。

 だが、口元は少し笑っていた。


「ま、いいか。とりあえず約束だ、澪里」

「約束?」

「お前が本気で変えたいって思った時は、ちゃんと俺を呼べ」

「……」

「一人で抱えるな。今度は」


 澪里は、しばらく何も言わなかった。やがて、ほんのわずかに目を細める。


「……うん」

「よし」


 星空の下、司馬昭は低い壁にもたれたまま、隣の澪里を横目で見た。


 まだ手は重ならない。

 まだ完全にはこちらを向いていない。


 でも、さっきよりほんの少しだけ距離が近づいた気がした。


「俺と一緒に変えようぜ」

「……司馬昭」

「運命ってやつをさ」

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