第10話 残る世界を変える
少しだけ空気が緩む。
司馬昭はそのまま低い壁にもたれ、隣の澪里を横目で見た。
「で?」
「……で?」
「話は聞く、なんだろ。だったら次は具体的な話だ」
「具体的な、話……」
「お前が変えたいもんだよ。何が一番引っかかってんだ?」
澪里は答えず、じっと司馬昭を見た。
「……何だよ」
「別に」
「別に、って顔じゃねえだろ」
「……」
澪里は小さく息を吐き、視線を夜空へ逃がす。
「一番引っかかってるの、あなたかもしれない」
「は?」
「だから、何でもない」
「いや待て。そこまで言っといて何でもないはねえだろ」
司馬昭は思わず身を乗り出した。
「何だそれ。俺が何した」
「何もしてないよ」
「だったら何で俺なんだよ」
「……それが問題なの」
司馬昭は眉をひそめた。
澪里はしばらく黙っていたが、やがて観念したように口を開く。
「あなた、自分がどれだけ頼りなく見えてるか分かってる?」
「喧嘩売ってる?」
「売ってない。むしろ逆」
「逆?」
「期待してるから、引っかかるの」
司馬昭は目を瞬かせた。
予想していた言葉とは違った。
呆れられるならまだ分かる。怒られるのも、まあ分かる。
だが“期待している”は、少し予想外だった。
「……お前、変なこと言うな」
「変なのはそっちだよ」
澪里は少しだけ笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
「私は知ってるの。これから先、誰がどうなって、どんなふうに時代が動いていくのか」
「……」
「だからこそ、目の前のあなたがあまりにもそう見えなくて、怖いの」
「そう見えない、って」
「本当にこの人でいいのかな、って」
澪里はようやく司馬昭を見た。
「この人に託して、本当に大丈夫なのかなって思ってしまう」
「おい、それ結構ひでえぞ」
「ひどいよ。自分でも分かってる」
「じゃあ言うなよ」
「でも本音だもの」
司馬昭は口をへの字に曲げた。
反論したい。さすがに言われ放題だ。
だが、完全に否定しきれないのが微妙に腹立たしい。
「……そりゃどうも」
「褒めてないよ」
「分かってるよ」
少し拗ねたように返してから、司馬昭は頭をかいた。
「でもまあ……お前にそう言わせてる時点で、俺もまだまだなんだろうな」
「司馬昭」
「けど」
そこで司馬昭は澪里を見た。
今度は逸らさない。
「引っかかってるだけで終わらせんなよ」
「……」
「頼りなく見えるなら、見極めればいい。足りねえと思うなら、足りるかどうか自分の目で確かめろ」
「簡単に言うね」
「簡単じゃねえよ」
司馬昭は少しだけ苦く笑う。
「俺だって面倒は嫌だし、できれば楽して生きたい。でも、お前にそこまで言われて“じゃあやめます”って引くのは、何か癪だ」
「癪って」
「癪は癪だろ」
澪里が、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「……やっぱり変な人」
「お互い様だろ」
夜風が吹いた。
少しだけ張っていた空気が、そこでふっとほどける。
「で、話を戻すぞ」
「戻すんだ」
「戻す。お前が一番引っかかってるもんだよ」
澪里はまた黙り込んだ。
さっきのような軽い応酬のあとだからこそ、その沈黙の重さが際立つ。
「……いきなり三国だの天下だの考えるから重てえんだよ」
「……」
「まず一つでいい」
「一つ……」
「一番最初に助けたい奴は誰だ」
澪里の指先が、かすかに震えた。
その問いは、思ったより深い場所に刺さったらしい。
澪里はしばらく黙っていた。
夜風が吹き、二人の間をすり抜けていく。
やがて、澪里は小さく口を開いた。
「……私が助けられなかった人」
司馬昭は少しだけ眉を寄せた。
牢へ連れて行く途中の澪里を思い出す。
文帝陛下の名を聞いた時。
夏侯淵の死を知った時。
あの時の澪里は、何か大切なものを、今この場で失ったような顔をしていた。
曹丕か。
夏侯淵か。
それとも、自分の知らない誰かか。
分からない。
けれど、その名を口にできないほど重いものなのだということだけは分かった。
「そいつは、もう間に合わねえのか」
「……うん」
澪里は目を伏せる。
「もう、この時代にはいない」
「そうか」
司馬昭は短く答えた。
すぐには何も言わなかった。
澪里の声に込められた重さを、まずはそのまま受け止める。
「……だから、もう遅いの」
「いや」
司馬昭は首を振った。
「そいつには遅くても、次にも遅いって決まったわけじゃねえだろ」
澪里が顔を上げる。
「……次?」
「お前が助けられなかった奴は、もう戻らねえのかもしれない。そこは俺にはどうにもできねえ」
司馬昭は、低い壁に肘をつき、夜空を見上げた。
「でも、また同じように誰かが死ぬって分かってるなら、そこはまだ終わってねえ」
「でも、変えようとしたら……別の何かが壊れるかもしれない」
「かもしれねえな」
「だったら」
「でも、何もしなくても壊れるんだろ」
澪里は言葉を失った。
司馬昭は、彼女の方を見る。
「お前が知ってる未来ってやつが本当なら、このままでも誰かが死ぬ。戦は続く。国は争う。だったら、何もしねえ理由にはならねえだろ」
「……」
「お前がいる間だけ平和でした、じゃ駄目なんだろ」
澪里の指先が、かすかに震えた。
「……うん」
「なら、お前がいなくなった後も続く形にしなきゃ意味がねえ」
「そんなの……簡単に言わないで」
「簡単じゃねえよ」
司馬昭の声は静かだった。でも、妙にまっすぐだった。
「けど、そこ目指さなきゃ、また同じことになるんだろ」
澪里は何も言わない。
けれどその沈黙は、拒絶ではなかった。
痛いところを押さえられた者の沈黙だった。
「俺は、死んだ奴を取り戻せるなんて言わねえ」
司馬昭は続けた。
「そんなことできるなら、とっくに誰かがやってる」
「……」
「でも、次を同じにしないことはできるかもしれない」
「次を……」
「お前が帰ったあとも続く形を作る。残る側が、残る世界を変える」
澪里の目が揺れた。
「司馬昭……」
「お前がいなくなったらまた壊れる、じゃ意味ねえだろ」
その言葉は、理想というには乱暴だった。
慰めというには不器用だった。
けれど、澪里の胸の奥に届くには十分すぎるほど真っ直ぐだった。
「だから、澪里」
司馬昭は、もう一度だけ彼女を見る。
「一人を助ける話じゃ終わらせるな」
「……」
「戦そのものを終わらせる。そうしなきゃ、きっとまた誰かを失う」
澪里は息を呑んだ。
それは、あまりにも大きな話だった。
けれど同時に、澪里がずっと目を逸らしていた答えでもあった。
「そんなこと……本気で言ってるの?」
「本気じゃなきゃ、こんな面倒な話しねえよ」
司馬昭は苦い顔をした。
「俺は、できれば寝てたい。戦だの天下だの、考えるだけで面倒だ」
「……うん」
「でも、また同じことになるって分かってて放っておく方が、たぶん後でもっと面倒だ」
澪里は少しだけ目を細めた。
「面倒だから、変えるの?」
「悪いかよ」
「……ううん」
澪里は小さく首を振った。
「司馬昭らしい」
「知ったようなこと言うな」
「少しは知ってるよ」
「ろくなこと知ってなさそうだな」
澪里が、ほんの少しだけ笑った。
その笑みはまだ弱かった。
けれど、先ほどよりは確かにやわらかかった。
司馬昭はもう一度、手を差し出す。
「なに?」
「今度こそ握手だ」
「さっき断ったけど」
「今のは、さっきより少し進んだ話だろ」
「強引」
「知ってる」
澪里は差し出された手を見つめる。
しばらくそうしていたが、結局その手には触れなかった。
「……まだ、全部は信じられない」
「それでいい」
「でも」
「おう」
「もう少しだけ、話してみてもいいかもしれない」
司馬昭は少し笑った。
「十分だ」
「握手はしないけど」
「やっぱり可愛くねえな」
「あなたにだけは言われたくない」
その返しに、司馬昭は吹き出した。




