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三國残夢  作者: 仄か
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12/19

第11話 司馬家の客人

 澪里は司馬昭から目を逸らし、夜空を見上げた。


「それで?俺はまず何をすればいい?」

「今はまだ何も……」


 視線を上に向けたまま、澪里は答える。


 司馬昭は少しだけ眉を上げたが、無理に食い下がらなかった。


「そっか。じゃあ、今はそれでいい」

「……いいの?」

「おう。けど、忘れんなよ」


 司馬昭は低い壁にもたれたまま笑う。


「一人で勝手に諦めんな。見てて後味悪いから」

「何それ」


 澪里が少しだけ笑った。

 その笑みを見て、司馬昭もようやく肩の力を抜いた。


「じゃ、今日は帰るわ。おやすみ」

「……うん。おやすみ、司馬昭」


 澪里に背を向け、城壁を下りる。


 そのまま屋敷へ帰るつもりだった。だが、数歩進んだところで足が止まる。


 帰って寝る。


 それが一番楽だ。

 今から司馬懿のもとへ行けば、また面倒な話になる。あの父のことだ。問い詰められるか、逆に刺されるか、そのどちらかだろう。


 それでも、司馬昭は踵を返した。


 澪里を牢へ戻すのか。

 このまま放っておくのか。

 司馬懿がどうするつもりなのか、確かめておく必要がある。


「……あー、めんどくせえ」


 ぼやきながらも、足は司馬懿の部屋へ向かっていた。


 夜はすでに深い。


 今さら屋敷へ帰るのも億劫だった。どうせなら、このまま宮中に泊まった方がましだ。


 司馬懿も今夜は帰らぬつもりなのだろう。まだ灯りの残る部屋の前で、司馬昭は一度だけ息を吐いた。


「父上、まだ起きてますか」

「……どうした、昭」


 中から返ってきた声は、いつも通りだった。


 司馬昭は扉を開け、部屋へ入る。


 司馬懿は書案に向かっていた。手元には書簡が広げられているが、本当に読んでいるのかは怪しい。筆を持つ指だけが、ゆっくりと止まった。


「澪里と話してきました」

「それで」

「すぐに魏へ付く、なんて約束は取れてません」

「……そうか」


 わずかに落ちた声音に、司馬昭は続けた。


「でも、拒まれてもいません。話は聞くそうです」


 そこで初めて、司馬懿の視線が書簡から離れた。


「何を言った」

「父上と同じようなことですよ。お前にとっては過去でも、俺たちには今だって」

「……それで?」

「一人で抱えるな、とも言いました」

「昭」


 今度こそ、司馬懿が顔を上げた。その目には、はっきりとした警戒が浮かんでいる。


「余計なことは言っていないだろうな」

「余計かどうかは知りませんけど、口説くなら綺麗事だけじゃ無理でしょう」

「口説く、だと?」

「言い方の問題です」


 司馬昭は肩をすくめる。


「あいつ、簡単に折れるような女じゃない」


 司馬懿はしばらく黙っていた。

 それから、低く問う。


「お前は、澪里を魏へ引き込むつもりか」

「そのつもりです」

「お前が?」

「何です、その顔」

「……いや」


 司馬懿は小さく息を吐いた。


「軽いようでいて、妙なところで食らいつくと思ってな」

「褒めてます?」

「さあな」


 その返しはいつも通りだった。

 だが、司馬懿の声には、ほんのわずかに疲れが滲んでいた。


「焦るな。あれは急き立てれば逃げる」

「分かってますよ」

「本当にか?」

「たぶん」

「不安しかないな」


 司馬昭はへらりと笑った。


「まあ見ててください。面倒ですけど、やる価値はある」

「……ああ」


 司馬懿は再び書簡へ視線を落としかけ、ふと手を止めた。


「澪里は、牢には戻さぬ」


 司馬昭は瞬きをする。


「いいんですか」

「牢に置けば余計な噂が立つ。間者として扱えば、いずれ取り調べの名目で余人の目に触れる。そうなれば面倒が増えるだけだ」

「父上が言うと説得力ありますね」

「お前ほど面倒を増やす者も珍しいがな」

「俺、今回けっこう働いてると思うんですけど」

「働いたことと、面倒を増やしたことは両立する」

「ひどい」


 司馬懿はそれには答えず、淡々と続けた。


「今夜は宮中に部屋を用意する。郭淮に見張らせる」

「澪里をですか?」

「澪里を、ではない」


 司馬懿の目が鋭くなる。


「澪里に近づく者をだ」


 司馬昭は、そこでようやく父の意図を理解した。


 澪里を閉じ込めるのではなく、守る。

 それでも逃げ道は塞ぐ。


 司馬懿らしいやり方だった。


「明日、屋敷へ連れて行く」

「司馬家に?」

「ああ。私の客人として預かる」


 司馬昭は思わず眉を上げた。


「母上には?」

「明日話す」

「……父上」

「何だ」

「生きて帰ってきてくださいね」

「昭」


 司馬懿の声が低くなる。

 だが、司馬昭は真顔だった。


「いや、だって母上ですよ。いきなり若い女を客人として屋敷に連れて帰るんでしょう。しかも父上の昔の知り合いで、妙に訳あり」

「余計なことを言うな」

「言わなくても母上は察すると思いますけど」

「……」


 司馬懿が珍しく黙った。

 司馬昭はその沈黙を見逃さない。


「ほら、父上も不安なんじゃないですか」

「黙れ」

「はい」


 即答すると、司馬懿は疲れたように額を押さえた。


「春華には私から話す。お前は余計な口を挟むな」

「俺がいた方が緩衝材になりません?」

「火種の間違いだ」

「信用がない」

「日頃の行いを省みろ」


 言い返せず、司馬昭は口を閉じた。


 少しだけ沈黙が落ちる。


 だが、その沈黙は先ほどまでの重いものとは違っていた。

 司馬懿は書簡を一つ脇へ寄せると、静かに言った。


「澪里を司馬家に置く以上、必ず目が集まる。なぜ預かるのか、どこの者なのか、いずれ誰かが探ろうとするだろう」

「客人、で通せますか」

「通す」


 迷いのない声だった。


「司馬懿の客人だ。それ以上詮索する者がいれば、私が黙らせる」

「父上らしいですね」

「だが、それだけでは足りぬ」


 司馬懿は司馬昭を見る。


「昭。お前も澪里から目を離すな」

「俺が?」

「お前が引き込むと言ったのだろう」

「言いましたけど」

「ならば責任を持て」


 面倒なことになった。


 そう思った。


 だが、不思議と嫌ではなかった。


 牢の中で肉まんを食べていた澪里。

 夜の城壁で、まだ信じきれないと言いながら、もう少し話してみてもいいと言った澪里。


 その顔を思い出すと、面倒だという言葉だけでは片づけられないものが胸の内に残る。


「分かりましたよ」


 司馬昭は小さく息を吐いた。


「ちゃんと見てます」


 司馬懿はしばらく司馬昭を見ていた。


 その目は、どこか探るようでもあり、少しだけ遠いものを見るようでもあった。


「……しくじるなよ、昭」

「善処します」

「軽い」

「軽く言ってませんよ」

「同じことを何度言わせる」


 司馬昭は笑って誤魔化した。


 司馬懿はそれ以上追及せず、再び書簡へ視線を落とす。話は終わりらしい。


「では、俺も今日は宮中に泊まります」

「屋敷へ帰らぬのか」

「今さら帰るのも面倒ですし。澪里がいるなら、近くにいた方がいいでしょう」

「随分と熱心だな」

「俺が引き込むって言ったんでしょう」

「……そうだったな」


 司馬懿の声が、少しだけ柔らかくなった。


「今夜は休め。明日から騒がしくなる」

「母上の件ですか」

「それもある」

「それも?」


 司馬懿は筆を取り直し、ぽつりと言った。


「澪里が戻った時点で、静かなままで済むはずがない」


 司馬昭はそれを聞いて、少しだけ肩をすくめた。


「でしょうね」


 そして、扉へ向かう。


 出ていく直前、司馬昭はふと振り返った。


「父上」

「何だ」

「澪里を客人にするのは、魏のためですか。それとも、父上の私情ですか」


 司馬懿の筆が止まった。


 だが、今度はすぐに答えが返ってくる。


「どちらもだ」


 司馬昭は少しだけ目を丸くした。

 そんなにはっきり認めるとは思わなかった。


 司馬懿は顔を上げないまま続ける。


「だからこそ、間違えぬようにせねばならぬ」

「……なるほど」


 司馬昭は小さく笑った。


「父上でも、そういうことあるんですね」

「昭」

「はいはい。失礼しました」


 部屋を出る。

 扉を閉める直前、司馬懿の声が聞こえた。


「……澪里を頼む」


 司馬昭は一瞬、手を止めた。


 その声は、父としてのものか。

 魏の重臣としてのものか。

 それとも、かつて澪里を知った一人の男としてのものか。


 分からなかった。


 けれど。


「任せてください」


 司馬昭は短く答えた。

 今度こそ扉を閉める。


 廊下に出ると、夜気が頬を撫でた。


 今夜はもう屋敷へは帰らない。

 明日、澪里は司馬家へ来る。


 それが何を変えるのかは、まだ分からない。


 ただ、確かなことが一つだけある。

 面倒な日々が始まる。


 司馬昭は軽く伸びをし、誰に言うでもなく呟いた。


「……やっぱり、ろくな奇跡じゃねえな」

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