第11話 司馬家の客人
澪里は司馬昭から目を逸らし、夜空を見上げた。
「それで?俺はまず何をすればいい?」
「今はまだ何も……」
視線を上に向けたまま、澪里は答える。
司馬昭は少しだけ眉を上げたが、無理に食い下がらなかった。
「そっか。じゃあ、今はそれでいい」
「……いいの?」
「おう。けど、忘れんなよ」
司馬昭は低い壁にもたれたまま笑う。
「一人で勝手に諦めんな。見てて後味悪いから」
「何それ」
澪里が少しだけ笑った。
その笑みを見て、司馬昭もようやく肩の力を抜いた。
「じゃ、今日は帰るわ。おやすみ」
「……うん。おやすみ、司馬昭」
澪里に背を向け、城壁を下りる。
そのまま屋敷へ帰るつもりだった。だが、数歩進んだところで足が止まる。
帰って寝る。
それが一番楽だ。
今から司馬懿のもとへ行けば、また面倒な話になる。あの父のことだ。問い詰められるか、逆に刺されるか、そのどちらかだろう。
それでも、司馬昭は踵を返した。
澪里を牢へ戻すのか。
このまま放っておくのか。
司馬懿がどうするつもりなのか、確かめておく必要がある。
「……あー、めんどくせえ」
ぼやきながらも、足は司馬懿の部屋へ向かっていた。
夜はすでに深い。
今さら屋敷へ帰るのも億劫だった。どうせなら、このまま宮中に泊まった方がましだ。
司馬懿も今夜は帰らぬつもりなのだろう。まだ灯りの残る部屋の前で、司馬昭は一度だけ息を吐いた。
「父上、まだ起きてますか」
「……どうした、昭」
中から返ってきた声は、いつも通りだった。
司馬昭は扉を開け、部屋へ入る。
司馬懿は書案に向かっていた。手元には書簡が広げられているが、本当に読んでいるのかは怪しい。筆を持つ指だけが、ゆっくりと止まった。
「澪里と話してきました」
「それで」
「すぐに魏へ付く、なんて約束は取れてません」
「……そうか」
わずかに落ちた声音に、司馬昭は続けた。
「でも、拒まれてもいません。話は聞くそうです」
そこで初めて、司馬懿の視線が書簡から離れた。
「何を言った」
「父上と同じようなことですよ。お前にとっては過去でも、俺たちには今だって」
「……それで?」
「一人で抱えるな、とも言いました」
「昭」
今度こそ、司馬懿が顔を上げた。その目には、はっきりとした警戒が浮かんでいる。
「余計なことは言っていないだろうな」
「余計かどうかは知りませんけど、口説くなら綺麗事だけじゃ無理でしょう」
「口説く、だと?」
「言い方の問題です」
司馬昭は肩をすくめる。
「あいつ、簡単に折れるような女じゃない」
司馬懿はしばらく黙っていた。
それから、低く問う。
「お前は、澪里を魏へ引き込むつもりか」
「そのつもりです」
「お前が?」
「何です、その顔」
「……いや」
司馬懿は小さく息を吐いた。
「軽いようでいて、妙なところで食らいつくと思ってな」
「褒めてます?」
「さあな」
その返しはいつも通りだった。
だが、司馬懿の声には、ほんのわずかに疲れが滲んでいた。
「焦るな。あれは急き立てれば逃げる」
「分かってますよ」
「本当にか?」
「たぶん」
「不安しかないな」
司馬昭はへらりと笑った。
「まあ見ててください。面倒ですけど、やる価値はある」
「……ああ」
司馬懿は再び書簡へ視線を落としかけ、ふと手を止めた。
「澪里は、牢には戻さぬ」
司馬昭は瞬きをする。
「いいんですか」
「牢に置けば余計な噂が立つ。間者として扱えば、いずれ取り調べの名目で余人の目に触れる。そうなれば面倒が増えるだけだ」
「父上が言うと説得力ありますね」
「お前ほど面倒を増やす者も珍しいがな」
「俺、今回けっこう働いてると思うんですけど」
「働いたことと、面倒を増やしたことは両立する」
「ひどい」
司馬懿はそれには答えず、淡々と続けた。
「今夜は宮中に部屋を用意する。郭淮に見張らせる」
「澪里をですか?」
「澪里を、ではない」
司馬懿の目が鋭くなる。
「澪里に近づく者をだ」
司馬昭は、そこでようやく父の意図を理解した。
澪里を閉じ込めるのではなく、守る。
それでも逃げ道は塞ぐ。
司馬懿らしいやり方だった。
「明日、屋敷へ連れて行く」
「司馬家に?」
「ああ。私の客人として預かる」
司馬昭は思わず眉を上げた。
「母上には?」
「明日話す」
「……父上」
「何だ」
「生きて帰ってきてくださいね」
「昭」
司馬懿の声が低くなる。
だが、司馬昭は真顔だった。
「いや、だって母上ですよ。いきなり若い女を客人として屋敷に連れて帰るんでしょう。しかも父上の昔の知り合いで、妙に訳あり」
「余計なことを言うな」
「言わなくても母上は察すると思いますけど」
「……」
司馬懿が珍しく黙った。
司馬昭はその沈黙を見逃さない。
「ほら、父上も不安なんじゃないですか」
「黙れ」
「はい」
即答すると、司馬懿は疲れたように額を押さえた。
「春華には私から話す。お前は余計な口を挟むな」
「俺がいた方が緩衝材になりません?」
「火種の間違いだ」
「信用がない」
「日頃の行いを省みろ」
言い返せず、司馬昭は口を閉じた。
少しだけ沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は先ほどまでの重いものとは違っていた。
司馬懿は書簡を一つ脇へ寄せると、静かに言った。
「澪里を司馬家に置く以上、必ず目が集まる。なぜ預かるのか、どこの者なのか、いずれ誰かが探ろうとするだろう」
「客人、で通せますか」
「通す」
迷いのない声だった。
「司馬懿の客人だ。それ以上詮索する者がいれば、私が黙らせる」
「父上らしいですね」
「だが、それだけでは足りぬ」
司馬懿は司馬昭を見る。
「昭。お前も澪里から目を離すな」
「俺が?」
「お前が引き込むと言ったのだろう」
「言いましたけど」
「ならば責任を持て」
面倒なことになった。
そう思った。
だが、不思議と嫌ではなかった。
牢の中で肉まんを食べていた澪里。
夜の城壁で、まだ信じきれないと言いながら、もう少し話してみてもいいと言った澪里。
その顔を思い出すと、面倒だという言葉だけでは片づけられないものが胸の内に残る。
「分かりましたよ」
司馬昭は小さく息を吐いた。
「ちゃんと見てます」
司馬懿はしばらく司馬昭を見ていた。
その目は、どこか探るようでもあり、少しだけ遠いものを見るようでもあった。
「……しくじるなよ、昭」
「善処します」
「軽い」
「軽く言ってませんよ」
「同じことを何度言わせる」
司馬昭は笑って誤魔化した。
司馬懿はそれ以上追及せず、再び書簡へ視線を落とす。話は終わりらしい。
「では、俺も今日は宮中に泊まります」
「屋敷へ帰らぬのか」
「今さら帰るのも面倒ですし。澪里がいるなら、近くにいた方がいいでしょう」
「随分と熱心だな」
「俺が引き込むって言ったんでしょう」
「……そうだったな」
司馬懿の声が、少しだけ柔らかくなった。
「今夜は休め。明日から騒がしくなる」
「母上の件ですか」
「それもある」
「それも?」
司馬懿は筆を取り直し、ぽつりと言った。
「澪里が戻った時点で、静かなままで済むはずがない」
司馬昭はそれを聞いて、少しだけ肩をすくめた。
「でしょうね」
そして、扉へ向かう。
出ていく直前、司馬昭はふと振り返った。
「父上」
「何だ」
「澪里を客人にするのは、魏のためですか。それとも、父上の私情ですか」
司馬懿の筆が止まった。
だが、今度はすぐに答えが返ってくる。
「どちらもだ」
司馬昭は少しだけ目を丸くした。
そんなにはっきり認めるとは思わなかった。
司馬懿は顔を上げないまま続ける。
「だからこそ、間違えぬようにせねばならぬ」
「……なるほど」
司馬昭は小さく笑った。
「父上でも、そういうことあるんですね」
「昭」
「はいはい。失礼しました」
部屋を出る。
扉を閉める直前、司馬懿の声が聞こえた。
「……澪里を頼む」
司馬昭は一瞬、手を止めた。
その声は、父としてのものか。
魏の重臣としてのものか。
それとも、かつて澪里を知った一人の男としてのものか。
分からなかった。
けれど。
「任せてください」
司馬昭は短く答えた。
今度こそ扉を閉める。
廊下に出ると、夜気が頬を撫でた。
今夜はもう屋敷へは帰らない。
明日、澪里は司馬家へ来る。
それが何を変えるのかは、まだ分からない。
ただ、確かなことが一つだけある。
面倒な日々が始まる。
司馬昭は軽く伸びをし、誰に言うでもなく呟いた。
「……やっぱり、ろくな奇跡じゃねえな」




