第12話 取られた部下
朝。
司馬昭は目を覚ましたものの、すぐには動く気になれず、そのまま寝台の上でぼんやりと天井を眺めていた。
昨夜は久々に頭を使った。
司馬懿と澪里の関係。
彼女が知っているはずのない名。
父が隠しているらしい過去。
考えれば考えるほど面倒で、けれど考えずにはいられなかった。
疲労と安心感からか、最後はそのまま宮中に泊まってしまった。
「あれ……?」
窓から差し込む光に目を細める。
陽は高い。
もう昼に近いかもしれない。
それなのに、王元姫が起こしに来ない。
責任感の強いあの男に限って、役目を怠ることはないだろう。いつもなら、そろそろ冷ややかな声で叩き起こされている頃だ。
なのに、今日は静かだった。妙に静かすぎる。
「……調子狂うな」
起こされないなら起きなければいい。
そう思う一方で、起こされないことが逆に落ち着かない。
司馬昭は小さく息を吐き、ようやく寝台から起き上がった。
「……おはようございます。起きてますか、兄上?」
どこかもやもやした気持ちを抱えたまま、司馬昭は司馬師の執務室を訪れた。
「兄上……?」
司馬師は窓辺に立ち、外を眺めていた。
呼びかけても反応がない。
珍しい。
司馬昭が近づき、肩に軽く触れると、司馬師はようやくこちらを振り向いた。
「……昭か」
「おはようございます、兄上。何をそんなにぼーっとしてるんですか?もしかして昨夜は羽目を外しすぎて――いや、なんでもありません」
司馬師の視線が冷えたので、司馬昭はすぐに言葉を引っ込めた。
「ちょうどいいところに来たな、昭」
司馬師は何事もなかったように机へ目を向ける。その先には、大量の書簡が積まれていた。
「何ですか、それ」
「今朝、元姫からお前へと預かった。今日一日の執務だそうだ」
「……まじでこの量を?」
司馬昭は思わず顔をしかめた。
朝起こしに来ないと思ったら、まさかこんな仕打ちを用意していたとは。
「ところで俺、今日まだ元姫に会ってないんですけど」
「不甲斐ないお前の世話に飽いたのかもしれぬな」
「う……」
思い当たる節がありすぎて、何も言い返せない。
そのまま視線を逸らすように窓の外を見る。そして、ふと動きを止めた。
「え……」
庭先に、ひとりの女がいた。
「澪里……?」
そこにいたのは、昨日出逢った女とはまるで別人のようだった。
深紅と黒を基調にした衣をまとい、髪はきちんと結い上げられている。歩くたびに耳飾りが揺れ、そのたびに光を弾いた。
昨日のように屋根から落ちたり、馬を奪って逃げたりする女には見えない。
いや、同じ女だと分かっている。
分かっているのに、司馬昭は一瞬、言葉を失った。胸の奥が、妙に跳ねる。
「身なりを正せば、それなりに見えるものだな」
隣で司馬師が淡々と言った。
「兄上、それなりって……」
「限界はあるが、それ相応に評価できる」
「意味は知ってますよ」
司馬師の容赦のない物言いに、司馬昭は苦笑した。だが、その司馬師もまた、さっきまで窓の外を見ていたのだ。
どう見ても、彼女に目を向けていた。
「まあ、母上には負けますかね?」
「母上が絶世の美女だと?」
「いや、母上もそれなりですけどね」
「そうか。本人に言っておこう」
「い、今のは単なる言葉の綾ですよ……兄上、可愛い弟がどうなってもいいんですか」
「知らぬな」
そっぽを向く司馬師に、司馬昭は愕然とした。
「俺の天命は終わるかもしれない……」
張春華にそんなことが伝われば、無事では済まない。
ため息を吐き、司馬昭は再び窓の外へ目を向ける。
澪里の近くには、夏侯覇と鐘会の姿もあった。三人で何やら話している。夏侯覇は真面目な顔をしているし、鐘会はどこか興味深げに澪里を見ている。
それが、また妙に気に入らなかった。
「何を話してるんですかね」
「気になるか、昭」
「気になっているのは兄上の方じゃありませんか?」
言った瞬間、司馬師の目がこちらへ向いた。
「――いえ、なんでもないです」
司馬昭は即座に撤回した。
その時、扉が叩かれた。
「失礼します。子元殿、先ほどの――」
「よぉ、元姫」
現れた王元姫に、司馬昭は片手を上げた。
「今朝、来なかったな」
「仕事で忙しいので」
「俺より優先する仕事って何!?」
「子元殿。先ほどの続きです」
司馬昭の問いは、完全に無視された。
王元姫は抱えていた数本の書簡を、机の上に置く。
「何だそれ」
「子上殿の今日の執務です。これは追加分」
「じょ、冗談……こんなにできねぇって」
先ほどの書簡だけでも気が滅入る量だった。そこへさらに追加とは。
鬼だ。
この男、本当に容赦がない。
「ちゃんと仕事してくださいね、子上殿。手伝いは、私の気分によってはやりますから」
「いや、手伝うとかいう問題じゃなくて……てか、気分によるのかよ」
「私、今日は子上殿のお守りはお休みをもらっております」
「え……?」
司馬昭は思わず固まった。
王元姫は、どこか晴れやかな顔で言う。
「今日は、司馬懿殿から澪里殿のことを頼まれています」
“司馬懿殿から”という部分を、妙に強調した。
まるで、これは正式な仕事だから文句を言うな、とでも言うように。
「澪里……!?」
司馬昭は窓の外を見る。そして、王元姫に視線を戻した。
「なんでお前が……あいつの何を任されたんだ?」
「服を整えたり、髪を結ったり、お茶をしながら話をしたり」
「は?」
司馬昭は素で声を漏らした。
「お前が?」
「何か問題でも?」
「いや、問題っていうか……」
女っ気のない王元姫が、女の髪を結って、服を整えて、茶を飲みながら話す。
想像がつかない。
いや、想像すると妙に腹立たしい。
「それに、澪里殿の衣はひとまず私が用意したものです。乱れれば直す必要があります」
「お前が用意した?」
「ええ。司馬懿殿に頼まれましたので」
「……何でお前がそんなもの持ってるんだよ」
「家にあったものです」
王元姫は平然と答えた。
それ以上説明する気はないらしい。
司馬昭は首を傾げた。
王家の誰かの衣だろうか。それにしては、澪里の身体に妙に合っている気もする。
いや、気にするところはそこではない。
「……そろそろ澪里殿のところに戻らないと」
王元姫はそう言うと、わずかに表情を和らげた。
楽しそうだった。
明らかに、楽しそうだった。
そして足取りも軽い。
「では、失礼します」
王元姫はさっさと部屋を出ていった。
扉が閉まる。
司馬昭はしばらく、その扉を見つめていた。
「……何を張り切ってるんだ。俺の監視はどうした」
「どうやら本当に、お前のお守りに飽いたようだな」
「兄上……傷つくのでやめてください……」
司馬昭は机の上の書簡を見る。
大量の仕事。
置き去りにされた自分。
楽しそうに澪里のもとへ戻っていった王元姫。
なんだこれは。
「宮中で働く女官とは違うからな」
司馬師が静かに言った。
「澪里のような女は、元姫にとっても新鮮なのだろう」
「そんなもんですかね」
司馬昭は窓の外を見る。
澪里は相変わらず、夏侯覇たちと何か話している。そこへ王元姫が戻っていく。
澪里が王元姫に気づき、少し笑った。
王元姫も、いつもより柔らかい顔で何かを返している。
司馬昭の胸の奥に、また妙なものが引っかかった。
同性である自分と、異性である澪里では、やはり違うのか。
王元姫が、あんなふうに興味を示すとは思わなかった。
それに。
なぜだか知らないが、面白くない。
「まさか、新入りに部下を取られるとはなぁ……」
司馬昭は王元姫が出ていった扉を見つめ、深くため息を吐いた。
机の上には、山のような仕事。
窓の外には、着飾った澪里。
そして自分の部下は、そちらへ行ってしまった。
「……ほんと、ついてねぇ」
そう呟いた司馬昭に、司馬師はただ薄く笑った。




