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三國残夢  作者: 仄か
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13/19

第12話 取られた部下

 朝。


 司馬昭は目を覚ましたものの、すぐには動く気になれず、そのまま寝台の上でぼんやりと天井を眺めていた。


 昨夜は久々に頭を使った。


 司馬懿と澪里の関係。

 彼女が知っているはずのない名。

 父が隠しているらしい過去。


 考えれば考えるほど面倒で、けれど考えずにはいられなかった。


 疲労と安心感からか、最後はそのまま宮中に泊まってしまった。


「あれ……?」


 窓から差し込む光に目を細める。


 陽は高い。

 もう昼に近いかもしれない。


 それなのに、王元姫が起こしに来ない。


 責任感の強いあの男に限って、役目を怠ることはないだろう。いつもなら、そろそろ冷ややかな声で叩き起こされている頃だ。


 なのに、今日は静かだった。妙に静かすぎる。


「……調子狂うな」


 起こされないなら起きなければいい。

 そう思う一方で、起こされないことが逆に落ち着かない。


 司馬昭は小さく息を吐き、ようやく寝台から起き上がった。


「……おはようございます。起きてますか、兄上?」


 どこかもやもやした気持ちを抱えたまま、司馬昭は司馬師の執務室を訪れた。


「兄上……?」


 司馬師は窓辺に立ち、外を眺めていた。

 呼びかけても反応がない。


 珍しい。


 司馬昭が近づき、肩に軽く触れると、司馬師はようやくこちらを振り向いた。


「……昭か」

「おはようございます、兄上。何をそんなにぼーっとしてるんですか?もしかして昨夜は羽目を外しすぎて――いや、なんでもありません」


 司馬師の視線が冷えたので、司馬昭はすぐに言葉を引っ込めた。


「ちょうどいいところに来たな、昭」


 司馬師は何事もなかったように机へ目を向ける。その先には、大量の書簡が積まれていた。


「何ですか、それ」

「今朝、元姫からお前へと預かった。今日一日の執務だそうだ」

「……まじでこの量を?」


 司馬昭は思わず顔をしかめた。


 朝起こしに来ないと思ったら、まさかこんな仕打ちを用意していたとは。


「ところで俺、今日まだ元姫に会ってないんですけど」

「不甲斐ないお前の世話に飽いたのかもしれぬな」

「う……」


 思い当たる節がありすぎて、何も言い返せない。

 そのまま視線を逸らすように窓の外を見る。そして、ふと動きを止めた。


「え……」


 庭先に、ひとりの女がいた。


「澪里……?」


 そこにいたのは、昨日出逢った女とはまるで別人のようだった。


 深紅と黒を基調にした衣をまとい、髪はきちんと結い上げられている。歩くたびに耳飾りが揺れ、そのたびに光を弾いた。


 昨日のように屋根から落ちたり、馬を奪って逃げたりする女には見えない。


 いや、同じ女だと分かっている。


 分かっているのに、司馬昭は一瞬、言葉を失った。胸の奥が、妙に跳ねる。


「身なりを正せば、それなりに見えるものだな」


 隣で司馬師が淡々と言った。


「兄上、それなりって……」

「限界はあるが、それ相応に評価できる」

「意味は知ってますよ」


 司馬師の容赦のない物言いに、司馬昭は苦笑した。だが、その司馬師もまた、さっきまで窓の外を見ていたのだ。


 どう見ても、彼女に目を向けていた。


「まあ、母上には負けますかね?」

「母上が絶世の美女だと?」

「いや、母上もそれなりですけどね」

「そうか。本人に言っておこう」

「い、今のは単なる言葉の綾ですよ……兄上、可愛い弟がどうなってもいいんですか」

「知らぬな」


 そっぽを向く司馬師に、司馬昭は愕然とした。


「俺の天命は終わるかもしれない……」


 張春華にそんなことが伝われば、無事では済まない。


 ため息を吐き、司馬昭は再び窓の外へ目を向ける。

 澪里の近くには、夏侯覇と鐘会の姿もあった。三人で何やら話している。夏侯覇は真面目な顔をしているし、鐘会はどこか興味深げに澪里を見ている。


 それが、また妙に気に入らなかった。


「何を話してるんですかね」

「気になるか、昭」

「気になっているのは兄上の方じゃありませんか?」


 言った瞬間、司馬師の目がこちらへ向いた。


「――いえ、なんでもないです」


 司馬昭は即座に撤回した。


 その時、扉が叩かれた。


「失礼します。子元殿、先ほどの――」

「よぉ、元姫」


 現れた王元姫に、司馬昭は片手を上げた。


「今朝、来なかったな」

「仕事で忙しいので」

「俺より優先する仕事って何!?」

「子元殿。先ほどの続きです」


 司馬昭の問いは、完全に無視された。


 王元姫は抱えていた数本の書簡を、机の上に置く。


「何だそれ」

「子上殿の今日の執務です。これは追加分」

「じょ、冗談……こんなにできねぇって」


 先ほどの書簡だけでも気が滅入る量だった。そこへさらに追加とは。


 鬼だ。


 この男、本当に容赦がない。


「ちゃんと仕事してくださいね、子上殿。手伝いは、私の気分によってはやりますから」

「いや、手伝うとかいう問題じゃなくて……てか、気分によるのかよ」

「私、今日は子上殿のお守りはお休みをもらっております」

「え……?」


 司馬昭は思わず固まった。


 王元姫は、どこか晴れやかな顔で言う。


「今日は、司馬懿殿から澪里殿のことを頼まれています」


 “司馬懿殿から”という部分を、妙に強調した。

 まるで、これは正式な仕事だから文句を言うな、とでも言うように。


「澪里……!?」


 司馬昭は窓の外を見る。そして、王元姫に視線を戻した。


「なんでお前が……あいつの何を任されたんだ?」

「服を整えたり、髪を結ったり、お茶をしながら話をしたり」

「は?」


 司馬昭は素で声を漏らした。


「お前が?」

「何か問題でも?」

「いや、問題っていうか……」


 女っ気のない王元姫が、女の髪を結って、服を整えて、茶を飲みながら話す。


 想像がつかない。


 いや、想像すると妙に腹立たしい。


「それに、澪里殿の衣はひとまず私が用意したものです。乱れれば直す必要があります」

「お前が用意した?」

「ええ。司馬懿殿に頼まれましたので」

「……何でお前がそんなもの持ってるんだよ」

「家にあったものです」


 王元姫は平然と答えた。

 それ以上説明する気はないらしい。


 司馬昭は首を傾げた。

 王家の誰かの衣だろうか。それにしては、澪里の身体に妙に合っている気もする。


 いや、気にするところはそこではない。


「……そろそろ澪里殿のところに戻らないと」


 王元姫はそう言うと、わずかに表情を和らげた。


 楽しそうだった。

 明らかに、楽しそうだった。


 そして足取りも軽い。


「では、失礼します」


 王元姫はさっさと部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 司馬昭はしばらく、その扉を見つめていた。


「……何を張り切ってるんだ。俺の監視はどうした」

「どうやら本当に、お前のお守りに飽いたようだな」

「兄上……傷つくのでやめてください……」


 司馬昭は机の上の書簡を見る。


 大量の仕事。

 置き去りにされた自分。

 楽しそうに澪里のもとへ戻っていった王元姫。


 なんだこれは。


「宮中で働く女官とは違うからな」


 司馬師が静かに言った。


「澪里のような女は、元姫にとっても新鮮なのだろう」

「そんなもんですかね」


 司馬昭は窓の外を見る。

 澪里は相変わらず、夏侯覇たちと何か話している。そこへ王元姫が戻っていく。


 澪里が王元姫に気づき、少し笑った。

 王元姫も、いつもより柔らかい顔で何かを返している。


 司馬昭の胸の奥に、また妙なものが引っかかった。


 同性である自分と、異性である澪里では、やはり違うのか。

 王元姫が、あんなふうに興味を示すとは思わなかった。


 それに。


 なぜだか知らないが、面白くない。


「まさか、新入りに部下を取られるとはなぁ……」


 司馬昭は王元姫が出ていった扉を見つめ、深くため息を吐いた。


 机の上には、山のような仕事。

 窓の外には、着飾った澪里。

 そして自分の部下は、そちらへ行ってしまった。


「……ほんと、ついてねぇ」


 そう呟いた司馬昭に、司馬師はただ薄く笑った。

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