第13話 簾越しの視線
結局、澪里は司馬家に留まることになった。
父は、あまりにもあっさりとそれを決めた。
「しばらくは客人として置く」
それだけだった。
それだけで済むはずがないだろう、と司馬昭は思ったが、父がそう言った以上、屋敷の者たちは従うしかない。ましてや澪里は、どこから来たのかも、何者なのかもよく分からない。分からないくせに、父は何かを察しているような顔をしていた。
あの顔が一番厄介だ。
何も知らない者の顔ではない。
だが、すべてを語る気もない者の顔だ。
「宮中のことは王元姫に任せる」
父の言葉に、王元姫が静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
相変わらず、返事だけは隙がない。まるで最初から決まっていたような顔をしている。
司馬昭は嫌な予感がした。
こういう時の予感は、大抵当たる。
「屋敷でのことは昭、お前が見ろ」
「……は?俺が、ですか?」
思わず声が出た。
父の目がこちらを向く。
「不満か」
「いや、不満というか……何で俺なんですか」
「お前が拾った」
「拾ったわけじゃありません。勝手に落ちてきたんです」
「同じことだ」
「全然違うでしょう」
司馬昭は思わず顔をしかめた。
「宮中での振る舞いは王元姫に任せる。だが、司馬家の内でのことはお前に任せる」
「何で俺なんですか」
「師は忙しい。春華に任せれば、あの娘が息をする暇もなくなる」
「母上を何だと思ってるんですか」
「事実を言っている」
反論できなかった。
「それに、お前ならば多少の無礼も流せるだろう」
「褒められてます?」
「便利だと言っている」
「ひどいな」
司馬懿は表情を変えず、淡々と続けた。
「あの娘の事情は、お前も分かっているだろう。何を知り、何を隠しているか分からぬ。目を離すな」
「監視ですか」
「世話だ」
「今、完全に監視の意味で言いましたよね」
「昭」
「はいはい。分かりましたよ」
司馬昭は面倒そうに頭をかいた。
「……面倒ごとを増やすの、父上好きですよね」
「面倒ごとを避けてばかりいるお前には、ちょうどよい」
隣で王元姫が、わずかにこちらを見る。その表情は涼しい。だが目だけが、どこか面白がっているように見えた。
「宮中の作法や人の顔ぶれについては、私がご説明いたします。ですが司馬家で過ごす上での細かなことは、子上殿が適任かと」
「どこがだよ」
「最も暇そうですので」
「おい」
澪里が小さく吹き出した。
それを見て、司馬昭はさらに渋い顔になる。
「笑うな。お前の話だぞ」
「ごめん。でも、ちょっと安心した」
「何が」
「知らない場所で、誰に聞けばいいか分からないよりは、ずっといい」
そう言われると、返す言葉に困った。
この女は時々、妙なところで素直だ。
怯えているのかと思えば平気な顔をするし、図太いのかと思えば急に心細そうな目をする。
面倒だ。
とても面倒だ。
だが、放っておいたらもっと面倒なことになる気がした。
その翌朝、さらに面倒なことが増えた。
「子上」
母に呼ばれた時点で、司馬昭は逃げるべきだった。
だが逃げ損ねた。
張春華は、澪里の頭の先から足元までを一瞥し、それから司馬昭を見た。
「そのままで屋敷に置いておくつもりですか」
「そのままって?」
「衣です。履物です。櫛も、帯も、身の回りのものも足りていません」
「ああ……」
言われてみれば、確かにそうだった。
澪里はこの時代の者ではない。着ているものも、司馬家にいるにはどうにも浮いている。昨日は騒ぎが大きすぎて誰もそこまで手が回らなかったが、いつまでもそのままというわけにはいかない。
「揃えてきなさい」
「俺が?」
「あなたが」
「いや、女物ですよ。俺に分かるわけないでしょう」
「ならば、あなたは何のためにその娘の世話を任されたのです」
「父上に押し付けられたからだよ」
「ならば、押し付けられた務めを果たしなさい」
言い返せなかった。
母は強い。
父とは違う意味で、逆らうだけ無駄な人だった。
結局、司馬昭は澪里を連れて洛陽の街へ出ることになった。
王元姫は宮中へ向かう用があるらしく、当然のようにこちらには付き合わない。
「子上殿。あまり目を離されませんよう」
「子供じゃねぇんだから」
「子供より危なっかしい可能性があります」
「お前な」
澪里が少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「気をつけます」
「気をつけるって言う奴ほど気をつけねぇんだよ」
「司馬昭って、意外と心配性だね」
「違う。面倒ごとを増やされたくないだけだ」
そう言うと、澪里はまた笑った。
洛陽の街は朝から賑わっていた。
露店には布が並び、香の匂いが風に混じる。馬の蹄の音、人の話し声、遠くから聞こえる荷車の軋み。澪里は見るものすべてが珍しいらしく、右を見て、左を見て、時々足を止める。
「おい、急に止まるな」
「だって、あれ何?」
「菓子だろ」
「あれは?」
「布」
「あれは?」
「見りゃ分かるだろ、魚だよ」
「魚、あんなふうに売るんだ……」
「未来では泳いだまま売るのか?」
「そういうわけじゃないけど」
会話をしながら歩いていると、不意に前方の人波が割れた。
司馬昭はすぐに気づいた。
輿だ。
身分ある者が乗るものだ。供の者が先に立ち、道を空けるように声をかけている。周囲の者たちは慣れた様子で脇へ寄った。
だが、澪里は一拍遅れた。
「こっちだ」
司馬昭が腕を伸ばした、その瞬間。
誰かが横から澪里の腕を掴み、強く引いた。
「危ない!」
澪里の身体が、司馬昭の目の前でぐらりと傾く。だが倒れる前に、若い男が彼女を支えていた。
輿を担ぐ者たちが慌てて足を止める。
木枠が軋み、供の者が声を上げた。急に止まったせいで、輿の片側が道の窪みに落ちたらしい。がくんと傾き、中の簾が大きく揺れた。
その一瞬だった。
簾の奥から、女の顔が覗いた。
白い指が簾の端を掴んでいる。
整った面差し。
静かな目。
だがその目が、ほんのわずかに揺れた。
男と、視線が合っていた。
男はすぐに澪里から手を離し、輿に向かって深く頭を下げた。
「ご無礼をいたしました。ですが、この方に怪我はございません」
その声は落ち着いていた。
騒ぎの中でも、取り乱していない。
身分ある者への礼を忘れず、それでいて助けた相手を後回しにもしていない。
簾の向こうの女が、少しだけ目を伏せた。
「……そうですか。よかった」
柔らかな声だった。
澪里は慌てて頭を下げる。
「す、すみません!私がぼんやりしてて……!」
「怪我はありませんか」
「はい、大丈夫です。本当にごめんなさい」
その時、輿を担いでいた者の一人が困ったように声を上げた。
「申し訳ございません、片側が窪みに嵌っております」
「すぐに動かせるか」
「人手を借りれば、何とか」
供の者たちが慌ただしく動き出す。
司馬昭は額に手を当てた。
「……あーあ」
「司馬昭、ごめん」
「謝る相手が多すぎるんだよ、お前は」
面倒だ。
面倒だが、ここで知らん顔もできない。
司馬昭は袖をまくると、輿の方へ歩いた。
「手伝えばいいんだろ」
男もすでに輿の横へ回っていた。
「こちらを持ち上げれば、抜けるはずです」
「見りゃ分かる」
司馬昭がそう返すと、男は一瞬こちらを見て、少しだけ笑った。
「では、そちらを」
「指図が早いな」
「こういう時は早い方がよろしいかと」
「正論言う奴は嫌いだ」
男はさらに笑った。
周囲の男たちも加わり、輿の片側を押し上げる。輿を担ぐ者たちが息を合わせ、窪みに嵌った部分を引き抜いた。
思ったより重い。
司馬昭は思わず顔をしかめた。
「これ、乗ってる方は楽だろうけど、担ぐ方は地獄だな」
供の者の一人がぎょっとした顔をする。
しまった。
声に出ていた。
澪里が横で小さく笑いを噛み殺している。
「笑うな」
「ごめん」
ようやく輿がまっすぐに戻ると、辺りに安堵の息が漏れた。
その時、簾が内側から持ち上げられた。中の女が、ゆっくりと外へ出てくる。
供の者たちが慌てて頭を下げた。
「姫様、お下がりください」
「構いません。私の輿が騒ぎを起こしたのです」
女は静かにそう言った。
近くで見ると、なおさら美しい人だった。
派手ではない。けれど、立っているだけで周囲の空気が整うような人だった。
司馬昭は、厄介そうな女だな、と思った。
美しいものには、大抵厄介な事情がついて回る。
母上がそうだ。
澪里も、すでに十分そうだ。
目の前の女も、おそらくその類だ。
女はまず澪里に向き直った。
「驚かせてしまいましたね」
「いえ、私が悪いんです。本当にすみません」
「怪我がないなら、それで十分です」
それから、司馬昭にも目を向ける。
「手を貸してくださり、ありがとうございました」
「たいしたことじゃない。こいつが迷惑かけたのもあるし」
「司馬昭!」
「事実だろ」
澪里が慌てて袖を引く。
女は小さく笑った。その笑みは控えめだったが、どこか楽しそうでもあった。
「率直な方ですね」
「よく言われる」
「褒めてはいないと思うよ」
澪里に小声で刺され、司馬昭はそっぽを向いた。
女の視線が、最後に男へ移る。さっき澪里を助けた男だ。
男は一歩下がり、再び礼を取った。
「姫様にお怪我がなく、何よりにございます」
「あなたにも、迷惑をかけました」
「いえ。私がしたことは、目の前の危ういものに手を伸ばしただけです」
女は、その言葉を聞いて少し黙った。
ほんのわずかな沈黙だった。
けれど司馬昭は、妙にその間が気になった。
「……お名前を伺っても?」
女が静かに尋ねる。
男はわずかに迷ったようだった。だがすぐに、深く頭を下げる。
「名乗るほどの者ではございません」
「そうですか」
女はそれ以上、追わなかった。
ただ、その目はまだ男を見ていた。まるで、簾越しの一瞬を確かめるように。
司馬昭は眉を寄せた。
何だ、この空気。
面倒なものを見た気がする。
「行くぞ」
司馬昭は澪里の袖を軽く引いた。
「え、もう?」
「買い物が終わってない。母上に怒られる」
「あ、それは困る」
「だろ」
澪里はもう一度、女と男に頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
男は穏やかに頷いた。
「お気をつけて」
女もまた、柔らかく微笑んだ。
「どうか、よい一日を」
司馬昭は軽く手を挙げただけで、その場を離れた。
少し歩いてから、澪里が振り返る。
「綺麗な人だったね」
「そうだな」
「助けてくれた人も、いい人だった」
「そうだな」
「司馬昭、興味なさそう」
「知らない奴に興味持ってどうすんだよ」
「でも、ちょっと気にしてたでしょ」
司馬昭は黙った。
気にしていた。
あの女の目。
あの男の礼の仕方。
簾が揺れた一瞬。
妙に、引っかかった。
だがそれを言うのも癪で、司馬昭はいつものように肩をすくめる。
「お前がまた妙なことに巻き込まれそうだからな」
「私のせい?」
「今のところ全部お前のせいだ」
「ひどい」
「事実だ」
澪里はむっとした顔をしたが、すぐに笑った。
その笑顔を見て、司馬昭は小さく息を吐く。
まったく、面倒な女だ。
だがこの時の司馬昭は、まだ知らなかった。
簾の揺れの向こうで交わった、ほんの一瞬の視線。
それが、ただの街の騒ぎでは終わらないことを。
ひとりの女の運命を静かに傾け、やがて司馬家の内側にまで影を落とすことを。




