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三國残夢  作者: 仄か
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14/19

第13話 簾越しの視線

 結局、澪里は司馬家に留まることになった。


 父は、あまりにもあっさりとそれを決めた。


「しばらくは客人として置く」


 それだけだった。


 それだけで済むはずがないだろう、と司馬昭は思ったが、父がそう言った以上、屋敷の者たちは従うしかない。ましてや澪里は、どこから来たのかも、何者なのかもよく分からない。分からないくせに、父は何かを察しているような顔をしていた。


 あの顔が一番厄介だ。


 何も知らない者の顔ではない。

 だが、すべてを語る気もない者の顔だ。


「宮中のことは王元姫に任せる」


 父の言葉に、王元姫が静かに頭を下げた。


「承知いたしました」


 相変わらず、返事だけは隙がない。まるで最初から決まっていたような顔をしている。


 司馬昭は嫌な予感がした。

 こういう時の予感は、大抵当たる。


「屋敷でのことは昭、お前が見ろ」

「……は?俺が、ですか?」


 思わず声が出た。

 父の目がこちらを向く。


「不満か」

「いや、不満というか……何で俺なんですか」

「お前が拾った」

「拾ったわけじゃありません。勝手に落ちてきたんです」

「同じことだ」

「全然違うでしょう」


 司馬昭は思わず顔をしかめた。


「宮中での振る舞いは王元姫に任せる。だが、司馬家の内でのことはお前に任せる」

「何で俺なんですか」

「師は忙しい。春華に任せれば、あの娘が息をする暇もなくなる」

「母上を何だと思ってるんですか」

「事実を言っている」


 反論できなかった。


「それに、お前ならば多少の無礼も流せるだろう」

「褒められてます?」

「便利だと言っている」

「ひどいな」


 司馬懿は表情を変えず、淡々と続けた。


「あの娘の事情は、お前も分かっているだろう。何を知り、何を隠しているか分からぬ。目を離すな」

「監視ですか」

「世話だ」

「今、完全に監視の意味で言いましたよね」

「昭」

「はいはい。分かりましたよ」


 司馬昭は面倒そうに頭をかいた。


「……面倒ごとを増やすの、父上好きですよね」

「面倒ごとを避けてばかりいるお前には、ちょうどよい」


 隣で王元姫が、わずかにこちらを見る。その表情は涼しい。だが目だけが、どこか面白がっているように見えた。


「宮中の作法や人の顔ぶれについては、私がご説明いたします。ですが司馬家で過ごす上での細かなことは、子上殿が適任かと」

「どこがだよ」

「最も暇そうですので」

「おい」


 澪里が小さく吹き出した。

 それを見て、司馬昭はさらに渋い顔になる。


「笑うな。お前の話だぞ」

「ごめん。でも、ちょっと安心した」

「何が」

「知らない場所で、誰に聞けばいいか分からないよりは、ずっといい」


 そう言われると、返す言葉に困った。


 この女は時々、妙なところで素直だ。

 怯えているのかと思えば平気な顔をするし、図太いのかと思えば急に心細そうな目をする。


 面倒だ。

 とても面倒だ。


 だが、放っておいたらもっと面倒なことになる気がした。


 その翌朝、さらに面倒なことが増えた。


「子上」


 母に呼ばれた時点で、司馬昭は逃げるべきだった。


 だが逃げ損ねた。


 張春華は、澪里の頭の先から足元までを一瞥し、それから司馬昭を見た。


「そのままで屋敷に置いておくつもりですか」

「そのままって?」

「衣です。履物です。櫛も、帯も、身の回りのものも足りていません」

「ああ……」


 言われてみれば、確かにそうだった。


 澪里はこの時代の者ではない。着ているものも、司馬家にいるにはどうにも浮いている。昨日は騒ぎが大きすぎて誰もそこまで手が回らなかったが、いつまでもそのままというわけにはいかない。


「揃えてきなさい」

「俺が?」

「あなたが」

「いや、女物ですよ。俺に分かるわけないでしょう」

「ならば、あなたは何のためにその娘の世話を任されたのです」

「父上に押し付けられたからだよ」

「ならば、押し付けられた務めを果たしなさい」


 言い返せなかった。


 母は強い。


 父とは違う意味で、逆らうだけ無駄な人だった。


 結局、司馬昭は澪里を連れて洛陽の街へ出ることになった。

 王元姫は宮中へ向かう用があるらしく、当然のようにこちらには付き合わない。


「子上殿。あまり目を離されませんよう」

「子供じゃねぇんだから」

「子供より危なっかしい可能性があります」

「お前な」


 澪里が少しだけ申し訳なさそうに笑った。


「気をつけます」

「気をつけるって言う奴ほど気をつけねぇんだよ」

「司馬昭って、意外と心配性だね」

「違う。面倒ごとを増やされたくないだけだ」


 そう言うと、澪里はまた笑った。


 洛陽の街は朝から賑わっていた。


 露店には布が並び、香の匂いが風に混じる。馬の蹄の音、人の話し声、遠くから聞こえる荷車の軋み。澪里は見るものすべてが珍しいらしく、右を見て、左を見て、時々足を止める。


「おい、急に止まるな」

「だって、あれ何?」

「菓子だろ」

「あれは?」

「布」

「あれは?」

「見りゃ分かるだろ、魚だよ」

「魚、あんなふうに売るんだ……」

「未来では泳いだまま売るのか?」

「そういうわけじゃないけど」


 会話をしながら歩いていると、不意に前方の人波が割れた。


 司馬昭はすぐに気づいた。


 輿だ。


 身分ある者が乗るものだ。供の者が先に立ち、道を空けるように声をかけている。周囲の者たちは慣れた様子で脇へ寄った。


 だが、澪里は一拍遅れた。


「こっちだ」


 司馬昭が腕を伸ばした、その瞬間。

 誰かが横から澪里の腕を掴み、強く引いた。


「危ない!」


 澪里の身体が、司馬昭の目の前でぐらりと傾く。だが倒れる前に、若い男が彼女を支えていた。


 輿を担ぐ者たちが慌てて足を止める。

 木枠が軋み、供の者が声を上げた。急に止まったせいで、輿の片側が道の窪みに落ちたらしい。がくんと傾き、中の簾が大きく揺れた。


 その一瞬だった。


 簾の奥から、女の顔が覗いた。


 白い指が簾の端を掴んでいる。


 整った面差し。

 静かな目。

 だがその目が、ほんのわずかに揺れた。


 男と、視線が合っていた。


 男はすぐに澪里から手を離し、輿に向かって深く頭を下げた。


「ご無礼をいたしました。ですが、この方に怪我はございません」


 その声は落ち着いていた。

 騒ぎの中でも、取り乱していない。


 身分ある者への礼を忘れず、それでいて助けた相手を後回しにもしていない。


 簾の向こうの女が、少しだけ目を伏せた。


「……そうですか。よかった」


 柔らかな声だった。


 澪里は慌てて頭を下げる。


「す、すみません!私がぼんやりしてて……!」

「怪我はありませんか」

「はい、大丈夫です。本当にごめんなさい」


 その時、輿を担いでいた者の一人が困ったように声を上げた。


「申し訳ございません、片側が窪みに嵌っております」

「すぐに動かせるか」

「人手を借りれば、何とか」


 供の者たちが慌ただしく動き出す。


 司馬昭は額に手を当てた。


「……あーあ」

「司馬昭、ごめん」

「謝る相手が多すぎるんだよ、お前は」


 面倒だ。


 面倒だが、ここで知らん顔もできない。


 司馬昭は袖をまくると、輿の方へ歩いた。


「手伝えばいいんだろ」


 男もすでに輿の横へ回っていた。


「こちらを持ち上げれば、抜けるはずです」

「見りゃ分かる」


 司馬昭がそう返すと、男は一瞬こちらを見て、少しだけ笑った。


「では、そちらを」

「指図が早いな」

「こういう時は早い方がよろしいかと」

「正論言う奴は嫌いだ」


 男はさらに笑った。


 周囲の男たちも加わり、輿の片側を押し上げる。輿を担ぐ者たちが息を合わせ、窪みに嵌った部分を引き抜いた。


 思ったより重い。


 司馬昭は思わず顔をしかめた。


「これ、乗ってる方は楽だろうけど、担ぐ方は地獄だな」


 供の者の一人がぎょっとした顔をする。


 しまった。


 声に出ていた。


 澪里が横で小さく笑いを噛み殺している。


「笑うな」

「ごめん」


 ようやく輿がまっすぐに戻ると、辺りに安堵の息が漏れた。


 その時、簾が内側から持ち上げられた。中の女が、ゆっくりと外へ出てくる。


 供の者たちが慌てて頭を下げた。


「姫様、お下がりください」

「構いません。私の輿が騒ぎを起こしたのです」


 女は静かにそう言った。


 近くで見ると、なおさら美しい人だった。


 派手ではない。けれど、立っているだけで周囲の空気が整うような人だった。


 司馬昭は、厄介そうな女だな、と思った。


 美しいものには、大抵厄介な事情がついて回る。

 母上がそうだ。

 澪里も、すでに十分そうだ。


 目の前の女も、おそらくその類だ。


 女はまず澪里に向き直った。


「驚かせてしまいましたね」

「いえ、私が悪いんです。本当にすみません」

「怪我がないなら、それで十分です」


 それから、司馬昭にも目を向ける。


「手を貸してくださり、ありがとうございました」

「たいしたことじゃない。こいつが迷惑かけたのもあるし」

「司馬昭!」

「事実だろ」


 澪里が慌てて袖を引く。


 女は小さく笑った。その笑みは控えめだったが、どこか楽しそうでもあった。


「率直な方ですね」

「よく言われる」

「褒めてはいないと思うよ」


 澪里に小声で刺され、司馬昭はそっぽを向いた。


 女の視線が、最後に男へ移る。さっき澪里を助けた男だ。

 男は一歩下がり、再び礼を取った。


「姫様にお怪我がなく、何よりにございます」

「あなたにも、迷惑をかけました」

「いえ。私がしたことは、目の前の危ういものに手を伸ばしただけです」


 女は、その言葉を聞いて少し黙った。


 ほんのわずかな沈黙だった。

 けれど司馬昭は、妙にその間が気になった。


「……お名前を伺っても?」


 女が静かに尋ねる。

 男はわずかに迷ったようだった。だがすぐに、深く頭を下げる。


「名乗るほどの者ではございません」

「そうですか」


 女はそれ以上、追わなかった。

 ただ、その目はまだ男を見ていた。まるで、簾越しの一瞬を確かめるように。


 司馬昭は眉を寄せた。


 何だ、この空気。


 面倒なものを見た気がする。


「行くぞ」


 司馬昭は澪里の袖を軽く引いた。


「え、もう?」

「買い物が終わってない。母上に怒られる」

「あ、それは困る」

「だろ」


 澪里はもう一度、女と男に頭を下げた。


「本当にありがとうございました」


 男は穏やかに頷いた。


「お気をつけて」


 女もまた、柔らかく微笑んだ。


「どうか、よい一日を」


 司馬昭は軽く手を挙げただけで、その場を離れた。


 少し歩いてから、澪里が振り返る。


「綺麗な人だったね」

「そうだな」

「助けてくれた人も、いい人だった」

「そうだな」

「司馬昭、興味なさそう」

「知らない奴に興味持ってどうすんだよ」

「でも、ちょっと気にしてたでしょ」


 司馬昭は黙った。


 気にしていた。


 あの女の目。

 あの男の礼の仕方。

 簾が揺れた一瞬。


 妙に、引っかかった。


 だがそれを言うのも癪で、司馬昭はいつものように肩をすくめる。


「お前がまた妙なことに巻き込まれそうだからな」

「私のせい?」

「今のところ全部お前のせいだ」

「ひどい」

「事実だ」


 澪里はむっとした顔をしたが、すぐに笑った。

 その笑顔を見て、司馬昭は小さく息を吐く。


 まったく、面倒な女だ。


 だがこの時の司馬昭は、まだ知らなかった。


 簾の揺れの向こうで交わった、ほんの一瞬の視線。

 それが、ただの街の騒ぎでは終わらないことを。


 ひとりの女の運命を静かに傾け、やがて司馬家の内側にまで影を落とすことを。

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