第14話 運命帳
買い物から戻るなり、司馬昭は王元姫に捕まった。
衣や髪飾りを整えた澪里を張春華のもとへ連れていったところまではよかった。だが、そのあと待っていたのは、王元姫が用意した山のような執務だった。
「本日中にお願いいたします」
当然のように言われ、逃げる隙もないまま机の前に座らされる。
そうして数時間。
筆を動かし続けた司馬昭は、限界を迎えていた。
「……少し休憩する」
誰に言うでもなく呟き、司馬昭は部屋を抜け出した。
庭をぶらぶら歩いていると、馬舎へ入っていく澪里の姿が見えた。
「……何してんだ、あいつ」
嫌な予感がして後を追う。
案の定、澪里は司馬師がいつも乗る馬に轡をかませ、手綱を掴んでいた。
「兄上の馬に何か用か?」
「ひゃっ!」
声をかけると、澪里はびくっと身体を震わせ、勢いよく振り向いた。
「ちょ、ちょっと借りるだけだよっ」
「やめとけ。バレたら斬首だぜ」
「え……まじで?」
「いや、嘘」
「なにそれ」
むっと頬を膨らませる澪里を見て、司馬昭は思わず吹き出しそうになった。
出逢ってまだ一日しか経っていない。
それなのに、笑った顔も、怒った顔も、驚いた顔も、悲しげな顔も、もういくつも見た気がする。
表情がよく変わる女だ。
見ていて、妙に飽きない。
「兄上の馬じゃなくて、俺のにしろよ」
「貸してくれるの?」
「借りたらちゃんと返してくれるんだろ?」
そう言うと、澪里は少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「……返すよ」
「今の間は何だ」
「返すってば」
信用ならない。
だが、司馬師の馬を勝手に連れ出されるよりはずっとましだ。司馬昭は自分の馬に轡をかませ、手綱を掴んだ。
「どこ行くんだ?」
何気なく訊くと、澪里は少しだけ声を落とした。
「……司馬昭と初めて会ったところ」
「え……」
思わず、胸が変なふうに跳ねた。
初めて会ったところ。
その言い方が、妙に意味ありげに聞こえた。
隠れた特別な意味があるような。何かを期待させるような。
けれど、澪里の顔は真面目だった。
「なんだったら、俺が連れてってやろうか」
「別にいらない」
「……可愛くねぇな」
司馬昭はため息を吐き、澪里の腕を掴んだ。
「お前にもし何かあったら困るんだよ」
「別に大丈夫だよ」
「空から落ちるわ、屋根から落ちるわ、輿に轢かれかけるわの奴に言われても説得力がない」
「……それはそうかも」
「納得するのかよ」
司馬昭は呆れながら手綱を取り、自分が先に馬へ跨がった。それから澪里へ手を伸ばす。
「ほら」
澪里は少し迷ったようにその手を見た。
だが、やがて観念したように手を重ねる。
細い手だった。
思ったよりも小さくて、軽い。
司馬昭はその手を引き、もう片方の腕で腰を支えるようにして、澪里を馬上へ乗せた。
「わっ」
「暴れるな。落ちるだろ」
澪里は司馬昭の前に座る形になった。
手綱を握るために腕を回すと、自然と彼女を囲い込むような姿勢になる。
近い。
昨日、受け止めた時にも近かったはずだ。けれど、あの時は捕まえることに必死だった。
今は違う。
王元姫に整えられた髪から、かすかに香がする。耳飾りが揺れて、司馬昭の手の甲に一瞬だけ触れた。
司馬昭は妙に落ち着かなくなり、わざと軽い声を出す。
「落ちるなよ」
「司馬昭が落とさなければ大丈夫」
「人のせいにする気満々だな」
そう言って、司馬昭は馬を走らせた。
風が吹く。
澪里の髪飾りが揺れ、衣の袖が翻る。前に座る背中は思ったよりも小さく、頼りなく見えた。
この女が、本当に父や文帝陛下や夏侯淵と関わっているのか。
この女が、本当に三国の運命を知っているのか。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
やがて、二人は例の草原に着いた。
「送ってくれてありがとう。帰りは歩くから。じゃあね」
「は?」
馬を降りてすぐの澪里の発言に、司馬昭は呆れた。
「歩くって、お前、この距離を?」
「歩けるよ」
「昨日、俺はここから洛陽まで歩いて死にかけたんだぞ」
「司馬昭と私は違うから」
「お前なぁ……」
ここから洛陽まではかなり距離がある。
昨日、司馬昭はその距離を歩いて帰り、全身の力を使い果たした。澪里が平然と歩いて帰れるとは到底思えない。
「こんなところに何の用だ?」
「落とし物したの。絶対この近くにあると思うんだけどね……」
「落とし物?」
「うん。大事なもの」
澪里は草原を見回した。その顔が、少しだけ不安そうに曇る。
司馬昭はため息を吐いた。
「俺も一緒に探す」
「めんどくさくないの?」
「あ、いや、まあ……そうだけどさ……」
最もなことを言われ、司馬昭は頭をかいた。
「二人で探せば、なんとかなるだろ。早く見つけて、さっさと帰ろうぜ」
「……ありがとう」
「で、探し物は何だ?」
「えーと……本、みたいなもの。表紙が赤い帳面だよ」
「赤い帳面だな」
澪里は頷くと、すぐに草原の向こうへ走っていった。
司馬昭も近くの草を掻き分けながら歩き出す。風に揺れる草の中をしばらく探していると、草陰に赤いものが見えた。
「……これか?」
拾い上げると、それは確かに赤い帳面だった。澪里の落とし物に違いない。
司馬昭は何気なく表紙をめくった。中には、細かい文字がびっしりと書き込まれている。
「……何だこれ」
読める文字と、読めない文字があった。
漢字は分かる。だが、その間にある丸みを帯びた細かな記号のようなものは、まるで分からない。自分の知る文章とは違う。
行の流れも、言葉の切れ目も掴みにくい。
読めそうで、読めない。
まるで、知っている世界の中に、知らない世界が混じっているようだった。
「読むのもめんどくせぇ……」
ぼやきながら、司馬昭は適当にページをめくる。すると、見慣れた文字が目に入った。
司馬一族。
その四文字だけが、奇妙なほどはっきりと浮かび上がって見えた。
「……おいおい」
疑問に思いながらも、司馬昭はさらにページをめくる。
読めない文字の海の中から、読めるものだけを拾っていく。
司馬懿。
司馬師。
父と兄の名があった。
さらに探す。
そして次の瞬間、司馬昭は息を止めた。
「なんで、俺の……?」
そこには、まぎれもなく自分の名があった。
司馬昭。
読めない文字の中で、その名だけがやけに鮮明に見える。
まるで、自分だけがそこに縫い止められているようだった。
その意味を考えようとした、その時。
「駄目!」
鋭い声が飛んだ。
振り返る間もなく、澪里が駆け寄ってきて、司馬昭の手から帳面を奪い取った。
「見つけたなら言ってよ!」
「あ、悪い」
思わず謝る。
澪里は赤い帳面を胸に抱きしめたまま、険しい顔で司馬昭を見上げた。
「……見た?」
「え?」
「中、見た?」
「まあ、ぺらぺらっと。けど、読めない字が多くて……何が書いてあるんだ?」
澪里は答えなかった。
ただ、帳面を抱く手に力を込める。その指先が、少しだけ震えていた。
「……運命、かな」
硬い声だった。
「ここに、みんなの運命が書いてあるの」
「みんなの運命……」
司馬昭は澪里の腕の中の赤い帳面を見る。
司馬一族。
司馬懿。
司馬師。
司馬昭。
あの帳面には、自分たちの名があった。
「それって……俺のも?」
「うん」
「つまり、その帳面は俺たちの運命を握る“運命帳”ってことか」
何気ない風を装いながら、司馬昭は一歩近づいた。
澪里との距離が詰まる。赤い帳面へ手を伸ばす。
「悪いけど、見せられないの」
「……なんでだよ」
あと少しのところで、澪里は素早く帳面を後ろ手に回した。
表情は硬い。さっきまでとは違う。
まるで、そこだけは絶対に譲れないという顔だった。
「内容を知ったら、運命を変えてしまうでしょ」
「当たり前だろ。悪いことならな」
「駄目だよ。運命は変えられない。変えちゃいけないの」
「変えられないから、変えちゃいけないのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ、変えられるなら変えてもいいのか?」
澪里は言葉に詰まった。
司馬昭はさらに続ける。
「変わらないって決まってるなら、隠す必要なんてないだろ。俺が何を知っても変わらないんだから」
「……」
「それでも隠すってことは、変わるかもしれないってことじゃないのか?」
澪里は俯いた。
赤い帳面を抱きしめる手が、さらに強くなる。
「昨日言っただろ。諦めたら運命なんて変わらないって」
「司馬昭……」
澪里の声が、かすかに揺れた。
「あなたの望むものは、大丈夫だから」
「俺の望むもの?」
「この帳面に書かれている通りに進めば、戦乱は終わる。三国は一つになる」
澪里の顔は俯いていて、よく見えない。
けれど、わずかに覗いた表情は、今にも泣き出しそうだった。
「だから……大丈夫」
その言葉は、司馬昭を安心させるためのもののはずだった。
だが、どうしてか。
言った本人が、一番苦しそうに見えた。
「……分かった」
司馬昭は息を吐いた。
「信じるよ」
深くは追及しないことにした。
泣かれると面倒だ。それに、これ以上訊ける雰囲気でもなかった。
けれど、完全に引くつもりもなかった。
「たださ。それならなおさら、見せてくれたっていいんじゃねぇか?」
「見せたら楽するでしょ」
「……お前、結構鋭いな」
図星を指され、司馬昭は苦笑した。
「ま、安心しろ。運命帳に記してある役割はちゃんと果たすさ。それが楽に戦乱を終わらせる方法なんだろ?」
「……」
「もちろん、良いことだけな。悪いことや面倒なことはやらない」
澪里はしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ顔を上げる。
「果たして、そんなに上手くいくかな」
その笑みは、笑みと呼ぶにはあまりにも弱かった。
諦めているようで。
祈っているようで。
それでも、どこかで信じたいと願っているような顔だった。
司馬昭はその表情を見て、胸の奥に小さな棘が刺さったような気がした。
何を知っているのか。
何を見てきたのか。
なぜそんな顔で、自分の運命を語るのか。
「上手くいくようにやるんだ」
司馬昭は軽く言った。重くなりすぎた空気を払うように。
「めんどくせぇけど」
そして、ぽん、と澪里の背中を軽く叩いた。
「ほら、帰るぞ。歩いて帰るとか言うなよ。聞くだけで疲れる」
「……うん」
澪里は赤い帳面を胸に抱いたまま、小さく頷いた。
司馬昭は馬を待たせている場所へ歩き出す。
背後から、澪里の足音がついてくる。
空は青い。風は穏やかだ。
昨日、この場所で彼女は空から落ちてきた。
今日は、この場所で自分の名が書かれた“運命帳”を見つけた。
面倒ごとだ。
それはもう、分かりきっている。
けれど。
司馬昭は振り返らず、口元だけで小さく笑った。
どうやら自分は、その面倒ごとの真ん中に、もう片足を突っ込んでしまったらしい。




