第15話 父の見る未来
「昭。どこにいた」
屋敷へ戻るなり、司馬昭は司馬懿に呼び止められた。
まずい。
声を聞いた瞬間、そう思った。
司馬懿は眉間に皺を寄せ、いかにも機嫌が悪そうな顔でこちらを見ている。
「あー……ちょっと出かけてました」
「まったくお前は、ふらふらと」
司馬懿の声が低くなる。
「遊んでいる暇があるなら、執務の一つでも片付けろ」
「別に遊んでたわけじゃありませんよ」
司馬昭はすぐに言い返した。
ここでただ叱られるのは面倒だ。
そして、面倒ごとを避けるための言葉を、司馬昭はもう知っている。
「澪里の用事に付き合ってたんです」
その名を出した瞬間、司馬懿の目がわずかに動いた。
「……澪里の用事だと?」
声の調子は変わらない。
だが、先ほどまでの苛立ちは少しだけ引いたように見えた。
やはり。
司馬昭は内心で小さく笑う。
昨夜の件で学んだことがある。
父は、澪里の名に弱い。
「嘘だと思うなら、澪里に訊いてみてくださいよ」
「用事とは何だ」
司馬懿の表情は、すっかりいつものものに戻っている。
だが、その目だけはわずかに鋭くなっていた。
過去に何があったのかは知らない。
けれど司馬懿は、澪里のことになると明らかに食いつきがいい。
父を相手にするとき、面倒な追及をかわすには澪里の名を出す。
それが、昨夜司馬昭が得た数少ない収穫だった。
「父上」
司馬昭は少し声を落とした。
「澪里が、赤い帳面を持っているのを知っていますか?」
「赤い帳面?」
司馬懿の眉がわずかに動く。
「いや、知らぬな。それは何だ」
「三国の始まりから終わりまでが書かれた帳面です」
司馬懿の表情から、余計なものが消えた。
怒りでも、驚きでもない。
思考する者の顔だった。
「どんな経緯で戦が起こり、どう終わるのか。人の生死や、その時の状況まで記されているらしいです」
「……ほう」
「澪里が言うには、みんなの運命が書かれている、と」
司馬昭は肩をすくめた。
「言ってみれば、俺たちの運命を握る帳面――運命帳ってところですかね」
「それを、澪里が持っているのだな」
「ええ」
「私の知る限りでは、聞いたことがない」
司馬懿は低く呟いた。
それは司馬昭に向けた言葉というより、自分自身に言い聞かせるような声だった。
「それで、昭」
「はい?」
「お前はその運命帳を見たのか」
「まあ、少しだけですが。読んでいる途中で澪里に取り上げられました」
「何と書いてあった」
当然の問いだった。
なのに、司馬昭はそこで黙り込んでしまった。
何と書いてあったか。
考えてみれば、まともには読めていない。ただ、読める名だけを拾っただけだ。
司馬懿の眉間に、再び皺が刻まれる。
「昭」
「いやー……実は、ほとんど分かりませんでした」
「……馬鹿めが」
司馬懿は呆れたように吐き捨てる。
「そこは多少なりとも目を通しておくべきだろう」
「無茶言わないでくださいよ。解読不能な文字が多かったんです」
「解読不能?」
「俺たちが使ってる文字もありました。けど、その間に、見たことのない文字が混じっていて……」
司馬昭は記憶の中の赤い帳面を思い返す。
細かく並んだ文字。
読める漢字。
その間に詰め込まれた、丸みを帯びた記号のようなもの。
漢字に似ているようで、まるで違うもの。
「漢字は読めました。でも、それ以外はまったく。何かの記号みたいなものや、崩した線のようなものが混ざっていて、文章としては追えませんでした」
司馬昭は息を吐いた。
「あれを全部読むには、かなり時間がかかりますよ。いや、時間をかけても無理かもしれない」
おそらく、あれは未来の文字だ。
ならば、自分たちに完全な解読は不可能に近い。
帳面の中身を知るには、澪里に頼るしかない。いや、正確には澪里から聞き出すしかない。
また面倒なことが増えた。
「あ、ですが……父上」
「何だ」
「俺の名前が書かれていました」
司馬懿の目が、わずかに細くなる。
「父上と兄上の名前も確認しました。『司馬一族』という文字も」
「ほう」
司馬懿は小さく笑った。
その笑みは楽しげというより、何かを測っている顔だった。
「少なくとも、その帳面が我々と無関係ではないことは確かか」
「そうなりますね」
「運命帳とやらを見たのは、お前だけか」
「たぶん。澪里は見られたくなかったみたいですし」
「当然だろうな」
司馬懿は静かに言った。
「未来を知る者は、それだけで火種となる。まして、その未来を記した物となればなおさらだ」
「でも、知れば避けられることもあるでしょう」
「知ったからこそ起こることもある」
司馬昭は口をつぐんだ。
澪里も似たようなことを言っていた。内容を知ったら、運命を変えてしまう。
司馬昭には、それが悪いことだとは思えない。
悪い未来なら、変えればいい。
避けられる死なら、避ければいい。
けれど、澪里は苦しそうな顔をしていた。
父も、今は同じように慎重な目をしている。
「選べると思った時、人は誤る」
司馬懿は言った。
「未来を知れば、己の意思で選んでいるつもりになる。だが実際には、その未来に選ばされているだけかもしれぬ」
「……面倒な話ですね」
「面倒で済めばよいがな」
司馬懿の声は低かった。
司馬昭は赤い帳面を抱きしめていた澪里の顔を思い出した。
あの時、彼女は泣きそうだった。
自分たちの名が書かれている帳面を持っているのに、何も誇らしげではなかった。
むしろ、重い荷を抱えているように見えた。
「その帳面のことは、しばらく他言するな」
「……分かりました」
司馬昭は素直に頷いた。
こういう時の父には、逆らうだけ無駄だ。
それに、司馬昭自身も、まだうまく説明できる気がしなかった。
運命帳。
そこに記された、自分たちの名。
戦乱の終わり。
三国の統一。
大きすぎる言葉ばかりが並んで、どれもまだ実感が湧かない。
司馬懿はしばらく黙っていた。
何かを考えている。
やがて、その目がふと司馬昭を見た。
「昭」
「はい」
「師にも、そろそろ縁談を考えねばならぬ」
「……はい?」
思わず間の抜けた声が出た。
運命帳の話をしていたはずだ。なぜ突然、兄の縁談の話になる。
「兄上の、縁談ですか?」
「何を驚く。子元は司馬家の嫡子だ」
「いや、それは分かってますけど……」
分かってはいる。
兄が司馬家を継ぐ者であることも。いずれ妻を迎える立場にあることも。
それくらい、司馬昭だって理解している。
ただ、どうにも想像がつかなかった。
司馬師が誰かを娶る。
誰かの夫になる。
あの兄が。
冷静で、整っていて、何事も先に読んでいて、こちらが何かを言う前にすべて片付けてしまうような兄が、ひとりの女を妻として迎える。
想像しようとして、司馬昭は眉を寄せた。
「……兄上が女を娶るって、なんか妙な感じですね」
「妙も何もあるか。婚姻は家の務めだ」
「父上らしいですね」
「事実を言っているだけだ」
司馬懿は淡々としている。
「司馬家がどこと結ぶべきか。誰を迎えれば、家のためになるか。考えねばならぬ時期に来ている」
「家のため、ですか」
「婚姻は情だけでするものではない」
司馬懿の視線が、庭の方へ向いた。
その先に何を見ているのか、司馬昭には分からない。
「魏には古くからの名族があり、曹氏に近しい家もある。夏侯の名も、軽くはない」
夏侯。
その名を聞いて、司馬昭は少しだけ目を細めた。
夏侯淵。
澪里が口にした名。
「夏侯氏と、ですか?」
「例を挙げただけだ」
「本当ですか?」
「お前は余計なところだけ勘が働くな」
「父上ほどじゃありませんよ」
軽く返すと、司馬懿は小さく鼻を鳴らした。
「誰を迎えるにせよ、師は司馬家のために妻を娶ることになる」
「兄上なら、誰が相手でも上手くやるでしょう」
「上手くやる、では足りぬ」
司馬懿の声が少しだけ硬くなる。
「妻を迎えるとは、その女の家を背負うことでもある。女ひとりを屋敷に入れるだけではない。その背後にある名、血筋、思惑も共に入る」
「……また面倒な話ですね」
「婚姻とはそういうものだ」
司馬昭は思わずため息を吐いた。
兄は大変だ。
そんな他人事のような感想が浮かぶ。
だが、司馬懿はすぐにその逃げ道を塞いだ。
「昭。お前もだぞ」
「うっ」
そうだった。
魏の名門、司馬一族。
その一員である司馬昭も、例外ではない。
いつかは家のため、父の意向のため、婚姻を結ぶ日が来る。
分かってはいる。
分かってはいるが。
「……はあ。めんどくせ」
「その様では、誰も嫁に来ぬな」
「失礼ですね。俺だって、いつかはちゃんと結婚しますよ」
口ではそう言ったものの、まるで想像できなかった。
自分が誰かを娶る。
誰かの夫になる。
家のために、ひとりの女を迎える。
分からない。
少なくとも今は、面倒という感想しか浮かばなかった。
「俺は兄上ほど重要じゃないでしょう」
「お前は私の子だ」
「それだけで?」
「それだけで十分だ」
淡々と返され、司馬昭は言葉に詰まった。
父の言い方は、いつもそうだ。
余計な情は見せない。
だが、逃げ道だけは確実に潰してくる。
「司馬家の名を持つ以上、お前の婚姻もまた、お前だけのものではない」
「……分かってますよ」
「分かっている顔ではないな」
「今すぐって話じゃないんでしょう?」
「今すぐではない」
「なら、今は考えなくてもいいですね」
「そうやって先延ばしにするから、お前はいつまでも変わらぬのだ」
「変わってますよ。昨日よりは」
「どこがだ」
「少なくとも今日は、空から女は降ってきてません」
司馬懿が冷ややかな目で司馬昭を見た。
「屁理屈だけは達者だな」
「父上譲りです」
「私はそこまで愚かではない」
「ひどいな」
軽口を叩きながらも、司馬昭の胸には奇妙な重さが残っていた。
運命帳には、自分の名があった。
父と兄の名もあった。
その帳面に書かれている通りに進めば、戦乱は終わると澪里は言った。
そして今、父は司馬家の未来を語っている。
兄の婚姻。
自分の婚姻。
家を繋ぐこと。
名を残すこと。
どれも、今の司馬昭には遠い話に思える。
けれど、遠いはずのものが、少しずつ近づいてきている気がした。
「昭」
司馬懿の声に、司馬昭は顔を上げる。
「澪里には近づきすぎるな」
「……は?」
思いもよらない言葉に、司馬昭は瞬いた。
「何ですか、急に」
「あの娘は危うい」
「危ういって……空から落ちてきたからですか」
「それだけならまだよい」
司馬懿は静かに言った。
「あの娘は未来を知っている。しかも、その未来を記した物を持っている。近くに置けば利用価値はある。だが、近づきすぎれば毒にもなる」
「毒って」
「情は判断を鈍らせる」
その言葉に、なぜか少しだけむっとした。
「別に、俺はそういうんじゃありませんよ」
「そういう、とは何だ」
「……いや、何でもないです」
自分で言いかけて、司馬昭は口を閉じた。
何を否定しようとしたのか、自分でも分からなかった。
澪里に近づいているつもりはない。
ただ、放っておくと危なっかしいから付き合っているだけだ。
面倒ごとを持ち込まれると困るから、見張っているだけだ。
それだけだ。
たぶん。
「とにかく、あいつに近づきすぎるなって言われても無理ですよ」
「なぜだ」
「父上が命じたんでしょう。司馬家でのことは俺が見るようにって」
司馬懿はわずかに眉を寄せた。
「世話を命じたのであって、深入りしろとは言っていない」
「同じじゃないですか」
「違う」
「父上は簡単に言いますけどね。あいつ、勝手に動くし、すぐ何かに巻き込まれるし、目を離したら今度は何をしでかすか分からないんですよ」
「だから目を離すなと言った」
「近づくなとも言ってますけど」
「近づきすぎるな、と言った」
「……面倒くさいな」
「お前に言われたくはない」
司馬昭は思わず口を噤んだ。
確かに、面倒ごとを避けてばかりいる自分が言うには、少しばかり説得力がない。
だが、父の言い分にも無理がある。
目は離すな。
けれど近づきすぎるな。
世話はしろ。
けれど情は移すな。
そんな器用な真似が、自分にできると思われているのだろうか。
いや、思われていない気がする。
それでも命じるあたりが、父らしい。
「宮中でのことは元姫。司馬家でのことは俺。そう決めたのは父上ですよ」
「そうだ」
「なら、今さら無茶言わないでください」
「無茶ではない。節度を持てと言っている」
「節度って」
司馬懿は司馬昭を見据えた。
「余計な情を抱くな。余計な約束をするな。余計な未来を求めるな」
ひとつひとつの言葉が、妙に重かった。
余計な情。
余計な約束。
余計な未来。
司馬昭はそれを笑い飛ばそうとして、できなかった。
まるで、ただの忠告ではないように聞こえた。
父自身が、どこかでそれを知っているような。
そんな声だった。
「……父上」
「何だ」
「今の、経験談ですか」
司馬懿の目が、わずかに細くなった。
「余計なことを聞くな」
「……はいはい」
その返事だけで、十分だった。
訊いたところで、父が答えるはずもない。
けれど、胸の奥に妙な引っかかりが残った。
父は澪里を危ういと言った。
情は判断を鈍らせると言った。
その声は、司馬昭を遠ざけるためというより、かつて遠ざけられなかったものを思い出しているようにも聞こえた。
「とにかく、分かりましたよ」
「本当に分かっているのか」
「父上が面倒なことを言っているのは分かりました」
「昭」
「はいはい。節度ですね。節度」
軽く流すように言って、司馬昭は背を向けた。
これ以上ここにいると、また何か別の小言が増えそうだった。
「俺、執務に戻ります」
「最初からそうしていればよい」
「それを言われると思いました」
司馬昭は片手を上げて、その場を離れた。
父の視線が背中に残っている。それを感じながら、廊下を歩く。
運命帳。
司馬家の未来。
兄上の縁談。
自分の婚姻。
澪里に近づきすぎるなという父の言葉。
どれもこれも、今すぐ答えの出るものではない。
だから考えるのはやめた。やめた、はずだった。
けれど、歩きながらふと、司馬昭は思い出してしまう。
馬上で腕の中に収まった細い背中。
赤い帳面を抱きしめて震えていた指先。
戦乱は終わる、と言った時の、泣きそうな横顔。
「……余計な情、ねぇ」
ぽつりと呟き、司馬昭は自分で苦笑した。
そんなもの、抱いているつもりはない。
ないはずだ。
ただ少し。
あの女が何を知っていて、何を隠していて、なぜあんな顔をするのか。
それが気になるだけだ。
それだけだ。
そう自分に言い聞かせながら、司馬昭は王元姫の待つ執務室へ戻っていった。




