第16話 火種はふたつ
深夜。
廊下を歩きながら、司馬昭は司馬懿の言葉を思い返していた。
運命帳。
司馬家の未来。
兄上の縁談。
澪里に近づきすぎるなという忠告。
どれもこれも、考えれば考えるほど面倒なものばかりだった。
特に引っかかっているのは、兄の縁談の話だ。
司馬師の名が運命帳に記されているのなら、もしかすると、そこには兄が娶る女の名も書かれているのかもしれない。
司馬家のために妻を迎える。
父はそう言った。
それは分かる。分かるが、やはり想像しにくかった。
あの兄が、誰かを妻にする。
誰かと並び、誰かを近くに置き、誰かの夫になる。
「……ま、考えてもめんどくせぇだけか」
考えたところで、父の腹の内など簡単に読めるものではない。
司馬昭は小さく息を吐き、そのまま歩を進めた。
ふと、縁側に人影が見えた。司馬師と、澪里だった。
奇妙な組み合わせだ。こんな夜更けに、二人で何をしているのか。
声をかけようとして、司馬昭は足を止めた。
司馬師が、澪里の腰に手を回した。
そのまま身体を引き寄せる。
距離が近い。
近すぎる。
澪里の顎に指をかけ、顔を上向かせるようにしている。
そして司馬師自身も、彼女へ顔を近づけた。
この先の展開は、容易に想像できた。
司馬昭の胸が、妙に疼く。
見たくない。
そう思って、咄嗟に目を逸らした。
「……って、なんで?」
自分でも分からなかった。
なぜ、見たくないと思ったのか。
兄上が誰と何をしようと、自分には関係ない。
澪里だって、自分のものではない。
なのに。
もう一度そっと視線を戻すと、二人は普通に話していた。
司馬師の手はすでに離れている。
澪里も何事もなかったようにしていた。
さっきのは、見間違いだったのか。
それとも、自分が勝手にそう見ただけなのか。
「……疲れてんのかな、俺」
司馬昭は深く息を吐き、自室へと戻った。
けれどその夜、なかなか眠りは戻ってこなかった。
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「よお、澪里」
「あ、司馬昭。おはよう」
翌朝。
王元姫が起こしに来るよりも早く目覚めた司馬昭は、部屋を出たところで澪里に会った。
珍しく早起きしたせいか、頭の奥が少し重い。
「今日は早いんだね」
「ああ。なんか目ぇ覚めちまって」
「ゆっくり寝てたらいいのに」
「お前の方こそ、まだ寝てていい時間だろ」
「いつまでも寝てるわけにはいかないよ」
そう言って、澪里は小さくあくびをした。
眠そうだ。
昨夜遅くまで起きていたのだろう。
司馬昭はそれを知っている。
だからこそ、わざと訊いた。
「昨日は遅かったのか?」
「うん。ちょっとね」
「兄上と会ってたんだろ」
澪里がきょとんとする。
司馬昭はそれがまた気に障った。
隠すつもりなのか。
それとも、隠すほどのことではないとでも思っているのか。
「ずいぶん仲いいんだな」
「何の話?」
「とぼけるなよ」
司馬昭は一歩近づいた。
「見たんだぜ。昨夜、兄上とお前が口付けしようとしてるところ」
「口付け?」
澪里は本気で分からない、という顔をした。
その顔に、なぜか苛立つ。
しらばっくれているように見えた。
いや、そう見たかったのかもしれない。
「ほら、こうやって……」
司馬昭は澪里の腰へ腕を伸ばした。
昨夜見た司馬師の仕草を思い出し、半ば意地のように彼女を抱き寄せる。
澪里の身体が、腕の中で小さく跳ねた。
顎に指をかけ、ぐいとこちらを向かせる。
「……したんだろ」
「何を?」
「兄上と」
吐き捨てるように言うと、澪里はふっと肩を揺らす。
「……ふふっ」
「何がおかしい」
「だって、その顔」
「は?」
「司馬師の真似、してる」
図星だった。
司馬昭の眉がぴくりと跳ねる。
否定したい。
けれど否定すればするほど、当たっている気がした。
「してねぇよ」
「してるって。顎をこうやって持って、じっと見るところ。そっくり」
「……うるせぇ」
澪里は声を立てて笑ったわけではない。それでも、堪えきれない笑いが滲んでいた。
それが妙に気に障った。
兄と比べられたからか。兄ならもっと様になるのだと、自分でも思っているからか。
それとも。
澪里が、兄にはそんな顔を見せたのだと想像してしまったからか。
分からない。
分からないまま、司馬昭はさらに顔を寄せた。
「そんなに余裕か」
「よ、余裕って……近い」
「兄上の時も、こんなだったのかよ」
鼻先が触れそうな距離。
さっきまで笑っていた澪里の顔が、みるみる赤くなっていく。
「ち、違……っ」
「違わないだろ」
「違う!司馬昭、ちょっと待って――」
言いかけた声が震えた。
その震えが、ようやく司馬昭の熱くなった頭に冷たいものを差し込んだ。
澪里の目が潤んでいる。
笑っていたはずなのに。
からかっていたはずなのに。
今は明らかに、本気で焦っていた。
「……おい」
「だって、そんなの……」
「何だよ」
「そんなふうに、しないでよ……!」
その一言で、司馬昭の動きがぴたりと止まった。
「……は?」
「口付けって、そういうふうにするものじゃないでしょ!」
真っ赤になったまま睨み上げられ、司馬昭は反射的に身体を離した。
急に、自分のしていたことが現実味を帯びて迫ってきた。
今、自分は何をしようとした。
兄に張り合って。
笑われて腹が立って。
ただそれだけで、勢いのまま。
「……悪い」
「最低……!本当にびっくりした……!」
「だから謝ってるだろ……」
言い返す声に、いつもの軽さはなかった。むしろ、自分の方が動揺していた。
澪里の「そんなふうにしないで」という声が、妙にはっきり耳の奥に残って離れない。
その時、不機嫌そうな低い声が背後から落ちた。
「朝から何を騒いでいる」
「兄上」
振り返ると、司馬師が立っていた。
澪里はさっと司馬昭から距離を取り、びしっと司馬師を指差す。
「司馬師のせいだからね!」
「……何の話だ」
「なんでもないです。おはようございます、兄上」
「なんでもなくない!」
司馬師は怪訝そうに片眉を上げ、澪里と司馬昭を見比べた。
司馬昭はあえて視線を逸らす。
耳の奥が、まだ熱い。事情を話しては面倒だ。
自分が悪いと分かっているから、なおさら面倒だった。
だが司馬師は、特に追及してこなかった。ただ、二人を一瞥してから歩き出そうとする。
「兄上。どこへ行くんですか?」
「父上の部屋だ」
「あ、私も今から司馬懿のところへ行こうと思ってたんだけど」
「奇遇だな。ならば一緒に行くか」
「じゃあ俺も行きます」
司馬昭は即座に言った。
澪里が司馬懿に何か余計な報告をする前に、そばにいる必要がある。
父が今の件を知れば、間違いなくどやされる。
面倒なことこの上ない。
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「おはようございます、父上」
「おはよう、司馬懿」
「……何だ、お前たち。こんな朝早くから」
部屋へ入るなり、珍しい組み合わせの来訪者たちに、司馬懿は怪訝そうな顔をした。
特に奇異の目で見られているのは、どう考えても司馬昭だった。
「父上。俺がいたら変ですか?」
「昭……お前までどうしたのだ。身体の具合でも悪いのか?」
「俺だって早起きする時はしますよ」
「ならば毎日そうしろ」
司馬懿は溜め息を吐いた。
横で澪里が少し笑ったのを見て、司馬昭は軽く睨む。
司馬師は何事もなかったように、司馬懿の前へ書簡を差し出した。
「父上。書簡です」
「うむ。確かに」
受け取った司馬懿は、次に司馬昭を見る。その視線の意味を察して、司馬昭は先に言った。
「あ、俺は付いてきただけなんで、書簡はありませんよ」
「……用がないなら、さっさと下がれ」
「ひどいなぁ」
司馬懿は無視して、澪里へ視線を移した。
「澪里。お前は何の用だ」
「えーと、あのね……」
澪里は口ごもる。
ちらりと司馬昭と司馬師を見た。
「何だ?俺と兄上がいちゃまずい話か?」
「そういうわけじゃないけど……」
「では何だ」
司馬懿の声が、少しだけ低くなる。
澪里は一度息を吸った。
「……戦の話」
その一言で、部屋の空気が変わった。
司馬昭も自然と表情を引き締める。
先ほどまでの気まずさや軽口が、すっと遠のいた。
「澪里、詳しく話せ」
司馬懿が言う。
澪里はおもむろに口を開いた。
「公孫淵って男、知ってる?」
「その者がどうした」
「司馬懿に、討伐令が出されるの」
司馬懿の目が細くなる。
「近いうちに」
「近いうちとはいつだ」
司馬師が問う。
「詳しい日時と場所は?」
司馬昭も続けた。
澪里は首を横に振る。
「そこまでは分からないけど……」
「は?」
司馬昭は眉をひそめた。
「お前、でたらめ言ってるんじゃないだろうな」
「でたらめじゃないよっ。運命帳に書いて――」
言ってしまってから、澪里が口を噤んだ。
まずい。
司馬昭も内心でそう思った。
運命帳のことは、司馬昭と澪里、そして司馬懿しか知らない。
司馬師を見ると、訝しげな顔で澪里を見ていた。
「運命帳?」
司馬師が静かに繰り返す。その声は穏やかだったが、目はまったく笑っていない。
澪里が気まずそうに視線を逸らす。
司馬懿が咳払いをした。
「……澪里」
空気を整えるように、低く名を呼ぶ。
「だいたいなら分かるのだな」
「う、うん……」
澪里は司馬懿に助けられた形になり、少しだけほっとしたように頷いた。
「遅くても半年以内。早ければ……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
「――申し上げます!」
一人の兵士が、勢いよく部屋へ駆け込んできた。息を切らし、床に膝をつく。
「陛下より、司馬懿殿へご命令が下りました!」
室内の全員が、兵士を見る。
兵士は声を張った。
「公孫淵討伐のため、直ちに出陣せよとの勅命にございます!」
沈黙が落ちた。
澪里の顔から、血の気が引いていく。
司馬懿は何も言わない。
司馬師はわずかに目を細める。
そして司馬昭は、天井を仰いだ。
これは、あれだ。
誰がどう見ても、面倒ごとの始まりだ。
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「運命帳とは何だ」
兵士が去った後、最初に口を開いたのは司馬師だった。
声は静かだった。静かすぎるほどに。
澪里の肩が、わずかに揺れる。
司馬昭は内心で舌打ちした。
まずい。
さっきのは完全に聞かれていた。
「いや、兄上。それは――」
「昭」
司馬師の目がこちらを向く。
「お前は知っているな」
逃げ道を塞ぐような声だった。
司馬昭は頭をかく。
誤魔化すか。
笑って流すか。
だが、目の前にいるのは司馬師だ。下手な嘘をつけば、その場で見抜かれる。
「……俺も、全部知ってるわけじゃありませんよ」
「では、知っている範囲で話せ」
「面倒なこと言いますね……」
「昭」
「分かりましたって」
司馬昭は息を吐き、ちらりと澪里を見た。
澪里は何も言わない。
ただ、不安そうにこちらを見ている。
「こいつは……これから起こることを、多少知ってるみたいです」
司馬師の目が細くなる。
「多少?」
「ええ。戦がいつ起こるとか、誰が死ぬとか。そういうものが書かれた帳面を持っている」
「それが、運命帳か」
「こいつはそう言ってました」
「なぜ、そのようなものを持っている」
「それは俺にも分かりません」
司馬昭はあえて、そこだけははっきりと言った。
「ただ、父上は何かご存じのようでしたけどね」
司馬師の視線が、司馬懿へ移る。
司馬懿は黙っていた。
否定しない。
それが何よりの答えだった。
「父上」
司馬師が問う。
「この娘は何者ですか」
司馬懿はすぐには答えなかった。
しばらく沈黙し、やがて低く言う。
「今は問うな」
「今は、ですか」
「そうだ」
司馬懿の目が、澪里へ向く。
「その者の言葉が真であるか否かは、これから分かる」
司馬師は静かに考え込む。
そして、ゆっくりと澪里を見た。
「つまり、お前は未来を読むのか」
澪里は答えない。
司馬昭は咄嗟に言う。
「予言者みたいなもんだと思えばいいんじゃないですかね」
「随分と曖昧だな」
「俺も曖昧にしか知らないので」
司馬師の視線が鋭くなる。
だが、それ以上は追及しなかった。
「……よかろう」
司馬師は言った。
「今は、公孫淵討伐が先だ」
それから、澪里を見据える。
「だが、澪里」
「……はい」
「お前が何者であれ、魏に利するならば利用する。害するならば斬る」
冷たい声だった。
澪里は目を伏せる。
「うん。分かってる」
その返事があまりにも静かだったので、司馬昭は思わず彼女を見た。
まるで、そう言われることを最初から知っていたような顔だった。




