表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三國残夢  作者: 仄か
PR
17/19

第16話 火種はふたつ

 深夜。


 廊下を歩きながら、司馬昭は司馬懿の言葉を思い返していた。


 運命帳。

 司馬家の未来。

 兄上の縁談。

 澪里に近づきすぎるなという忠告。


 どれもこれも、考えれば考えるほど面倒なものばかりだった。


 特に引っかかっているのは、兄の縁談の話だ。


 司馬師の名が運命帳に記されているのなら、もしかすると、そこには兄が娶る女の名も書かれているのかもしれない。


 司馬家のために妻を迎える。


 父はそう言った。

 それは分かる。分かるが、やはり想像しにくかった。


 あの兄が、誰かを妻にする。

 誰かと並び、誰かを近くに置き、誰かの夫になる。


「……ま、考えてもめんどくせぇだけか」


 考えたところで、父の腹の内など簡単に読めるものではない。


 司馬昭は小さく息を吐き、そのまま歩を進めた。


 ふと、縁側に人影が見えた。司馬師と、澪里だった。

 奇妙な組み合わせだ。こんな夜更けに、二人で何をしているのか。


 声をかけようとして、司馬昭は足を止めた。


 司馬師が、澪里の腰に手を回した。

 そのまま身体を引き寄せる。


 距離が近い。

 近すぎる。

 澪里の顎に指をかけ、顔を上向かせるようにしている。

 そして司馬師自身も、彼女へ顔を近づけた。


 この先の展開は、容易に想像できた。


 司馬昭の胸が、妙に疼く。


 見たくない。


 そう思って、咄嗟に目を逸らした。


「……って、なんで?」


 自分でも分からなかった。

 なぜ、見たくないと思ったのか。


 兄上が誰と何をしようと、自分には関係ない。

 澪里だって、自分のものではない。


 なのに。


 もう一度そっと視線を戻すと、二人は普通に話していた。

 司馬師の手はすでに離れている。

 澪里も何事もなかったようにしていた。


 さっきのは、見間違いだったのか。

 それとも、自分が勝手にそう見ただけなのか。


「……疲れてんのかな、俺」


 司馬昭は深く息を吐き、自室へと戻った。


 けれどその夜、なかなか眠りは戻ってこなかった。


---


「よお、澪里」

「あ、司馬昭。おはよう」


 翌朝。


 王元姫が起こしに来るよりも早く目覚めた司馬昭は、部屋を出たところで澪里に会った。


 珍しく早起きしたせいか、頭の奥が少し重い。


「今日は早いんだね」

「ああ。なんか目ぇ覚めちまって」

「ゆっくり寝てたらいいのに」

「お前の方こそ、まだ寝てていい時間だろ」

「いつまでも寝てるわけにはいかないよ」


 そう言って、澪里は小さくあくびをした。


 眠そうだ。


 昨夜遅くまで起きていたのだろう。

 司馬昭はそれを知っている。


 だからこそ、わざと訊いた。


「昨日は遅かったのか?」

「うん。ちょっとね」

「兄上と会ってたんだろ」


 澪里がきょとんとする。

 司馬昭はそれがまた気に障った。


 隠すつもりなのか。


 それとも、隠すほどのことではないとでも思っているのか。


「ずいぶん仲いいんだな」

「何の話?」

「とぼけるなよ」


 司馬昭は一歩近づいた。


「見たんだぜ。昨夜、兄上とお前が口付けしようとしてるところ」

「口付け?」


 澪里は本気で分からない、という顔をした。


 その顔に、なぜか苛立つ。

 しらばっくれているように見えた。


 いや、そう見たかったのかもしれない。


「ほら、こうやって……」


 司馬昭は澪里の腰へ腕を伸ばした。


 昨夜見た司馬師の仕草を思い出し、半ば意地のように彼女を抱き寄せる。

 澪里の身体が、腕の中で小さく跳ねた。


 顎に指をかけ、ぐいとこちらを向かせる。


「……したんだろ」

「何を?」

「兄上と」


 吐き捨てるように言うと、澪里はふっと肩を揺らす。


「……ふふっ」

「何がおかしい」

「だって、その顔」

「は?」

「司馬師の真似、してる」


 図星だった。


 司馬昭の眉がぴくりと跳ねる。


 否定したい。


 けれど否定すればするほど、当たっている気がした。


「してねぇよ」

「してるって。顎をこうやって持って、じっと見るところ。そっくり」

「……うるせぇ」


 澪里は声を立てて笑ったわけではない。それでも、堪えきれない笑いが滲んでいた。

 それが妙に気に障った。


 兄と比べられたからか。兄ならもっと様になるのだと、自分でも思っているからか。


 それとも。


 澪里が、兄にはそんな顔を見せたのだと想像してしまったからか。


 分からない。


 分からないまま、司馬昭はさらに顔を寄せた。


「そんなに余裕か」

「よ、余裕って……近い」

「兄上の時も、こんなだったのかよ」


 鼻先が触れそうな距離。


 さっきまで笑っていた澪里の顔が、みるみる赤くなっていく。


「ち、違……っ」

「違わないだろ」

「違う!司馬昭、ちょっと待って――」


 言いかけた声が震えた。


 その震えが、ようやく司馬昭の熱くなった頭に冷たいものを差し込んだ。


 澪里の目が潤んでいる。


 笑っていたはずなのに。

 からかっていたはずなのに。

 今は明らかに、本気で焦っていた。


「……おい」

「だって、そんなの……」

「何だよ」

「そんなふうに、しないでよ……!」


 その一言で、司馬昭の動きがぴたりと止まった。


「……は?」

「口付けって、そういうふうにするものじゃないでしょ!」


 真っ赤になったまま睨み上げられ、司馬昭は反射的に身体を離した。

 急に、自分のしていたことが現実味を帯びて迫ってきた。


 今、自分は何をしようとした。


 兄に張り合って。

 笑われて腹が立って。


 ただそれだけで、勢いのまま。


「……悪い」

「最低……!本当にびっくりした……!」

「だから謝ってるだろ……」


 言い返す声に、いつもの軽さはなかった。むしろ、自分の方が動揺していた。


 澪里の「そんなふうにしないで」という声が、妙にはっきり耳の奥に残って離れない。


 その時、不機嫌そうな低い声が背後から落ちた。


「朝から何を騒いでいる」

「兄上」


 振り返ると、司馬師が立っていた。


 澪里はさっと司馬昭から距離を取り、びしっと司馬師を指差す。


「司馬師のせいだからね!」

「……何の話だ」

「なんでもないです。おはようございます、兄上」

「なんでもなくない!」


 司馬師は怪訝そうに片眉を上げ、澪里と司馬昭を見比べた。


 司馬昭はあえて視線を逸らす。


 耳の奥が、まだ熱い。事情を話しては面倒だ。

 自分が悪いと分かっているから、なおさら面倒だった。


 だが司馬師は、特に追及してこなかった。ただ、二人を一瞥してから歩き出そうとする。


「兄上。どこへ行くんですか?」

「父上の部屋だ」

「あ、私も今から司馬懿のところへ行こうと思ってたんだけど」

「奇遇だな。ならば一緒に行くか」

「じゃあ俺も行きます」


 司馬昭は即座に言った。


 澪里が司馬懿に何か余計な報告をする前に、そばにいる必要がある。


 父が今の件を知れば、間違いなくどやされる。


 面倒なことこの上ない。


---


「おはようございます、父上」

「おはよう、司馬懿」

「……何だ、お前たち。こんな朝早くから」


 部屋へ入るなり、珍しい組み合わせの来訪者たちに、司馬懿は怪訝そうな顔をした。

 特に奇異の目で見られているのは、どう考えても司馬昭だった。


「父上。俺がいたら変ですか?」

「昭……お前までどうしたのだ。身体の具合でも悪いのか?」

「俺だって早起きする時はしますよ」

「ならば毎日そうしろ」


 司馬懿は溜め息を吐いた。


 横で澪里が少し笑ったのを見て、司馬昭は軽く睨む。

 司馬師は何事もなかったように、司馬懿の前へ書簡を差し出した。


「父上。書簡です」

「うむ。確かに」


 受け取った司馬懿は、次に司馬昭を見る。その視線の意味を察して、司馬昭は先に言った。


「あ、俺は付いてきただけなんで、書簡はありませんよ」

「……用がないなら、さっさと下がれ」

「ひどいなぁ」


 司馬懿は無視して、澪里へ視線を移した。


「澪里。お前は何の用だ」

「えーと、あのね……」


 澪里は口ごもる。

 ちらりと司馬昭と司馬師を見た。


「何だ?俺と兄上がいちゃまずい話か?」

「そういうわけじゃないけど……」

「では何だ」


 司馬懿の声が、少しだけ低くなる。


 澪里は一度息を吸った。


「……戦の話」


 その一言で、部屋の空気が変わった。

 司馬昭も自然と表情を引き締める。


 先ほどまでの気まずさや軽口が、すっと遠のいた。


「澪里、詳しく話せ」


 司馬懿が言う。


 澪里はおもむろに口を開いた。


「公孫淵って男、知ってる?」

「その者がどうした」

「司馬懿に、討伐令が出されるの」


 司馬懿の目が細くなる。


「近いうちに」

「近いうちとはいつだ」


 司馬師が問う。


「詳しい日時と場所は?」


 司馬昭も続けた。

 澪里は首を横に振る。


「そこまでは分からないけど……」

「は?」


 司馬昭は眉をひそめた。


「お前、でたらめ言ってるんじゃないだろうな」

「でたらめじゃないよっ。運命帳に書いて――」


 言ってしまってから、澪里が口を噤んだ。


 まずい。


 司馬昭も内心でそう思った。


 運命帳のことは、司馬昭と澪里、そして司馬懿しか知らない。

 司馬師を見ると、訝しげな顔で澪里を見ていた。


「運命帳?」


 司馬師が静かに繰り返す。その声は穏やかだったが、目はまったく笑っていない。


 澪里が気まずそうに視線を逸らす。


 司馬懿が咳払いをした。


「……澪里」


 空気を整えるように、低く名を呼ぶ。


「だいたいなら分かるのだな」

「う、うん……」


 澪里は司馬懿に助けられた形になり、少しだけほっとしたように頷いた。


「遅くても半年以内。早ければ……」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに。


「――申し上げます!」


 一人の兵士が、勢いよく部屋へ駆け込んできた。息を切らし、床に膝をつく。


「陛下より、司馬懿殿へご命令が下りました!」


 室内の全員が、兵士を見る。

 兵士は声を張った。


「公孫淵討伐のため、直ちに出陣せよとの勅命にございます!」


 沈黙が落ちた。


 澪里の顔から、血の気が引いていく。

 司馬懿は何も言わない。

 司馬師はわずかに目を細める。

 そして司馬昭は、天井を仰いだ。


 これは、あれだ。


 誰がどう見ても、面倒ごとの始まりだ。


---


「運命帳とは何だ」


 兵士が去った後、最初に口を開いたのは司馬師だった。

 声は静かだった。静かすぎるほどに。


 澪里の肩が、わずかに揺れる。


 司馬昭は内心で舌打ちした。


 まずい。

 さっきのは完全に聞かれていた。


「いや、兄上。それは――」

「昭」


 司馬師の目がこちらを向く。


「お前は知っているな」


 逃げ道を塞ぐような声だった。


 司馬昭は頭をかく。


 誤魔化すか。

 笑って流すか。


 だが、目の前にいるのは司馬師だ。下手な嘘をつけば、その場で見抜かれる。


「……俺も、全部知ってるわけじゃありませんよ」

「では、知っている範囲で話せ」

「面倒なこと言いますね……」

「昭」

「分かりましたって」


 司馬昭は息を吐き、ちらりと澪里を見た。


 澪里は何も言わない。

 ただ、不安そうにこちらを見ている。


「こいつは……これから起こることを、多少知ってるみたいです」


 司馬師の目が細くなる。


「多少?」

「ええ。戦がいつ起こるとか、誰が死ぬとか。そういうものが書かれた帳面を持っている」

「それが、運命帳か」

「こいつはそう言ってました」

「なぜ、そのようなものを持っている」

「それは俺にも分かりません」


 司馬昭はあえて、そこだけははっきりと言った。


「ただ、父上は何かご存じのようでしたけどね」


 司馬師の視線が、司馬懿へ移る。


 司馬懿は黙っていた。


 否定しない。

 それが何よりの答えだった。


「父上」


 司馬師が問う。


「この娘は何者ですか」


 司馬懿はすぐには答えなかった。


 しばらく沈黙し、やがて低く言う。


「今は問うな」

「今は、ですか」

「そうだ」


 司馬懿の目が、澪里へ向く。


「その者の言葉が真であるか否かは、これから分かる」


 司馬師は静かに考え込む。

 そして、ゆっくりと澪里を見た。


「つまり、お前は未来を読むのか」


 澪里は答えない。

 司馬昭は咄嗟に言う。


「予言者みたいなもんだと思えばいいんじゃないですかね」

「随分と曖昧だな」

「俺も曖昧にしか知らないので」


 司馬師の視線が鋭くなる。

 だが、それ以上は追及しなかった。


「……よかろう」


 司馬師は言った。


「今は、公孫淵討伐が先だ」


 それから、澪里を見据える。


「だが、澪里」

「……はい」

「お前が何者であれ、魏に利するならば利用する。害するならば斬る」


 冷たい声だった。


 澪里は目を伏せる。


「うん。分かってる」


 その返事があまりにも静かだったので、司馬昭は思わず彼女を見た。

 まるで、そう言われることを最初から知っていたような顔だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ