第17話 囮と奇襲
討伐の命を受けてすぐ、司馬昭たちは軍備を整え、遼東へ向けて出発した。
行軍の末、ようやく公孫淵の拠る襄平城が見えてくる。
遠くにそびえる城を眺めながら、司馬昭は隣に立つ司馬師へちらりと視線を向けた。
「兄上」
「何だ」
「なぜ、あの夜澪里と一緒だったんです?」
ずっと気になっていたことだった。
あの縁側で見た光景。
司馬師が澪里の腰を抱き、顎に触れていた姿。
あれを思い出すたび、胸の奥が妙にざわついた。
司馬師は襄平城を見据えたまま、平然と答える。
「縁側でうたた寝していたのでな。上着をかけてやっただけだ」
「……それだけですか?」
「それだけだ」
「兄上、妙に気障ったらしいところありますね……いえ、なんでもありません」
司馬師の視線が横から刺さったので、司馬昭はすぐに口を閉じた。
あの夜のことは、これまでにも何度か遠回しに訊ねた。
どうやら本当に、口付けはしていないらしい。
それが分かって、なぜか少しだけ胸が軽くなった。
同時に、今度は自分の失態を思い出す。
先日、澪里に迫ったこと。
兄への対抗心だけで、彼女に口付けようとしてしまったこと。
「……はあ」
思い出すだけで、妙に落ち着かない。
口付けくらいで大げさだ、とも思う。
けれど、澪里にとっては違うのだろう。
少なくとも、あんなふうにされるのは嫌だったはずだ。
しかも相手は、未来を知る女だ。
機嫌を損ねれば、今後の自分の人生だけでなく、司馬一族の命運すら左右されるかもしれない。
そう考えると、なおさら面倒だった。
「昭」
司馬師の声に、司馬昭は顔を上げる。
「はい?」
「お前は、あの娘を庇ったな」
「……何の話ですか」
「運命帳のことだ」
司馬昭は一瞬、言葉に詰まった。だが、すぐに肩をすくめる。
「別に、庇ったわけじゃありませんよ」
「ならば、なぜ先に口を開いた」
「面倒なことになると思っただけです」
「お前は面倒なことに、自ら首を突っ込む男ではない」
司馬昭は黙った。
そう言われると、返す言葉がない。
確かに自分は、面倒ごとを避ける方だ。
わざわざ火中に飛び込むような真似はしない。
しないはずだった。
「……兄上は、何でも分かったような顔をしますね」
「分かったような顔をしているのではない。分かるのだ」
「嫌な兄だなぁ」
「褒め言葉として受け取っておこう」
司馬師はわずかに目を細める。
「昭。あの娘は危うい」
「父上にも同じことを言われましたよ」
「ならば、なおさら忘れるな」
その声は静かだった。
けれど、妙に重かった。
「あの娘の言葉ひとつで、戦場の判断が変わる。誰を生かし、誰を死なせるかさえ変わるかもしれぬ」
「……そんな大げさな」
「大げさではない」
司馬師は襄平城を見据えたまま言った。
「未来を知る者が味方にいるということは、勝利に近づくということだ。だが同時に、判断を鈍らせる毒にもなる」
毒。
父も同じことを言っていた。
司馬昭は思わず眉を寄せる。
「父上も兄上も、似たようなことばっかり言うんですね」
「親子だからな」
「そこだけ認めるんですか」
「昭」
司馬師がこちらを見る。
「利用するなら徹底して利用しろ。守るなら徹底して守れ。中途半端が最も危うい」
「……俺は別に、守ろうなんて」
「ならば、なぜ庇った」
またそこに戻る。
司馬昭は苦い顔をした。
「だから、庇ったわけじゃありませんって」
「そうか」
司馬師はそれ以上、追及しなかった。
だが、その沈黙がむしろ痛い。
否定しているのは司馬昭だけで、司馬師は最初から答えを分かっているようだった。
「昭。くだらぬ話は終わりだ。父上に報告へ行くぞ」
「はいはい」
踵を返す司馬師の後を、司馬昭はついていった。
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「父上」
司馬懿は、澪里と二人で何かを話していた。
司馬師が声をかけると、司馬懿が振り返る。
「敵は城より出て布陣。前面の防御を固めています」
司馬師の報告を聞いた澪里が、司馬懿を見上げる。
その顔には、どこか得意げな笑みが浮かんでいた。
まるで、運命帳に書かれた通りでしょう、と言いたげに。
司馬懿は一瞬だけ澪里を見、それから司馬昭たちへ向き直った。
「師よ。お前は囮となって南を攻めよ」
「相変わらず囮が好きで……」
司馬昭は思わず呟いた。
囮にされる側の身にもなってほしい。
もっとも、今回は司馬師が任命されたので、自分としては多少気が楽だ。
「昭は……」
「え。俺にも何か役割が?」
司馬昭は嫌そうに顔を上げる。
「俺、不肖の息子ですよ? 凡愚ですよ? 役に立ちませんって」
「……その考えがすでに凡愚だ、馬鹿め!」
司馬懿に怒鳴られ、司馬昭は大げさに首をすくめた。
ああ、面倒くさい。
「司馬昭には奇襲部隊として働いてもらうから」
口を挟んだのは澪里だった。
司馬懿も頷く。
「澪里の言う通りだ。敵が師の部隊に釣られたら、その背後を突け」
「分かりました」
澪里がそう言うなら、奇襲部隊に回されるのが自分にとって最も安全なのだろう。
少なくとも、そう判断できるだけの理由が運命帳にあるはずだ。
だが、それをさらに確かなものにしておきたい。
「あの、父上」
「何だ」
「一つお願いがあるんですが」
「言ってみろ」
「澪里を俺に同行させても構いませんか?」
司馬懿は澪里へ視線を向けた。
「本人に訊け」
司馬昭はすぐに澪里を見る。
「なぁ、澪里――」
「ダメ」
即答だった。
「私は司馬師と一緒に敵を釣り出すから」
「だそうだ。昭、一人でやれるな」
「なんで俺より兄上を優先するんだよ」
司馬昭は思わず言った。
「澪里、お前は俺の何?」
「……勘違いされるような言い方、やめてくれないかな」
澪里は深いため息を吐いた。
司馬昭は少し顔をしかめる。
彼女が同行を嫌がる理由は、何となく分かる。
きっと、先日のことをまだ怒っているのだ。
「俺ら相棒だろ? 相棒はいつも行動を共にするもんだろーが」
「司馬昭のためなの」
「俺の?」
澪里は頷いた。
「大丈夫。同じ奇襲部隊には、郭淮っていう経験豊かな武将がいるから。ちゃんと活躍してくれるはずだよ」
「そうか。ならいい」
澪里が言うなら、彼女が一緒でなくても大丈夫なのだろう。
自分の身の安全は、少なくとも保障された。
適当にやっても死にはしない。
たぶん。
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「あー……重いな……」
皆と別れ、陣内をぶらぶらしていると、そんな呟きが聞こえた。
夏侯覇だった。
鎧でしっかりと身を固めているが、どうやらその重さに辟易しているらしい。
「こんな鎧、着てくるんじゃなかったな……」
「俺が脱がしてやろうか?」
「……いやいや、変な意味に聞こえるだろ」
司馬昭の冗談に、夏侯覇が吹き出す。
二人で軽く笑っていると、背後から声がした。
「司馬昭……とんでもない男だな。男女の見境なく夏侯覇にまで手を出すとは」
振り返ると、夏侯玄と夏侯威が立っていた。
夏侯玄は司馬昭の上司。
夏侯威は夏侯覇の弟だ。
「なんと強欲なことよ!」
夏侯威が目を吊り上げる。
「兄上に手を出すなど、図々しいにも程がある!」
「は……?」
夏侯玄は面白がっているだけだ。
だが夏侯威は、どうやら本気で怒っているらしい。
「いやいや、落ち着けって」
「兄上! 司馬昭殿の暴挙、許しておけるものではありません!」
「いや、威。これは冗談で……」
夏侯覇は弟に詰め寄られて、珍しくたじろいでいる。
司馬昭はその隙に、さりげなく夏侯覇のそばを離れ、夏侯玄の横へ移動した。
「夏侯玄殿が悪乗りするから、夏侯威が真に受けたじゃないですか。めんどくせぇ」
「最初に悪乗りしたのは司馬昭だろう」
夏侯玄は愉快そうに笑った。
司馬昭も、じゃれ合う夏侯兄弟を眺める。
本当に仲の良い兄弟だ。
そう思った。
自分と司馬師も、仲が悪いわけではない。
悪くはないはずだ。だが、良いかと訊かれれば少し困る。
大人になってから、こうして分かりやすくじゃれ合うことなどない。
幼い頃だって、そこまで多くはなかった気がする。
兄上は兄上で、自分は自分。
近いようで、遠い。そんな距離だった。
しばらくして、再び陣内を歩いていると、澪里の姿を見つけた。
「公孫淵、とんだ凡愚よ」
司馬昭が低い声でそう言うと、澪里はびくっと肩を跳ねさせた後、こちらを振り返った。
「……司馬昭。それ、司馬懿の物真似?」
「なんだその反応。似てたか?」
「同じこと、司馬懿が言ってたけど」
「あの人の喋り方、特徴あるからな」
司馬昭は肩をすくめる。
そういえば、兵卒たちにも真似されていた。
「こんなくだらぬ戦、すぐに終わらせてくれる!」
司馬昭はさらに司馬懿の真似をしてみせる。
「……って言ってたけど、本当にすぐ終わるのか?」
「大丈夫だよ。司馬懿の言う通りにしておけば」
「お前の意見は?」
「司馬懿と同じ」
澪里は襄平城の方を見る。
「まあ、策を使うまでもないけどね」
「策を使うまでもない、か」
それなら、やはり楽に勝てる戦なのだろう。
先ほど敵の状況を見た限り、公孫淵は司馬一族がわざわざ相手にするほど大した相手には思えなかった。
司馬昭は軽く手を上げる。
「じゃ、行ってくる。また本陣でな」
「うん。頑張って」
澪里がそう言う。
その顔には、少しだけ安心したような笑みがあった。
司馬昭はひらひらと手を振り、奇襲部隊へ向かう。
その背中を、澪里はしばらく見送っていた。そして、ふと何かを思い出したように瞬きをする。
「……あ」
小さく声が漏れた。
「そういえば、伏兵があったりするけど……」
澪里は司馬昭が消えていった方を見る。
面倒ではある。
少し危ないかもしれない。
けれど、司馬昭は死なないはずだ。
史実では、そうなっている。
「……大丈夫だよね」
自分に言い聞かせるように呟いてから、澪里は司馬師のいる囮部隊へ向かった。




