表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三國残夢  作者: 仄か
PR
19/19

第18話 兄の心、弟知らず

 開戦して間もなく、司馬昭は命じられた通り、東側に布陣した。


 集まった奇襲部隊の将の中に郭淮の姿を見つけ、司馬昭は少しだけ安堵する。


 郭淮は経験豊かな武将だ。


 幾度も戦場を渡り歩き、退くべき時と攻めるべき時を見誤らない。こういう面倒な役目には、いてくれるだけで心強い人物だった。


 他にも、夏侯玄と鐘会の姿がある。


 夏侯玄は若くして才気を知られた人物で、判断力にも優れている。司馬昭にとっては上官にあたる男だ。


 鐘会はさらに若いが、頭の切れる男だった。言葉の端々に生意気さはあるものの、その才は認めざるを得ない。


 郭淮、夏侯玄、鐘会。


 この面々なら、そう簡単に失敗することはないだろう。


 司馬昭はそう思った。


 少なくとも、自分ひとりでどうにかしろと言われるよりは、ずっとましだ。


 待機してから、しばらく経った。


 ただ待つというのは、暇で仕方がない。


 面倒を避けたいから、澪里を味方にした。

 当然、澪里は司馬昭から面倒ごとを避けるはずだ。

 つまり、今この暇な時間は、彼女が自分の味方である証拠でもある。


「それにしても暇すぎだろ……」


 囮部隊には、司馬師や夏侯兄弟がいるはずだ。澪里も司馬師に同行している。

 要地を攻めるのに手こずっているとは思えないが。


「早く伝令来ないかなぁ」

「司馬昭殿」


 隣から、鐘会が不思議そうに顔を覗き込んできた。


「先ほどから何を呟いているのですか」

「いや、もう暇で暇で、めんどくさくて」

「出番がありすぎても、めんどくせぇ、でしょう?」

「そうだけど。暇すぎるのもどうにかなりそうだ」


 戦の最中に不謹慎だとは思う。


 だが実際、睡魔が襲ってきていた。司馬昭は何とかあくびをこらえる。


 その時だった。


「報告! 敵軍の一部が動き始めました!」


 伝令の声に、司馬昭はようやく背筋を伸ばした。

 伸びをすると、背中がぽきぽきと鳴る。


「……やっと出番か」


 口ではそう言いつつ、面倒なことに変わりはない。


 奇襲部隊は東砦へ向かった。進軍は順調だった。障害らしい障害もない。


 敵の意識は南の囮部隊へ向いている。まさに背後を突くには絶好の機会だった。


 少なくとも、最初はそう見えた。


「げ……ここでそう来るかよ」


 東砦に踏み込んだ直後、司馬昭は思わず声に出した。


 どこに潜んでいたのか、左右の物陰から、敵兵が一斉に現れた。


 それだけではない。


 退路と思っていた道にも、すでに敵影が回り込んでいる。


 伏兵。


 司馬昭たちは、あっという間に囲まれた。


「こりゃまいった……」


 郭淮の声が飛ぶ。


「隊列を崩すな! 下がる者は東門側へ寄れ!」


 さすがに動きが早い。


 郭淮はすぐに部隊を立て直そうとした。

 夏侯玄も冷静に周囲を見渡し、鐘会は敵の流れを読みながら兵に指示を飛ばしている。


 だが、敵の数が多い。しかも勢いがある。


 奇襲のつもりが、逆にこちらが誘い込まれたような形だった。


「さーて、どうすっかな」


 どうするか。


 戦うしかない。


 司馬昭は刀を抜き、向かってくる敵を斬った。

 郭淮たちもそれぞれ武器を構え、応戦する。


 どれくらい経っただろうか。


 周囲には敵味方の兵が倒れている。

 かなりの数を倒したはずだ。

 それでも敵の勢いは衰えなかった。


「司馬昭!」


 郭淮が声を張る。


「ここは長く持たぬ。一度退き、部隊を立て直す!」

「退くんですか?」

「このままでは全滅する」


 郭淮の言葉は冷静だった。


 逃げるためではない。

 勝つために退く。


 それは分かる。


 分かるが、司馬昭の周囲にはまだ兵が残っていた。敵の圧が強く、思うように下がれない。


「夏侯玄殿、鐘会! 後方を開けてくれ!」

「承知した」

「ここで潰されるわけにはいきませんからね」


 夏侯玄と鐘会が部隊を動かす。


 だがその瞬間、敵の一団が横から割り込んできた。


 司馬昭たちの間が裂かれる。


「おい、ちょっと待てって!」


 声を上げた時には、郭淮たちの姿は敵兵の向こう側へ押し流されていた。


 郭淮が何か叫んでいる。

 だが、喧騒に呑まれて聞き取れない。


「郭淮殿は経験豊かな武将じゃなかったのかよ……!」


 澪里の言葉を思い出し、司馬昭は思わずぼやいた。


 だが、本当は分かっている。


 郭淮は逃げたわけではない。戦場を見て、正しい判断をしただけだ。

 まずいのは、そこに乗り損ねた自分だ。


「あー、めんどくせ。へらへらしてる場合じゃないな」


 今になって、澪里が自分への同行を断った理由が分かった気がした。


 この伏兵の存在を、彼女は知っていたのだ。


 ならば、ここは勝ち目のない場所なのだろう。


 勝つ場所ではない。

 生きて戻る場所だ。


「さーて、退却、退却っと――」


 残っている味方に退却命令を出そうとした、その時だった。


 目の前に、刀が振り下ろされた。


「ッ!」


 司馬昭は咄嗟に受け止める。だが、想像以上に重い一撃だった。

 刀そのものは耐えた。しかし衝撃は腕を伝い、肩まで痺れさせる。


「ぐっ……」


 敵将がもう一度踏み込んでくる。


 次の一撃を受けきれず、司馬昭は後ろへ弾き飛ばされた。


 腕が痺れる。


 手から刀が離れた。


 膝をついたまま顔を上げると、敵将が得物を振り回し、司馬昭の部隊の兵を薙ぎ払っていた。


 助太刀しようにも、腕が動かない。

 刀を握ることもできない。


 周囲には、敵味方双方の兵が倒れている。


 まだ息のある者もいるようだが、地に伏せて動かない者に、敵は目を向けない。


 司馬昭は、息を殺した。


 これは。


 上手くいけば、切り抜けられるかもしれない。


「……俺はもう死んでいる、っと」


 司馬昭はゆっくりと身体を横たえた。

 地に頬をつけ、目を閉じる。


 情けないと言えば情けない。

 だが、生き残るためなら何でもいい。


 こうなったのも、澪里のせいだ。

 帰ったら文句を言ってやる。


 帰ったら。


 そう思って、ふと胸の奥が冷えた。


 帰れるのか、俺。


 この状況を、澪里は知っていたはずだ。


 伏兵があることも。

 苦戦することも。


 ならば。


 仮にここで自分が死んでも、彼女の計算の内なのか。


 運命だから。

 帳面にそう書いてあるから。

 だから仕方ないと、あいつは思うのか。


 ――そんな運命、受け入れられるか。


 周囲の喧騒が、だんだん遠のいていく。


 土の匂い。

 血の匂い。

 遠くで誰かが叫ぶ声。

 それらが一つずつ曖昧になっていく。


 司馬昭の意識は、闇へ落ちた。


---


「――昭ッ!」


 誰かが呼んでいる。


「司馬昭!」


 声が近い。

 聞き覚えがある。


「……え」


 司馬昭は目を開けた。


「澪里……?」


 目の前に、澪里がいた。

 顔色を失い、息を切らし、今にも泣きそうな顔でこちらを覗き込んでいる。


「澪里ッ。お前な……!」


 文句を言ってやるつもりだった。

 なのに、声がうまく続かなかった。


「良かった、司馬昭……」


 澪里が、司馬昭にすがりつく。

 その瞳には、うっすら涙が浮かんでいた。


 本気で心配している。


 それが分かって、拍子抜けした。

 怒るつもりだったのに。

 責めるつもりだったのに。

 こんな顔をされると、どうにも調子が狂う。


「大丈夫だ。ほら、生きてるだろ?」

「本当に……?」

「ああ。さっきまで死んでたけど」

「死んでた……?」

「ふりだ、死んだふり」


 澪里が一瞬ぽかんとする。


「……死んだふり?」

「死んだふり。で、気づいたら本当に寝てた」

「寝てたの!?」

「まあ、結果的に生きてるし」


 司馬昭は身体を起こしながら、大きくあくびをした。


 その途中で、少し離れた場所に司馬師が立っていることに気づく。


「あれ、兄上も来てくださったんですか」


 あくびを噛み殺す。


 司馬師は無言だった。

 表情はいつも通りに見える。

 けれど、その目が妙に冷えていた。


「……奇襲は我らで行う」


 司馬師が静かに言った。


「行くぞ」

「はい、兄上」


 司馬昭は立ち上がり、ついて行こうとした。

 だが、不意に司馬師が足を止める。


「昭」

「何ですか?」

「お前は本陣へ戻れ」

「え。なぜですか」

「聞こえなかったか」


 司馬師が振り返る。


「本陣へ戻れと言っている」

「俺、まだ戦えますよ」

「足手まといだ」

「なっ……!」


 思わず声が出た。


「足手まといって何ですか。俺はまだ――」

「くどいぞ、昭」


 その声に、司馬昭は息を呑んだ。

 司馬師の顔は、稀に見るほど険しかった。


 怒っている。


 それも、ただ苛立っているのではない。

 何かを押し殺した怒りだった。


 司馬昭は言葉を失う。

 こういう時の兄に逆らうべきではない。


「……分かりました」


 小さく答える。


 司馬師はそれ以上何も言わず、踵を返した。

 澪里は少しだけ迷うように司馬昭を見た。


「司馬昭……」

「行けよ」


 司馬昭は軽く手を振った。


「俺は本陣に戻る。兄上の足手まといになると悪いしな」


 自分で言って、少し胸が痛んだ。


 澪里は何か言いたそうにしていたが、やがて司馬師の後を追っていった。


---


「司馬昭殿。ご無事でしたか」

「まったく、世話が焼ける弟だな」


 本陣に戻るなり、夏侯覇と夏侯威が声をかけてきた。


 奇襲が失敗したことを茶化されるだろう。


 そう思ったが、それに付き合うほど今の司馬昭に余裕はなかった。


 無視して本陣の隅へ歩いていく。

 だが、夏侯覇だけが後を追ってきた。


「……なんだよ」

「司馬師と澪里が援軍に来ただろ?」

「だから?」


 機嫌の悪さを隠さず返す。

 しかし、すぐに違和感に気づいた。


「……お前、なんで兄上たちが援軍に来たって知ってるんだ?」

「俺が行けって言ったんだ」

「お前が?」

「ああ。奇襲部隊が壊滅したって伝令が来ただろ。その瞬間、司馬師が血相を変えて、お前のところへ行くと言い出してな」

「兄上が?」


 信じられなかった。


 駆けつけては来た。だが取り乱していたのは澪里の方で、司馬師の態度はいつもと変わらなかった。


「要地も放っておく勢いだったぜ」


 夏侯覇は肩をすくめる。


「澪里が止めても聞かなくてな。だから、司馬師の代わりに俺が中央東関門を攻めてた」

「……」

「平静を装ってたけど、あれは内心相当焦ってたと思うぞ」


 夏侯覇は少し笑った。


「あの司馬師殿が冷静さを失うなんてな。やっぱり兄としては心配なんじゃないか?」

「そういうもんなのか?」

「お前、特に手がかかりそうだし」

「ひでぇな」

「俺も兄だから分かるんだよ」


 夏侯覇は胸を張る。


「まあ、俺の弟は優秀だし、手はかからないけどな」

「兄上!」


 突然、夏侯威が会話に割り込んできた。


「この夏侯威、兄上のために頑張ってまいります!」


 夏侯覇は苦笑した。


「はいはい、分かった。ありがとな。お前は先に休んでおけよ」

「はい!」


 夏侯威は見るからに張り切った様子で駆けていった。


 その背を見送り、夏侯覇は司馬昭を見る。


「兄の心、弟知らずってやつだ」


 ぽん、と司馬昭の背を軽く叩く。


「あんまり心配かけるなよ」


 そう言って、夏侯覇は夏侯威の後を追っていった。


 司馬昭は、その場に残されたまま立ち尽くす。


 兄上が、血相を変えて。

 自分のところへ行くと。


 信じられない。


 けれど、夏侯覇が嘘を言う理由もない。


 司馬師の怒った顔を思い出す。

 足手まといだ、と言われた時の声。

 あれは、ただの叱責ではなかったのかもしれない。


「……分かりにくいんだよ、兄上は」


 小さく呟いた。


 けれど、不思議と先ほどより胸の痛みは少しだけ和らいでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ