第18話 兄の心、弟知らず
開戦して間もなく、司馬昭は命じられた通り、東側に布陣した。
集まった奇襲部隊の将の中に郭淮の姿を見つけ、司馬昭は少しだけ安堵する。
郭淮は経験豊かな武将だ。
幾度も戦場を渡り歩き、退くべき時と攻めるべき時を見誤らない。こういう面倒な役目には、いてくれるだけで心強い人物だった。
他にも、夏侯玄と鐘会の姿がある。
夏侯玄は若くして才気を知られた人物で、判断力にも優れている。司馬昭にとっては上官にあたる男だ。
鐘会はさらに若いが、頭の切れる男だった。言葉の端々に生意気さはあるものの、その才は認めざるを得ない。
郭淮、夏侯玄、鐘会。
この面々なら、そう簡単に失敗することはないだろう。
司馬昭はそう思った。
少なくとも、自分ひとりでどうにかしろと言われるよりは、ずっとましだ。
待機してから、しばらく経った。
ただ待つというのは、暇で仕方がない。
面倒を避けたいから、澪里を味方にした。
当然、澪里は司馬昭から面倒ごとを避けるはずだ。
つまり、今この暇な時間は、彼女が自分の味方である証拠でもある。
「それにしても暇すぎだろ……」
囮部隊には、司馬師や夏侯兄弟がいるはずだ。澪里も司馬師に同行している。
要地を攻めるのに手こずっているとは思えないが。
「早く伝令来ないかなぁ」
「司馬昭殿」
隣から、鐘会が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「先ほどから何を呟いているのですか」
「いや、もう暇で暇で、めんどくさくて」
「出番がありすぎても、めんどくせぇ、でしょう?」
「そうだけど。暇すぎるのもどうにかなりそうだ」
戦の最中に不謹慎だとは思う。
だが実際、睡魔が襲ってきていた。司馬昭は何とかあくびをこらえる。
その時だった。
「報告! 敵軍の一部が動き始めました!」
伝令の声に、司馬昭はようやく背筋を伸ばした。
伸びをすると、背中がぽきぽきと鳴る。
「……やっと出番か」
口ではそう言いつつ、面倒なことに変わりはない。
奇襲部隊は東砦へ向かった。進軍は順調だった。障害らしい障害もない。
敵の意識は南の囮部隊へ向いている。まさに背後を突くには絶好の機会だった。
少なくとも、最初はそう見えた。
「げ……ここでそう来るかよ」
東砦に踏み込んだ直後、司馬昭は思わず声に出した。
どこに潜んでいたのか、左右の物陰から、敵兵が一斉に現れた。
それだけではない。
退路と思っていた道にも、すでに敵影が回り込んでいる。
伏兵。
司馬昭たちは、あっという間に囲まれた。
「こりゃまいった……」
郭淮の声が飛ぶ。
「隊列を崩すな! 下がる者は東門側へ寄れ!」
さすがに動きが早い。
郭淮はすぐに部隊を立て直そうとした。
夏侯玄も冷静に周囲を見渡し、鐘会は敵の流れを読みながら兵に指示を飛ばしている。
だが、敵の数が多い。しかも勢いがある。
奇襲のつもりが、逆にこちらが誘い込まれたような形だった。
「さーて、どうすっかな」
どうするか。
戦うしかない。
司馬昭は刀を抜き、向かってくる敵を斬った。
郭淮たちもそれぞれ武器を構え、応戦する。
どれくらい経っただろうか。
周囲には敵味方の兵が倒れている。
かなりの数を倒したはずだ。
それでも敵の勢いは衰えなかった。
「司馬昭!」
郭淮が声を張る。
「ここは長く持たぬ。一度退き、部隊を立て直す!」
「退くんですか?」
「このままでは全滅する」
郭淮の言葉は冷静だった。
逃げるためではない。
勝つために退く。
それは分かる。
分かるが、司馬昭の周囲にはまだ兵が残っていた。敵の圧が強く、思うように下がれない。
「夏侯玄殿、鐘会! 後方を開けてくれ!」
「承知した」
「ここで潰されるわけにはいきませんからね」
夏侯玄と鐘会が部隊を動かす。
だがその瞬間、敵の一団が横から割り込んできた。
司馬昭たちの間が裂かれる。
「おい、ちょっと待てって!」
声を上げた時には、郭淮たちの姿は敵兵の向こう側へ押し流されていた。
郭淮が何か叫んでいる。
だが、喧騒に呑まれて聞き取れない。
「郭淮殿は経験豊かな武将じゃなかったのかよ……!」
澪里の言葉を思い出し、司馬昭は思わずぼやいた。
だが、本当は分かっている。
郭淮は逃げたわけではない。戦場を見て、正しい判断をしただけだ。
まずいのは、そこに乗り損ねた自分だ。
「あー、めんどくせ。へらへらしてる場合じゃないな」
今になって、澪里が自分への同行を断った理由が分かった気がした。
この伏兵の存在を、彼女は知っていたのだ。
ならば、ここは勝ち目のない場所なのだろう。
勝つ場所ではない。
生きて戻る場所だ。
「さーて、退却、退却っと――」
残っている味方に退却命令を出そうとした、その時だった。
目の前に、刀が振り下ろされた。
「ッ!」
司馬昭は咄嗟に受け止める。だが、想像以上に重い一撃だった。
刀そのものは耐えた。しかし衝撃は腕を伝い、肩まで痺れさせる。
「ぐっ……」
敵将がもう一度踏み込んでくる。
次の一撃を受けきれず、司馬昭は後ろへ弾き飛ばされた。
腕が痺れる。
手から刀が離れた。
膝をついたまま顔を上げると、敵将が得物を振り回し、司馬昭の部隊の兵を薙ぎ払っていた。
助太刀しようにも、腕が動かない。
刀を握ることもできない。
周囲には、敵味方双方の兵が倒れている。
まだ息のある者もいるようだが、地に伏せて動かない者に、敵は目を向けない。
司馬昭は、息を殺した。
これは。
上手くいけば、切り抜けられるかもしれない。
「……俺はもう死んでいる、っと」
司馬昭はゆっくりと身体を横たえた。
地に頬をつけ、目を閉じる。
情けないと言えば情けない。
だが、生き残るためなら何でもいい。
こうなったのも、澪里のせいだ。
帰ったら文句を言ってやる。
帰ったら。
そう思って、ふと胸の奥が冷えた。
帰れるのか、俺。
この状況を、澪里は知っていたはずだ。
伏兵があることも。
苦戦することも。
ならば。
仮にここで自分が死んでも、彼女の計算の内なのか。
運命だから。
帳面にそう書いてあるから。
だから仕方ないと、あいつは思うのか。
――そんな運命、受け入れられるか。
周囲の喧騒が、だんだん遠のいていく。
土の匂い。
血の匂い。
遠くで誰かが叫ぶ声。
それらが一つずつ曖昧になっていく。
司馬昭の意識は、闇へ落ちた。
---
「――昭ッ!」
誰かが呼んでいる。
「司馬昭!」
声が近い。
聞き覚えがある。
「……え」
司馬昭は目を開けた。
「澪里……?」
目の前に、澪里がいた。
顔色を失い、息を切らし、今にも泣きそうな顔でこちらを覗き込んでいる。
「澪里ッ。お前な……!」
文句を言ってやるつもりだった。
なのに、声がうまく続かなかった。
「良かった、司馬昭……」
澪里が、司馬昭にすがりつく。
その瞳には、うっすら涙が浮かんでいた。
本気で心配している。
それが分かって、拍子抜けした。
怒るつもりだったのに。
責めるつもりだったのに。
こんな顔をされると、どうにも調子が狂う。
「大丈夫だ。ほら、生きてるだろ?」
「本当に……?」
「ああ。さっきまで死んでたけど」
「死んでた……?」
「ふりだ、死んだふり」
澪里が一瞬ぽかんとする。
「……死んだふり?」
「死んだふり。で、気づいたら本当に寝てた」
「寝てたの!?」
「まあ、結果的に生きてるし」
司馬昭は身体を起こしながら、大きくあくびをした。
その途中で、少し離れた場所に司馬師が立っていることに気づく。
「あれ、兄上も来てくださったんですか」
あくびを噛み殺す。
司馬師は無言だった。
表情はいつも通りに見える。
けれど、その目が妙に冷えていた。
「……奇襲は我らで行う」
司馬師が静かに言った。
「行くぞ」
「はい、兄上」
司馬昭は立ち上がり、ついて行こうとした。
だが、不意に司馬師が足を止める。
「昭」
「何ですか?」
「お前は本陣へ戻れ」
「え。なぜですか」
「聞こえなかったか」
司馬師が振り返る。
「本陣へ戻れと言っている」
「俺、まだ戦えますよ」
「足手まといだ」
「なっ……!」
思わず声が出た。
「足手まといって何ですか。俺はまだ――」
「くどいぞ、昭」
その声に、司馬昭は息を呑んだ。
司馬師の顔は、稀に見るほど険しかった。
怒っている。
それも、ただ苛立っているのではない。
何かを押し殺した怒りだった。
司馬昭は言葉を失う。
こういう時の兄に逆らうべきではない。
「……分かりました」
小さく答える。
司馬師はそれ以上何も言わず、踵を返した。
澪里は少しだけ迷うように司馬昭を見た。
「司馬昭……」
「行けよ」
司馬昭は軽く手を振った。
「俺は本陣に戻る。兄上の足手まといになると悪いしな」
自分で言って、少し胸が痛んだ。
澪里は何か言いたそうにしていたが、やがて司馬師の後を追っていった。
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「司馬昭殿。ご無事でしたか」
「まったく、世話が焼ける弟だな」
本陣に戻るなり、夏侯覇と夏侯威が声をかけてきた。
奇襲が失敗したことを茶化されるだろう。
そう思ったが、それに付き合うほど今の司馬昭に余裕はなかった。
無視して本陣の隅へ歩いていく。
だが、夏侯覇だけが後を追ってきた。
「……なんだよ」
「司馬師と澪里が援軍に来ただろ?」
「だから?」
機嫌の悪さを隠さず返す。
しかし、すぐに違和感に気づいた。
「……お前、なんで兄上たちが援軍に来たって知ってるんだ?」
「俺が行けって言ったんだ」
「お前が?」
「ああ。奇襲部隊が壊滅したって伝令が来ただろ。その瞬間、司馬師が血相を変えて、お前のところへ行くと言い出してな」
「兄上が?」
信じられなかった。
駆けつけては来た。だが取り乱していたのは澪里の方で、司馬師の態度はいつもと変わらなかった。
「要地も放っておく勢いだったぜ」
夏侯覇は肩をすくめる。
「澪里が止めても聞かなくてな。だから、司馬師の代わりに俺が中央東関門を攻めてた」
「……」
「平静を装ってたけど、あれは内心相当焦ってたと思うぞ」
夏侯覇は少し笑った。
「あの司馬師殿が冷静さを失うなんてな。やっぱり兄としては心配なんじゃないか?」
「そういうもんなのか?」
「お前、特に手がかかりそうだし」
「ひでぇな」
「俺も兄だから分かるんだよ」
夏侯覇は胸を張る。
「まあ、俺の弟は優秀だし、手はかからないけどな」
「兄上!」
突然、夏侯威が会話に割り込んできた。
「この夏侯威、兄上のために頑張ってまいります!」
夏侯覇は苦笑した。
「はいはい、分かった。ありがとな。お前は先に休んでおけよ」
「はい!」
夏侯威は見るからに張り切った様子で駆けていった。
その背を見送り、夏侯覇は司馬昭を見る。
「兄の心、弟知らずってやつだ」
ぽん、と司馬昭の背を軽く叩く。
「あんまり心配かけるなよ」
そう言って、夏侯覇は夏侯威の後を追っていった。
司馬昭は、その場に残されたまま立ち尽くす。
兄上が、血相を変えて。
自分のところへ行くと。
信じられない。
けれど、夏侯覇が嘘を言う理由もない。
司馬師の怒った顔を思い出す。
足手まといだ、と言われた時の声。
あれは、ただの叱責ではなかったのかもしれない。
「……分かりにくいんだよ、兄上は」
小さく呟いた。
けれど、不思議と先ほどより胸の痛みは少しだけ和らいでいた。




