第7話 秘された奇跡
室内の気配が動いた。
司馬昭は素早く扉から離れ、廊の陰へ身を寄せる。
やがて扉が開き、澪里が出てきた。その顔を、月明かりが淡く照らしている。
司馬昭は息を潜めたまま、澪里が薄暗い廊下の向こうへ消えていくのを見送った。
姿が見えなくなってから、小さく息を吐く。
「……失礼します、父上」
返事を待たずに中へ入った。
司馬懿はまだ、部屋の中央に立っていた。
いつものように静かな顔をしている。だが司馬昭の目には、その気配がまだわずかに張り詰めているのが分かった。
「昭か。こんな時間に何の用だ」
「今、ずいぶん面白そうな話をしていましたね」
司馬昭は扉を閉めると、そのまま父をまっすぐ見た。
「勝手に間者を牢から連れ出して、しかも二人きり。魏の重臣ともあろう人が、ずいぶん大胆じゃないですか」
「言葉を選べ」
「一応選んでますよ。これでも」
司馬懿の眉が、ぴくりと動く。
「一体何を企んでるんですか、父上」
「……何のことだ」
「しらばっくれるには無理があるでしょう」
司馬昭は一歩踏み込んだ。
「澪里は何者です?ただの知り合いというだけじゃなさそうですね」
「お前には関係ない話だ」
「関係なくはない」
即座に返した。
「俺はあいつと関わった。あいつのせいで面倒ごとに巻き込まれた。今さら“関係ない”で済ませられるわけがない」
「済ませろ」
「無理ですね」
司馬昭は肩をすくめたが、その目は笑っていなかった。
「三国が一つだった。澪里が三国を統一した。そんな与太話だけでも十分怪しいのに……父上、あいつを見た時の顔、自分で分かっています?」
「……昭」
「分かっていないなら言いますけど、あれはただの旧知の顔じゃない」
空気が変わった。
司馬懿の目が、冷たく細まる。
「それ以上は踏み込むな」
「踏み込みますよ」
司馬昭も退かない。
「何で知り合いだと隠すんです。何であんな厄介な話を二人だけで共有してるんです。何で父上が、あんな顔をするんです」
「昭」
「何で抱き寄せたんです」
その一言に、司馬懿の表情が凍りついた。
司馬昭は、そこで確信した。
やはり図星だ。
ただの勘ではない。今この沈黙自体が、答えのようなものだった。
「見ていたのか」
「見ましたよ。聞きましたよ。悪かったですね、盗み聞きで」
わざと投げやりに言うと、司馬懿の眉間に皺が寄る。
「お前は……」
「俺は部外者かもしれません。でも、澪里と関わった今、立派な関係者だ」
司馬昭の声が低くなる。
「しかも相手は魏に潜り込んだ間者だ。父上が隠していることが個人的な話だけならまだしも、三国全部を巻き込むような秘密なら、聞く権利はある」
「権利、だと?」
「ありますよ。俺は魏の将ですから」
司馬懿が一歩踏み出した。
その圧に、普通なら足が竦む。
だが、司馬昭は目を逸らさなかった。
「お前のためなのだ。察しろ、馬鹿め」
「察したところで何も分かりませんよ」
少しだけ、語気が強くなる。
「父上はいつもそうだ。察しろ、黙っていろ、余計なことを知るな。そうやって全部一人で抱え込む」
「黙れ」
「黙りません」
「昭!」
鋭い声が部屋を打った。一瞬、空気が張り詰める。
それでも、司馬昭は引かなかった。
「俺は子どもじゃない」
「……」
「父上にとって澪里が特別なのは分かりました」
司馬懿の目が揺れる。ほんの一瞬だけ。
「でも、それで誤魔化されるほど俺は馬鹿じゃない。父上に何があったのか、あいつと昔どういう関係だったのか……そこは正直、どうでもいい」
「どうでもいい、だと?」
「ええ。今は、ですよ」
そこで司馬昭は、少し間を置いた。
「けど、その“どうでもいいはずのこと”が、今の父上の判断を曇らせているなら話は別だ」
「っ……」
「個人的に何があったのかは知らない。でも父上は、あいつのことになると明らかにおかしい」
司馬昭は、父を真っ直ぐ見据えた。
「それが魏に関わるなら、聞かないわけにはいかない」
沈黙が落ちた。
司馬懿は何も言わない。その無言の圧は凄まじかったが、司馬昭は目を逸らさなかった。
長い、長い沈黙の後。
司馬懿の肩が、ほんのわずかに落ちた。
「……分かった」
「父上」
「そんなに知りたいのなら教えよう」
その声は低く、疲れていた。
折れたのではない。観念した。
司馬昭には、そう見えた。
「ただし約束しろ。途中で話を遮らぬこと。最後まで黙って聞くこと。聞いた上で取り乱さぬこと」
「……はい、父上」
「それから」
司馬懿は、一度言葉を切った。
その間が、妙に重い。
「今から話す内容は、絶対に口外するな。兄にも、友にも、誰にもだ」
「分かりました」
「軽い」
「軽く言ってませんよ」
司馬昭が返すと、司馬懿は疲れたように息を吐いた。
「……本当は、お前にも話すつもりはなかった」
「え?」
「知らぬままでいれば、まだ遠ざけられた」
司馬昭は眉を寄せる。
「そんなに厄介なんですか」
「厄介、などという言葉で済むものか」
司馬懿の目が鋭くなる。
「お前はもう澪里と出会ってしまった。関わってしまった。だから、もう隠し通せぬのだ」
「父上……」
「これ以上、何も知らぬまま近づけば、お前は必ず巻き込まれる」
その言葉だけ、少し違った。
叱責ではない。もっと切実な何かが滲んでいた。
「……だから黙っていた。お前だけは遠ざけておきたかった」
司馬昭は一瞬、言葉を失う。
父が自分を守ろうとしていた。
そんなことは分かっていたつもりだった。だが、こうしてはっきり滲むと、妙に胸に引っかかる。
司馬懿は目を伏せ、そして再び顔を上げた。
「澪里は、この時代の者ではない」
「……は?」
「遥か未来から来た人間だ」
「ちょ、父上、それはさすがに――」
言いかけた瞬間、凄まじい形相で睨まれ、司馬昭は慌てて口を閉じた。
「……すみません。つい」
「約束したはずだ」
「はい……」
司馬懿はしばらく司馬昭を睨んでいたが、やがて低く続けた。
「ある時、澪里はこの地に現れた。夜の虹が見える時だった」
「それって……」
以前、父が語ったことがある。
夜の虹が見える時、奇跡が起きる。
一人の少女が三国を統一し、戦乱を終わらせた――あの話。
「その少女が、澪里なんですね」
「そうだ」
「奇跡の正体は……未来の人間が現れることだったんですか」
「奇跡と呼ぶなら、それもまた一つだろう」
司馬懿の声音は淡々としていた。
だが、その奥には思い返すこと自体が痛いような響きがあった。
「澪里は未来から来た。そのことは、澪里と深く関わった将なら皆知っている。魏も、呉も、蜀もな」
「だから三国で秘密にしていた……?」
「ああ。口外せず、存在を隠すと約定を交わした」
「でも、根拠は?」
司馬昭はまだ完全には飲み込めない。
「あいつが未来の人間だと、何で断言できるんです」
「澪里は、この先に起こる出来事を知っている」
「出来事……」
「戦況、勝敗、出陣する武将の名と数。そして――天命」
「天命?」
「誰が、いつ、どのように死ぬかだ」
司馬昭は息を呑んだ。
「……それは」
「運命を変える力だ」
司馬懿の声が、重く落ちる。
「その知識一つで国は傾く。武将一人の生死で戦は変わる。ゆえに、澪里の存在が露見すれば争奪になる。三国すべてが血眼になる」
「だから隠した……」
「そうだ」
司馬昭は黙り込む。
ようやく、父があれほど拒んだ理由が少しだけ見えた気がした。
「じゃあ……澪里は未来を知っていたから、その知識を駆使して三国を統一したんですか」
「それは要因の一つにすぎん」
「他にも理由が?」
「ある」
司馬懿は短く答えた。
「だが、それを今のお前に教えるつもりはない」
「何でです」
「自分で答えを見つけろ、昭」
司馬懿の目が、静かに司馬昭を射抜く。
「お前がそれに値するなら、自ずと見える」




