第6話 父の知らぬ顔
夜も更けていた。
王元姫はすでに退出し、王家へ戻っている。ようやく執務から解放された司馬昭も、そろそろ屋敷へ帰るつもりで、机の上に積まれていた書簡を片づけた。
「……やっと帰れる」
思わず零れた声には、自分でも分かるほど疲れが滲んでいた。
今日は散々だった。
夜明け前に草原から歩いて戻り、馬を盗んだ女を追い、兄上と屋根の上で妙な捕物をし、挙げ句の果てに、その女が父上の昔を知っているらしいときた。
澪里。
そう名乗った女の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
牢の中で肉まんを頬張っていた、間者らしくない女。
父上の名を聞いて、寂しげに笑った女。
曹丕や夏侯淵の死を知って、今この場で何かを失ったような顔をした女。
「……何なんだよ、ほんと」
書簡の文字を追っている時も、結局ほとんど頭に入らなかった。
父上が知らぬと言った名。
だが、知らぬはずのない名。
羽扇が止まった一瞬が、何度も頭の中で繰り返される。
あの司馬懿が、たったひとつの名で崩れた。
それだけで、澪里という女がただ者ではないことは分かる。
分かるのに、肝心なところだけが見えない。
「めんどくせぇ……」
そう呟き、司馬昭は凝り固まった肩を回しながら、庭に面した回廊へ出た。
夜気が肌に触れる。
宮中は昼間とは違い、妙に静まり返っていた。灯りの落ちた殿舎の間を、月明かりだけが薄く満たしている。
帰るなら、今すぐ帰ればいい。屋敷へ戻り、寝台に倒れ込む。それが一番いい。
そう思っていた、その時だった。
庭を横切る人影があった。
月明かりに照らされたその人物は、郭淮だった。
司馬昭は何気なく目を向け、次の瞬間、眉をひそめた。
郭淮の後ろを歩いているのは――。
「……澪里?」
牢に捕らえられているはずの女が、なぜ夜中に出歩いている。しかも、連れているのは郭淮だ。
郭淮は司馬懿の配下として信頼の厚い武将である。勝手に罪人を牢から出すような男ではない。
ならば、これは誰かの命だ。
父上か。
司馬昭は反射的に二人の後を追った。
郭淮の歩みに迷いはなかった。澪里をどこへ連れていくべきか、最初から分かっている歩き方だった。澪里もまた逃げようとはしない。
昼間は屋根の上まで逃げ回った女が、今は大人しく郭淮に従っている。
その背中は、捕らわれた者というより、何かを覚悟した者のように見えた。それが余計に引っかかる。
司馬昭は柱の陰を伝うようにして、静かに距離を詰めた。
やがて二人が辿り着いたのは、司馬懿に与えられた執務室だった。
司馬昭は思わず足を止める。
やはり父上か。
郭淮は扉の前で一礼すると、すぐにその場を離れた。
中に残ったのは、澪里と、そしておそらく父――司馬懿だけ。
「……何してんだ、父上」
低く呟き、司馬昭は気配を殺して廊の柱陰へ身を寄せた。
本来なら、ここで立ち去るべきなのだろう。
父が自分たちを下がらせた理由。
澪里を夜中に牢から出した理由。
それを詮索されることを、父は望まないはずだ。そんなことは分かっている。けれど、足は動かなかった。
知らないふりをして帰るには、今日一日であまりにも多くのものを見すぎた。
司馬昭は慎重に扉へ近づく。
わずかに開いた隙間から、室内の燭火が細く漏れていた。
「本当に……澪里なのか……」
聞こえてきた司馬懿の声に、司馬昭は目を瞬かせた。
それは驚きだけではない。
もっと別の、妙に掠れた響きを帯びていた。
司馬昭の知る父の声ではなかった。
「うん」
澪里の声が小さく返る。
「久しぶり、司馬懿」
久しぶり。
その一言が、妙に胸に引っかかった。
やはり二人は知り合いだった。
それも、ただ顔を知っている程度ではない。
「なぜ……戻って来た」
司馬懿の声が低く揺れる。
「私は、二度と会わぬと思っていた」
「私もだよ」
「ならば、なぜ来た」
「……夜の虹が現れたの」
夜の虹。
司馬昭は息を潜めた。
父上が語った、奇跡の話。
三国が一つになった時に現れたという、あの夜の虹。
「だから来たというのか。無視すればいいものを……」
「できなかった」
「なぜだ」
「私を呼ぶ声も聞こえた。だから」
司馬懿の気配が変わった。
扉越しでも分かるほど、その場の空気が強張る。
「待て。落ち着け。そんなこと、あるはずがない……」
「でも、聞こえたの」
「誰の声だ」
「分からない」
澪里の声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、わずかな怯えがあった。
「分からないから、来たの。確かめなきゃいけないと思った」
「馬鹿めが」
司馬懿が吐き捨てるように言った。だが、その声は冷たくなかった。むしろ、ひどく苦しげだった。
「まったく、昔からお前は……」
「ごめん」
「謝るな」
短い沈黙が落ちた。
司馬昭は、扉の隙間から室内を覗く。
司馬懿の手が澪里へ伸びていた。一瞬、ためらうように宙で止まる。
触れていいのか。
触れてしまえば、何かが戻ってしまうのではないか。
そんな迷いが見えるようだった。
だが次の瞬間、その指先は迷いを振り切るように澪里へ触れた。
司馬懿は彼女の身体を引き寄せると、そのまま腰に腕を回し、ぐっと抱き寄せる。
司馬昭は思わず息を止めた。
父が女を抱くこと自体は、不思議ではない。
だが、これはそういう抱き方ではなかった。
欲でも、気まぐれでもない。もっと深く、もっと厄介な何かを抱えた腕だった。
失ったものを、今さら確かめるような。
もう二度と戻らないはずだったものに、触れてしまったような。そんな抱き方だった。
「司馬懿……少し老けたね」
「お前は変わらぬな」
司馬懿は小さく息を吐いた。
「……いや、以前より大人びたか」
「そっちも、前より優しい顔するようになったよ」
「戯言を言うな。私は昔からこうだ」
「嘘ばっかり」
澪里が少し笑った。
その声は、牢で聞いたものとは違っていた。もっと柔らかく、もっと近い。
司馬昭の知らない澪里の声だった。
「前はもっと難しい顔ばっかりしてた」
「それは、お前が面倒なことばかり持ち込むからだ」
「今も持ち込んでるね」
「自覚があるなら、少しは改めろ」
「善処します」
「する気のない返事だな」
二人の言葉は、軽い。
けれど、その軽さがかえって胸に刺さった。長い時間を共有した者同士の軽さだった。
司馬昭の入り込めない、遠い昔の空気がそこにある。
しばし見つめ合った後、司馬懿はようやく澪里を放し、背を向けた。
「勘違いするな。私は……お前に未練など、ない」
「よかった。あったら困るとこだよ」
「私には私の大事なものができた。可愛い息子たちがな。それに……鬼嫁とはいえ、妻との暮らしも悪くない」
「知ってる。いい奥さんなんでしょ」
「ああ。悪くはない。恐ろしいが……」
「やっぱり、そうなんだ」
司馬昭は眉をひそめた。
未練などない。
そんなこと、わざわざ口にする時点で怪しい。
しかも父の口から、その言葉が出ること自体が妙だった。
否定すればするほど、過去に何かあったと白状しているようなものではないか。
それに。
可愛い息子たち。
その言葉にも、妙な居心地の悪さがあった。
父が自分たちを大事にしていることを疑ったことはない。
だが、その言葉を澪里に向けて告げていることが、なぜか引っかかった。
まるで、過去の誰かに向けて、今の自分を守ろうとしているみたいだった。
「しかし、お前は……なぜまたここへ……」
司馬懿が改めて問う。
「夜の虹だけではないのだろう」
澪里はしばらく黙っていた。
「分からない」
「またそれか」
「本当に分からないの。気づいたら、空から落ちてた」
「空から?」
「うん。しかも、下に司馬昭がいた」
「昭が?」
司馬懿の声に、わずかな動揺が混じる。
「いきなり出会ったのか」
「うん」
「……あれは、まだ何も知らぬ」
「分かってる。だから逃げた」
「逃げ切れなかったようだがな」
「馬は借りたんだけど」
「借りた?」
「一応、返したよ」
「そういう問題ではない」
司馬昭は思わず口元を引きつらせた。
やはり馬を盗んだ自覚は薄いらしい。だが、二人の会話に割って入るわけにはいかない。
司馬懿は重く息を吐いた。
「我らは約束した。お前のことを口外しない、と。呉と蜀は敵だが、そのことに関しては信じられる」
「そうだね。あの時、確かに三国は一つだった」
「お前のおかげだ。お前が我らをまとめ、三国統一を成したのだ」
「ううん。みんなが私のために力を貸してくれたんだよ」
司馬昭は息を潜めた。
聞こえてくる言葉の一つひとつが理解できない。
三国が一つだった。
三国統一。
何の話をしているのか、まるで分からない。
だが、分からぬまま聞き流してよい話ではないことだけは分かった。
父が昔、五丈原で言っていた。
過去に一度だけ、三国が一つになった時があった、と。
その中心にいた少女。
戦をせず、言葉で三国を一つにしてみせた少女。
まさか。
司馬昭の視線が、扉の隙間の向こうにいる澪里へ向く。
どこにでもいそうな少女。
肉まんを疑いもせず頬張った、間者らしくない女。
あれが。
父上が語った、奇跡の中心だというのか。
「だけど、間違ってた」
澪里がぽつりと言った。
「いきなり司馬昭と出会うし。来ない方が良かった、よね」
自分の名が出た瞬間、司馬昭の肩がぴくりと揺れる。
一体、何だ。
何を知っている。
なぜ、自分と出会ったことが“間違い”になる。
「昭には近づくな」
司馬懿の声が低くなった。
司馬昭は息を止める。
「なぜ?」
「今のお前は危うすぎる。何を知っていて、何を変えるつもりなのか、それが分からぬ以上、昭には関わらせられぬ」
「変えるつもりなんてないよ」
「ならば、なぜ戻った」
「だから、分からないって言ってるでしょ」
「分からぬものに巻き込むなと言っている」
その言葉は、静かだった。
けれど、父の声には明らかな警戒があった。
司馬昭を守ろうとしている。それは分かる。分かるのに、胸の奥がざわついた。自分だけが話の外に置かれている。
父と澪里は、同じ過去を知っている。その過去の中に、自分はまだ存在しない。
それが、妙に面白くなかった。
「でも、もう会っちゃった」
澪里が小さく言う。
「それに、司馬昭は……私のこと、忘れてくれなかった」
司馬昭の胸が、かすかに跳ねた。
昼間の牢での言葉が蘇る。
忘れてって言ったのに。
忘れられるかよ。
「それは昭が愚かだからだ」
「ひどい言い方」
「事実だ。あれは余計なことに首を突っ込む」
父上にだけは言われたくない。
司馬昭は胸の内でぼやいた。
「でも、優しかったよ」
澪里の声が、少しだけ柔らかくなる。
「肉まん、持ってきてくれた」
「……何をしているのだ、あれは」
司馬懿が低く呻く。
「牢に入れた相手に肉まんを?」
「うん。毒も入ってなかった」
「当たり前だ」
「美味しかった」
「そういう話ではない」
澪里が小さく笑った。その笑い声に、司馬昭はまた胸の奥を引っかかれた。
なぜだろう。
自分の知らない父との会話の中で、自分のしたことが語られている。
それだけのことなのに、妙に落ち着かない。
「司馬懿」
澪里の声が少し真面目になる。
「私は、司馬昭を困らせるつもりはないよ」
「すでに困らせている」
「それは……ごめん」
「謝る相手が違う」
「分かってる」
短い沈黙が落ちた。
「でも、もし私がここに来た意味があるなら」
澪里は静かに言った。
「きっと、司馬昭に関係があるんだと思う」
司馬昭は扉の陰で身を固くした。
父の気配もまた、鋭くなる。
「何か知っているのか」
「……知らない」
「澪里」
「本当に、今はまだ分からないの」
今はまだ。
その言葉が、妙に重かった。
いずれ分かるということか。
それとも、すでに知っているが言えないということか。
司馬昭には判断できない。ただ、分かることがある。
この二人は、自分の知らない何かを共有している。
それも、ただの昔話では済まない何かを。
父の知らぬ顔。
澪里の知らぬ声。
そして、自分だけが知らされていない過去。
三国が一つだった。
澪里がそれを成した。
そんな荒唐無稽な話よりも先に、司馬昭の胸に棘のように引っかかったのは、もっと単純なことだった。
――父上と澪里は、昔、ただならぬ関係だったのではないか。
そう思った瞬間、胸の奥が妙にざらついた。
父に対してではない。
澪里に対してでもない。
ただ、自分だけが何も知らないという事実が、ひどく気に入らなかった。
司馬昭は扉の隙間から、もう一度だけ室内を覗く。
澪里は司馬懿を見上げていた。司馬懿もまた、彼女を見ていた。
二人の間に流れる沈黙は、言葉よりも多くのものを含んでいる。
司馬昭は唇を引き結んだ。
面倒ごとだ。
間違いなく、面倒ごとだ。
関わらない方がいい。
そんなことは、分かっている。
けれど、もう遅い。
父上が隠しているもの。
澪里が抱えているもの。
そして、自分の名が、その中でどうして出てくるのか。
知らないままではいられなかった。




