表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三國残夢  作者: 仄か
PR
6/19

第5話 肉まんと罪人

「よぉ。元気にしてるか?」

「……何しに来たの?」


 牢の隅に座り込んでいた澪里が、怪訝そうに顔を上げた。


 司馬昭は鉄格子の向こうへ、包みを差し出す。


「腹が減ってるんじゃないかと思ってな」


 包みの中には、まだ少し温かい肉まんが入っていた。

 澪里は一瞬きょとんとした後、ゆっくりと手を伸ばす。


「あ……ありがとう」


 そう言って受け取ると、澪里は肉まんにかぶりついた。


 疑う素振りはない。


 毒が盛られているかもしれない、とは考えないのだろうか。


 美味しそうに頬張るその顔は、どう見ても敵地へ潜り込んだ間者のものではなかった。


「……お前、本当に間者なのか?」


 司馬昭が訊いてみる。


 けれど澪里は答えない。ただ、肉まんをもぐもぐと食べている。


 司馬昭はその様子をしばらく眺めてから、隣に立つ司馬師へ視線を向けた。


「兄上。こいつ、間者じゃないですね」

「そのようだな」


 司馬師は淡々と答える。


「だが、怪しいことに変わりはない」


 冷えた視線が、鉄格子の向こうにいる澪里へ向けられた。


「貴様は一体何者だ」

「何者だ、と言われても……」


 澪里は困ったように笑った。


 改めて見ると、彼女はそれなりに整った顔立ちをしている。

 美しい、というよりは可愛らしい。ただ、とりたてて目を引くような華があるわけではない。少なくとも、三国の英雄たちと関わりがあるようには見えなかった。


 どこにでもいそうな女。


 それなのに、どうしてこれほど引っかかるのか。


「答えられぬのか」


 司馬師の声が少し低くなる。


「言っても、司馬師に理解できるとは思えないよ」


 その瞬間、空気が凍った。


 司馬昭は思わず顔を引きつらせる。


 父譲りの冷静さと聡明さを持ち、周囲から畏怖と畏敬を向けられる兄に向かって、平然とそんなことを言うとは。


 破天荒。


 いや、命知らずと言った方が近い。

 案の定、司馬師の目元に薄い怒りが滲む。


「あ、えーと……」


 司馬昭は慌てて口を挟んだ。


 このままでは、澪里が肉まんを食べ終える前に兄に斬られかねない。


「お前、父上と知り合いみたいだが、どういう関係なんだ?」


 助け船のつもりだった。

 少なくとも、話題を変える必要があった。


 澪里は肉まんを持ったまま、少し考えるように首を傾げる。


「んー……あなたたちのお父さんは、何て言ってた?」

「知らないってさ」

「……そっかぁ」


 澪里は小さく笑った。

 けれど、その笑みはどこか寂しげだった。


「彼がそう言うなら、その通りなんじゃないかな」


 司馬昭は眉をひそめる。


 彼がそう言うなら。


 その言い方は、明らかに他人へ向けるものではなかった。


「お前――」

「誰かいるのか」


 司馬昭が言いかけた時、牢の外から男の声が響いた。


 足音が近づいてくる。現れたのは郭淮だった。

 司馬懿の配下として、長く魏の西方を支えてきた武将だ。司馬昭もその名と顔は知っている。だが、こうして近い距離で言葉を交わすのは初めてに近かった。


 郭淮は司馬師と司馬昭を見るなり、わずかに目を細めた。


「……司馬師、司馬昭。こんなところで何をしている」

「別に大したことではありませんよ」


 司馬昭は軽く返す。


「そうは見えぬな」


 郭淮の視線が、鉄格子の向こうへ向けられる。


「司馬一族の御曹司が、揃って罪人に用とは」

「こいつは罪人じゃない」


 司馬昭の声が、思ったより低くなった。


 自分でも少し驚く。

 澪里が顔を上げた。


 郭淮は一瞬だけ司馬昭を見た後、静かに言った。


「……司馬懿殿が、お二人を探しておられた」


 そう来たか。


 父が呼んでいるとなれば、無視するわけにはいかない。

 司馬師もそれを分かっているのだろう。澪里へ一度だけ視線を落とし、それから踵を返した。


「行くぞ、昭」

「……分かりましたよ」


 司馬昭は鉄格子の向こうを見た。

 澪里は肉まんを両手で持ったまま、こちらを見ている。


「また来る」

「来なくていいよ」

「そう言われると来たくなるな」

「性格悪いね」

「お互い様だろ」


 軽口を交わしてから、司馬昭は牢を後にした。


 外へ出ると、湿った空気が少しだけ薄くなる。

 牢の中とは違うはずなのに、胸の奥の重さは消えなかった。


「結局、肝心なことは何も聞けませんでしたね」


 歩きながら、司馬昭は司馬師に言った。


「いや」


 司馬師は前を向いたまま答える。


「一つ、確かなことが分かった」

「何です?」

「父上とあの女は、知り合いだ」


 司馬昭は苦笑した。


「ですよね」


 あの反応を見れば、そう考えるしかない。


 司馬懿に澪里のことを訊いた時、父は知らないと言った。

 澪里に司馬懿のことを訊いた時、彼女もまた、その言葉に合わせた。

 まるで、互いに口裏を合わせているかのように。


 いや。


 口裏というより、相手の選択を尊重しているように見えた。


「しかも、敵対関係ではなさそうだ」

「それには俺も同感です」


 司馬昭は腕を組む。


「俺たちに知られたくない関係なんですかね」

「……と言うと?」

「妾、とか」


 司馬師が少しだけ眉を動かした。


「その程度のことを、父上がわざわざ隠すとは思えぬが」

「まあ、そうですよね」


 司馬懿ほどの身分であれば、側室がいてもおかしくはない。

 それに、司馬師も司馬昭も、もう子どもではない。その程度の事情で動揺する年でもなかった。


 そもそも、もし本当にそうなら、父はもっと上手く隠す。


 あんな綻びは見せない。


「それより、昭」

「はい?」

「澪里と文帝陛下、それから夏侯淵殿の関係をどう思う」

「あー……澪里が文帝陛下や夏侯覇の父上と仲良しって話ですか」


 曹丕のことを敬称もなく呼び、夏侯淵に至ってはあだ名で呼んでいたという。


 普通なら、あまりにも無礼だ。


 だが、澪里の言い方には嘘の響きがなかった。


「澪里は、かつての英雄たちと親しい……?」


 司馬昭は呟きながら、ふと足を止めた。


「兄上。だとしたら……」


 嫌な可能性に思い当たる。


 もし澪里が、魏の有力者と深い関わりを持つ者だったら。


 それも、司馬懿や文帝陛下、夏侯淵と親しいような立場なら。


「ヤバくないですか?」


 司馬昭は真顔で言った。


「俺らの澪里への言動。間者扱いして牢に入れたし、兄上なんてかなり怖い顔で睨んでましたし」

「お前も捕まえる時、随分と雑だったが」

「それは兄上との連携の結果です」

「責任を分けるな」

「分けましょうよ、兄弟仲良く」


 司馬師は薄く笑う。


「もし問われたら、寛大な処置を願おう」

「いや、そんな軽く言います?」


 自分たちの首が飛ぶ恐れすらあるというのに、司馬師はまるで動じていない。


 むしろ楽しんでいるようにすら見える。


「俺は嫌ですよ。めんどくせぇ」


 司馬昭は小さく呟く。


 だが、足は止めなかった。


 どうせもう、関わってしまった。


 父が隠そうとしている女。

 過去の英雄たちの名を懐かしそうに呼ぶ女。

 そして、肉まんひとつであんなふうに笑う、間者らしくない女。


 面倒ごとだ。


 間違いなく、面倒ごとだ。


 それでも司馬昭は、どうしても澪里のことが頭から離れなかった。


 司馬師の背中を追いながら、司馬昭はもう一度だけ呟いた。


「……ほんと、めんどくせぇ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ