第5話 肉まんと罪人
「よぉ。元気にしてるか?」
「……何しに来たの?」
牢の隅に座り込んでいた澪里が、怪訝そうに顔を上げた。
司馬昭は鉄格子の向こうへ、包みを差し出す。
「腹が減ってるんじゃないかと思ってな」
包みの中には、まだ少し温かい肉まんが入っていた。
澪里は一瞬きょとんとした後、ゆっくりと手を伸ばす。
「あ……ありがとう」
そう言って受け取ると、澪里は肉まんにかぶりついた。
疑う素振りはない。
毒が盛られているかもしれない、とは考えないのだろうか。
美味しそうに頬張るその顔は、どう見ても敵地へ潜り込んだ間者のものではなかった。
「……お前、本当に間者なのか?」
司馬昭が訊いてみる。
けれど澪里は答えない。ただ、肉まんをもぐもぐと食べている。
司馬昭はその様子をしばらく眺めてから、隣に立つ司馬師へ視線を向けた。
「兄上。こいつ、間者じゃないですね」
「そのようだな」
司馬師は淡々と答える。
「だが、怪しいことに変わりはない」
冷えた視線が、鉄格子の向こうにいる澪里へ向けられた。
「貴様は一体何者だ」
「何者だ、と言われても……」
澪里は困ったように笑った。
改めて見ると、彼女はそれなりに整った顔立ちをしている。
美しい、というよりは可愛らしい。ただ、とりたてて目を引くような華があるわけではない。少なくとも、三国の英雄たちと関わりがあるようには見えなかった。
どこにでもいそうな女。
それなのに、どうしてこれほど引っかかるのか。
「答えられぬのか」
司馬師の声が少し低くなる。
「言っても、司馬師に理解できるとは思えないよ」
その瞬間、空気が凍った。
司馬昭は思わず顔を引きつらせる。
父譲りの冷静さと聡明さを持ち、周囲から畏怖と畏敬を向けられる兄に向かって、平然とそんなことを言うとは。
破天荒。
いや、命知らずと言った方が近い。
案の定、司馬師の目元に薄い怒りが滲む。
「あ、えーと……」
司馬昭は慌てて口を挟んだ。
このままでは、澪里が肉まんを食べ終える前に兄に斬られかねない。
「お前、父上と知り合いみたいだが、どういう関係なんだ?」
助け船のつもりだった。
少なくとも、話題を変える必要があった。
澪里は肉まんを持ったまま、少し考えるように首を傾げる。
「んー……あなたたちのお父さんは、何て言ってた?」
「知らないってさ」
「……そっかぁ」
澪里は小さく笑った。
けれど、その笑みはどこか寂しげだった。
「彼がそう言うなら、その通りなんじゃないかな」
司馬昭は眉をひそめる。
彼がそう言うなら。
その言い方は、明らかに他人へ向けるものではなかった。
「お前――」
「誰かいるのか」
司馬昭が言いかけた時、牢の外から男の声が響いた。
足音が近づいてくる。現れたのは郭淮だった。
司馬懿の配下として、長く魏の西方を支えてきた武将だ。司馬昭もその名と顔は知っている。だが、こうして近い距離で言葉を交わすのは初めてに近かった。
郭淮は司馬師と司馬昭を見るなり、わずかに目を細めた。
「……司馬師、司馬昭。こんなところで何をしている」
「別に大したことではありませんよ」
司馬昭は軽く返す。
「そうは見えぬな」
郭淮の視線が、鉄格子の向こうへ向けられる。
「司馬一族の御曹司が、揃って罪人に用とは」
「こいつは罪人じゃない」
司馬昭の声が、思ったより低くなった。
自分でも少し驚く。
澪里が顔を上げた。
郭淮は一瞬だけ司馬昭を見た後、静かに言った。
「……司馬懿殿が、お二人を探しておられた」
そう来たか。
父が呼んでいるとなれば、無視するわけにはいかない。
司馬師もそれを分かっているのだろう。澪里へ一度だけ視線を落とし、それから踵を返した。
「行くぞ、昭」
「……分かりましたよ」
司馬昭は鉄格子の向こうを見た。
澪里は肉まんを両手で持ったまま、こちらを見ている。
「また来る」
「来なくていいよ」
「そう言われると来たくなるな」
「性格悪いね」
「お互い様だろ」
軽口を交わしてから、司馬昭は牢を後にした。
外へ出ると、湿った空気が少しだけ薄くなる。
牢の中とは違うはずなのに、胸の奥の重さは消えなかった。
「結局、肝心なことは何も聞けませんでしたね」
歩きながら、司馬昭は司馬師に言った。
「いや」
司馬師は前を向いたまま答える。
「一つ、確かなことが分かった」
「何です?」
「父上とあの女は、知り合いだ」
司馬昭は苦笑した。
「ですよね」
あの反応を見れば、そう考えるしかない。
司馬懿に澪里のことを訊いた時、父は知らないと言った。
澪里に司馬懿のことを訊いた時、彼女もまた、その言葉に合わせた。
まるで、互いに口裏を合わせているかのように。
いや。
口裏というより、相手の選択を尊重しているように見えた。
「しかも、敵対関係ではなさそうだ」
「それには俺も同感です」
司馬昭は腕を組む。
「俺たちに知られたくない関係なんですかね」
「……と言うと?」
「妾、とか」
司馬師が少しだけ眉を動かした。
「その程度のことを、父上がわざわざ隠すとは思えぬが」
「まあ、そうですよね」
司馬懿ほどの身分であれば、側室がいてもおかしくはない。
それに、司馬師も司馬昭も、もう子どもではない。その程度の事情で動揺する年でもなかった。
そもそも、もし本当にそうなら、父はもっと上手く隠す。
あんな綻びは見せない。
「それより、昭」
「はい?」
「澪里と文帝陛下、それから夏侯淵殿の関係をどう思う」
「あー……澪里が文帝陛下や夏侯覇の父上と仲良しって話ですか」
曹丕のことを敬称もなく呼び、夏侯淵に至ってはあだ名で呼んでいたという。
普通なら、あまりにも無礼だ。
だが、澪里の言い方には嘘の響きがなかった。
「澪里は、かつての英雄たちと親しい……?」
司馬昭は呟きながら、ふと足を止めた。
「兄上。だとしたら……」
嫌な可能性に思い当たる。
もし澪里が、魏の有力者と深い関わりを持つ者だったら。
それも、司馬懿や文帝陛下、夏侯淵と親しいような立場なら。
「ヤバくないですか?」
司馬昭は真顔で言った。
「俺らの澪里への言動。間者扱いして牢に入れたし、兄上なんてかなり怖い顔で睨んでましたし」
「お前も捕まえる時、随分と雑だったが」
「それは兄上との連携の結果です」
「責任を分けるな」
「分けましょうよ、兄弟仲良く」
司馬師は薄く笑う。
「もし問われたら、寛大な処置を願おう」
「いや、そんな軽く言います?」
自分たちの首が飛ぶ恐れすらあるというのに、司馬師はまるで動じていない。
むしろ楽しんでいるようにすら見える。
「俺は嫌ですよ。めんどくせぇ」
司馬昭は小さく呟く。
だが、足は止めなかった。
どうせもう、関わってしまった。
父が隠そうとしている女。
過去の英雄たちの名を懐かしそうに呼ぶ女。
そして、肉まんひとつであんなふうに笑う、間者らしくない女。
面倒ごとだ。
間違いなく、面倒ごとだ。
それでも司馬昭は、どうしても澪里のことが頭から離れなかった。
司馬師の背中を追いながら、司馬昭はもう一度だけ呟いた。
「……ほんと、めんどくせぇ」




