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三國残夢  作者: 仄か
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第4話 父の綻び

 先ほどの不審者について報告するため、司馬昭は司馬師、賈充と共に司馬懿の部屋を訪れた。


 だが、司馬懿は不在だった。


 戻ってくるまで待っていようということになり、三人は部屋の中でしばし時間を潰す。


「子元殿、子上」


 ふと、賈充が口を開いた。


「あの娘、本当に間者なのか」

「賈充も疑問に思うか」


 司馬師が静かに言う。


「確かに、間者にしては……間抜けだな」

「そうですね、兄上」


 司馬昭はすぐに頷いた。


 敵方の様子を探るのが間者の役目だ。だというのに、澪里の行動はどうにも鈍い。


「盗んだ馬を律儀に返すし、屋根から落ちるし、兄上の部屋を父上の部屋と勘違いして侵入するし……」


 実を言えば、あの部屋は元々、司馬懿の部屋だった。


 一年前だったか。司馬師が司馬懿から譲り受け、今は司馬師の執務室として使っている。


 澪里は東門の警備が薄いことは知っていたらしい。だが、肝心の標的の居場所は知らなかった。


 そんな間者がいるだろうか。


「ところで兄上。あいつ、兄上の部屋で何してたんですか?」

「図々しくも、寝台で横になっていた」

「寝台で?」


 司馬昭は思わず聞き返した。


「子元殿の寝込みを襲うつもりだったのでしょうか」


 賈充が考え込むように呟く。

 司馬師は否定も肯定もしない。


 沈みかけた空気を軽くしようと、司馬昭はわざと見当違いなことを言った。


「ま、でも良かったです。兄上の貞操が奪われていないようで」

「昭……」

「……なんですか、兄上。その間は。まさか本当に澪里に……」

「子上」


 賈充が呆れた声を出した。

 司馬師は涼しい顔で司馬昭を見る。


「昭。お前は何か気づいたことはないか」

「そうですね……」


 司馬昭は腕を組み、先ほどのやり取りを思い返した。


「馴れ馴れしく父上の名を呼んでいましたね。初対面のはずなのに、俺の名もなぜか知っていた」


 そこで一度、言葉を区切る。


「それに、馴れ馴れしいのは父上に対してだけじゃなかった」

「どういうことだ」

「牢へ連れて行く途中に少し話したんですが……あいつ、“淵ちゃん”っていう仲良しがいたとか言ってました」

「淵ちゃん?」


 賈充が眉を寄せる。


「誰だ、それは」

「夏侯覇の父上ですよ」


 司馬師の目が、わずかに細くなった。


 夏侯覇の父、夏侯淵。


 曹操が挙兵した当初から付き従った、魏の古参の将である。


「それから、どうやら先帝とも親しかったようで。敬称もなく、名で呼んでいました」

「文帝陛下をか」

「ええ。許可済みだ、と」


 賈充が少し黙った。


「あの娘、皇族の関係者か何かか?」

「そうは見えなかったがな」


 司馬師は静かに言う。


「いずれにせよ、父上に報告する必要がある」


 その時だった。部屋の外に人の気配がした。

 三人が振り向くと、扉の前に司馬懿が立っていた。


「どうした。お前たち、揃いも揃って」


 司馬懿は普段と変わらぬ様子で部屋へ入ってくる。

 その表情は穏やかですらあった。


「父上。先ほど、城に不審な者が侵入したため捕らえました」


 司馬師が淡々と報告する。


「どこの者だ」


 不審者と聞いても、司馬懿の態度は変わらない。

 羽扇を手にしたまま、いつもの調子でこちらを見る。


「まだ素性は分かっておりません。後ほど、詳しく調べます」

「そうか」


 司馬懿は短く答えた。


「父上」


 司馬師の報告が一区切りしたところで、司馬昭は口を開いた。


「ひとつ、聞きたいことがあるんですが」

「なんだ」

「澪里という名に、聞き覚えはありませんか?」


 その瞬間、羽扇の動きが止まった。


 本当に、わずかな間だった。

 けれど司馬昭は見逃さなかった。


 司馬懿の目が、一瞬だけこちらではなく、どこか遠くを見た。


 だが、すぐにいつもの目に戻る。


「……いや」


 司馬懿は静かに答えた。


「知らぬ名だ」


 声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。


 司馬昭は眉をひそめる。


 父は、嘘をつく時ほど感情を消す。

 だからこそ、今の声には妙な違和感があった。


「そうですか」


 司馬昭は、あえて軽く返した。


「先ほど捕らえた者が、そう名乗ったんですよ」


 司馬懿の指が、羽扇の柄を強く握った。


 ほんの一瞬。


 骨の軋むような、小さな音がした気がした。


「……その女は」


 司馬懿が口を開く。


「今、どこにいる」


 司馬昭は瞬きをした。

 司馬師も、わずかに目を細める。

 賈充だけが、何も言わずに司馬懿を見ていた。


 ――女?


 司馬昭は胸の内で呟く。

 今、誰か父上に、その者が女だと言ったか。

 言っていない。少なくとも、父上の前では。


「牢です」


 答えたのは司馬師だった。


 声はいつも通りだったが、その目は司馬懿のわずかな綻びを逃していない。


「夏侯覇に連れて行かせました」

「……そうか」


 司馬懿は短く答えた。


 それだけだった。


 だが、その一言の後で、彼の羽扇の動きがまた止まった。


 己の失言に、今さら気づいたのだろう。


 司馬懿は何事もなかったように机へ向かった。


 背を向けられる。その背中は、いつもと同じように見えた。

 だが、司馬昭には分かった。


 父は今、こちらに顔を見せたくないのだ。


「父上?」


 司馬昭が声をかける。


「何でもない」


 司馬懿は振り返らなかった。


「お前たちは下がれ。まだ片付けねばならぬ執務がある」

「ですが、間者の件は――」

「後で聞く」


 遮るような声だった。


 怒鳴ってはいない。むしろ静かだった。

 けれど、これ以上問うなという圧だけは確かにあった。


 司馬師と賈充が目を合わせる。

 司馬昭もまた、何か言いかけて飲み込んだ。


「分かりました」


 司馬師が先に頭を下げる。

 それに続いて、賈充も部屋を出た。


 司馬昭は最後まで、司馬懿の背中を見ていた。

 父は机の上の書簡に手を伸ばしている。だが、その指先は書簡を掴まず、ただ紙の端に触れているだけだった。


 読んでいない。


 何も見ていない。


 そう思った。


 やがて、司馬昭も扉へ向かう。

 部屋を出ようとした、その時。


「……なぜ」


 背後から、小さな声が聞こえた。


 司馬昭は足を止める。


「なぜ、戻ってきた」


 それは独り言だった。

 あまりにも小さく、あまりにも低い声だった。だが、確かに聞こえた。


 戻ってきた。


 知らぬ名だと言ったはずの女に対して、父はそう言った。


 司馬昭は振り返らなかった。

 振り返れば、聞いたことに気づかれる。

 だからそのまま、静かに部屋を出た。


 扉が閉まる。


 廊下に出た瞬間、司馬昭は深く息を吐いた。


 一体、何がどうなっているのか。


 澪里と司馬懿は知り合いなのか。

 なぜ父は、それを隠すのか。


 なぜ、あんな顔をしたのか。


「……兄上」


 考えながら廊下を歩いていると、壁にもたれ掛かる司馬師を見つけた。


「どうしたんですか」

「父上の様子がおかしい」

「ああー……あれは何か隠していますよ」


 司馬昭は肩をすくめる。


「ま、あの態度じゃバレバレですがね」

「普段なら、あの程度の綻びも見せぬ」


 司馬師は低く言った。


「それほどの相手ということだ」


 分厚い仮面を被り、決して内心を悟らせない司馬懿が、あそこまで乱れるのは珍しい。


 乱れたと言っても、普通の者なら気づかない程度だ。


 だが、息子たちは知っている。


 あれは平静ではない。


「ですが、あの父上が話してくれるとは思えませんね」

「ならば、もう一人の方に聞くしかあるまい」

「澪里、ですか」


 司馬師は廊下の先へ視線を向ける。


「今から向かうぞ」

「え。でも勝手に尋問して大丈夫なんですか?」


 歩き出した司馬師に、司馬昭は慌ててついていく。

 司馬師は振り返り、不敵に笑った。


「ふ……たまには兄弟仲良くいこうではないか」

「兄弟仲良く、って柄じゃないですね」


 司馬昭は苦笑する。


「ま、言い訳は兄上に任せます」

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