第3話 過去を知る女
牢へ向かう道中、澪里は妙に大人しかった。
先ほどまで屋根の上で逃げ回っていた女とは思えないほど、黙って歩いている。
夏侯覇に腕を掴まれ、逃げ場はない。けれど、暴れる様子もなかった。
司馬昭は、その後ろを歩きながら、澪里の横顔を見ていた。
青ざめている。
捕まった恐怖、というだけではない。
何かを確かめることを恐れている顔だった。
「……ねえ」
不意に、澪里が口を開いた。
「魏は今、どうなってるの?」
「どう、とは?」
夏侯覇が警戒を含んだ声で返す。
澪里は迷うように唇を動かし、それから小さく訊いた。
「皇帝は……誰?」
その言葉に、夏侯覇の眉がぴくりと動いた。
「お前、今上陛下の御名も知らぬのか」
「……」
「今上陛下は、曹叡様だ」
その瞬間。
澪里の足が止まった。
夏侯覇に腕を引かれ、かろうじて倒れずに済む。けれど、その顔から血の気が引いていくのを、司馬昭は見逃さなかった。
「曹、叡……」
まるで、その名を知っているような。
けれど、知っていたくなかったような声だった。
司馬昭は眉をひそめる。
「なんだ。陛下の名に聞き覚えでもあるのか?」
澪里は答えない。ただ、しばらく俯いたまま黙っていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……曹丕は……死んだんだね」
空気が変わった。
夏侯覇の手に力が入る。
「貴様」
低い声だった。
「文帝陛下を呼び捨てにするとは、随分と無礼な奴だな」
澪里は、はっとしたように顔を上げた。
けれど、謝るより先に、悲しそうに目を伏せる。
「だって……会った時から、そうだったんだもん」
「何?」
「曹丕も、そう呼んでいいって言った。だから、私はずっと曹丕って呼んでた」
夏侯覇が息を呑んだ。
司馬昭も、思わず足を止める。
「……おい」
司馬昭は低く声をかけた。
「お前、今なんて言った?」
澪里は、しまったという顔をした。
だが、もう遅い。
「文帝陛下に会ったことがあるみたいな言い方だったな」
「……」
「しかも、呼び捨てを許された?」
司馬昭は目を細める。
「お前、本当に何者だよ」
澪里は答えなかった。ただ、ぎゅっと唇を噛む。
その沈黙は、嘘を探している沈黙ではなかった。
言ってはいけないことを、必死に飲み込む沈黙だった。
夏侯覇はなおも険しい顔で澪里を睨んでいたが、不意に、澪里の視線がその顔に止まった。
じっと見つめる。
先ほど司馬師を見た時と同じように。
いや、それよりもずっと近い何かに触れたような顔だった。
「……似てる」
まただ。
司馬昭は、胸の奥に引っかかりを覚えた。
この女は、さっきも司馬師を見て同じような顔をした。
誰かを重ねている。
今度は、夏侯覇に。
「おい。何を見ている」
夏侯覇が不快そうに言う。
澪里は、その声で我に返ったように瞬きをした。
「ごめん。あなた、夏侯って言ったよね」
「それがどうした」
「もしかして……夏侯淵の……」
夏侯覇の表情が、わずかに変わった。
「俺の父だ」
澪里は息を呑んだ。
その目が、夏侯覇の顔をもう一度たどる。
目元。
鼻筋。
強い輪郭。
感情がすぐ顔に出るところまで。
それはきっと、澪里の知る誰かに似ていたのだろう。
「……そっか」
彼女は、泣きそうに笑った。
「淵ちゃんの、息子なんだ」
夏侯覇の目が見開かれる。
「誰だ、それは」
司馬昭も思わず聞き返した。
「淵ちゃん?」
澪里は、少しだけ懐かしそうに言った。
「夏侯淵のことだよ」
「父上を……そんなふうに呼ぶな」
夏侯覇の声には怒りが混じっていた。だが、その怒りの奥に、明らかな動揺があった。
「お前、俺の父上を知っているのか」
「……知ってる」
澪里は静かに頷いた。
「魏で一番、仲良かった人だから」
司馬昭は黙って澪里を見た。
魏で一番仲が良かった。
まるで、かつて魏にいたことがあるような言い方だった。
しかも、夏侯淵と親しくしていたなど、ただの間者が口にできる話ではない。
「夏侯淵は……」
澪里は、恐る恐る訊ねた。
聞きたくない。
けれど、聞かなければならない。
そんな声だった。
「生きてる?」
その場の空気が、冷えた。
夏侯覇の足が止まる。
司馬昭も、何も言えなかった。
沈黙が答えだった。
澪里の顔から、さらに色が消えていく。
「……夏侯淵殿は」
司馬昭が言いかける。
だが、それを遮るように、夏侯覇が口を開いた。
「死んだ」
短い言葉だった。けれど、重かった。
「……蜀に、殺された」
澪里は動かなかった。
瞬きもしない。
ただ、その言葉だけを受け止めていた。
「蜀に……」
かすれた声で、澪里は繰り返す。
司馬昭は、その横顔を見る。
先ほどまで逃げ回っていた女の顔ではなかった。
馬を奪って、人を振り回して、可愛くないことばかり言っていた女の顔でもない。
何か大切なものを、今この場で失った顔だった。
「……そう」
澪里は小さく呟いた。
「淵ちゃんも、死んじゃったんだ」
その呼び方に、夏侯覇は何かを言いかけた。
だが、言えなかった。
澪の声があまりにも静かだったからだ。
怒るには、あまりにも悲しすぎた。
しばらく誰も喋らなかった。
石畳を踏む足音だけが、冷たい廊下に響く。
やがて、牢の前に着いた。
夏侯覇が扉を開ける。
「入れ」
澪里は抵抗しなかった。促されるまま、牢の中へ入る。
鉄格子の向こうで、彼女は一度だけ振り返った。
その視線は、夏侯覇を見ていた。
「……似てるね」
夏侯覇が眉を寄せる。
「父上にか」
澪里は、ほんの少しだけ笑った。
「うん。すごく」
それから、視線を落とす。
「でも、全然違う」
「どういう意味だ」
「……知らなくていい」
夏侯覇が何か言おうとした時、司馬昭が先に口を開いた。
「お前、父上のことも、文帝陛下のことも、夏侯淵殿のことも知ってるんだな」
澪里は答えない。
司馬昭は、鉄格子越しに彼女を見た。
「何者だ、お前」
澪里はしばらく黙っていた。
やがて、力なく笑う。
「……忘れてって言ったのに」
「忘れられるかよ」
司馬昭は即座に返した。
「空から落ちてきて、俺の馬を奪って、父上の部屋を探して、文帝陛下と夏侯淵殿を知ってる女なんて、忘れられる方がおかしいだろ」
「そっか」
澪里は目を伏せた。
「じゃあ、困ったね」
夏侯覇が牢の扉に錠を下ろす。重い音が、廊下に響いた。
その音を聞いた瞬間、司馬昭はなぜか胸の奥がざわついた。
捕まえた。
これで、ひとまず逃げられない。
そう思うべきなのに。
鉄格子の向こうで膝を抱える澪里の姿を見ていると、どうしても勝った気がしなかった。
むしろ、何かもっと厄介なものを、こちら側に閉じ込めてしまったような気がした。
「……ほんとめんどくせぇな」
小さく呟く。
けれどその声は、牢の中の澪里には届かなかった。




