第2話 逃げる運命
洛陽城が見えてきたのは、空がすっかり白んでからだった。
馬があれば、夜明け前には戻れたはずだった。
誰にも知られず屋敷へ戻り、少しだけ休んでから、何食わぬ顔で宮中へ出仕する。そんな算段も、昨夜までは確かにあった。
だが、現実はどうだ。
馬はない。
体力もない。
そして、寝る時間もない。
「はぁ……ついてねぇ……」
洛陽の外れにある草原から歩いて帰ってきた司馬昭の足は、もはや棒のようだった。
草露に濡れた裾は重く、靴には土がこびりついている。身体もまぶたも、鉛のように重い。
できることなら、このまま道端に転がって眠りたかった。
「ゆっくり寝たいところだ……」
「子上殿」
「うわ、いきなりかよ……」
城門をくぐってすぐ、聞き慣れた声に呼び止められた。
王元姫だった。
司馬昭の部下であり、行動を随時監視している男――少なくとも、司馬昭はそう思っている。
本当に今日はついていない。
夜中に屋敷を抜け出したことも、当然のように知られているのだろう。案の定、王元姫は眉ひとつ動かさず口を開いた。
「どこにいらしたのですか。もうとっくに朝餉の時間です。早く食べ終えて、溜まっている執務を片付けてください。それから合間に武芸の鍛錬も――」
「分かった、分かったから。とりあえず休ませてくれ」
「散々お休みでしたよね。夜遊びから戻り、どこかでのんびりしていたのでしょう」
王元姫は小さく息を吐き、司馬昭の姿を上から下まで見た。
「……もっとも、のんびりしていたにしては、ずいぶんひどい有り様ですが」
「分かるか。この疲れ切った顔が」
「普段から似たようなお顔ですが」
「お前、ほんと遠慮ねぇな」
司馬昭が呻くと、王元姫は淡々と続けた。
「それに、部屋にはいなかったようですし」
「いなくて当然だろ。今、帰ってきたばかりなんだから」
「今?」
王元姫の目が、わずかに細くなる。
「何のご冗談を。子上殿の馬なら、東門近くの茂みにいましたよ」
「……え」
眠気が、一瞬で吹き飛んだ。
「それ、本当か?馬はいつ見つけた?」
「つい先ほどです。繋がれていたので、先に馬舎へ戻しておきました」
司馬昭は、はっとした。
自分の馬は、昨夜あの女――澪里が乗っていった。
その馬が東門近くにいたということは、澪里は洛陽の近くまで来ている。いや、すでに城内へ入り込んでいる可能性もある。
わざわざ親切に馬を返しに来たとは、到底思えない。
「――元姫。まずいぞ」
怪訝そうに見つめる王元姫へ、司馬昭は昨夜の出来事を手短に話した。
夜の虹。
空から落ちてきた女。
自分の名を知っていたこと。
魏の者ではないらしいこと。
そして、馬を奪って逃げたこと。
王元姫は最後まで黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「つまり、その空から落ちてきた女が、子上殿の馬を勝手に乗っていったのですか」
「ああ。おかげで俺はここまで徒歩で帰還だ。見ろ、この哀れな姿を」
「自業自得では」
「俺、被害者だよな?」
「夜中に屋敷を抜け出した時点で、擁護は難しいかと」
「お前、ほんと刺すよな……」
二人は東門へ向かった。
馬はすでに王元姫が馬舎へ戻したらしいが、見つかった場所を確認しておく必要がある。澪里に関する手がかりが残っているかもしれない。
それに、どうにも引っかかる。
「なんであいつ、東門の近くで馬を降りたんだ?」
洛陽城の東門は、他の門に比べて人通りが少ない。
まったく警備がないわけではないが、衛兵の数も少なく、外も内も比較的静かだ。出入りしようと思えば、他の門よりは容易い。
それを知っていて東門を選んだのだとすれば。
あの女は、洛陽城の構造に詳しい。
もしくは、事前に入念な調査をしていた。
どちらにしろ、厄介だった。
「子上殿、これは」
東門そばの茂みに着くと、王元姫が地面を指差した。
馬が繋がれていたらしい痕跡がある。
その近くに、鞍から抜き取ったらしい紙片が落ちていた。
司馬昭はそれを拾い上げる。
紙には、見慣れない筆跡でこう書かれていた。
『司馬昭のおかげで無事に洛陽へ着けました。ありがとう』
「……なにが、ありがとうだ」
司馬昭は紙片を握りしめた。
「澪里の奴、調子に乗ってやがる」
「ですが、これではっきりしましたね」
「ああ」
司馬昭は東門の奥を睨んだ。
「あいつは洛陽城に入った。捕まえるぞ」
二人は城内へ戻った。
澪里が何者なのか。目的は何なのか。それはまだ分からない。
だが、司馬懿の名を知り、司馬昭の名を知り、魏の者でもない女が、洛陽城に入り込んだ。
何か起こる前に捕まえる必要がある。
「あ、お前ら!」
足を速める司馬昭たちの前方に、賈充、夏侯覇、そして鐘会の姿が見えた。
妙な組み合わせだ。
だが今は、そんなことを気にしている場合ではない。
「大変だ。城内にたぶん間者が侵入した」
「いやいや、たぶん間者ってなんだよ」
夏侯覇が即座に眉を寄せた。
「しかも“侵入した”のか“たぶん”なのか、どっちだ」
「細かいことはいいだろ」
「よくないから聞いている」
「間者とは本当ですか、司馬昭殿」
鐘会の顔つきが変わる。
「すぐ衛兵を呼んで参ります」
そう言うなり、鐘会は足早に去っていった。
その背を一瞬見送り、賈充が司馬昭へ視線を戻す。
「子上。とりあえず、その間者の特徴は?」
「ああ、そうだな……女だ。間者にしては妙に間抜けそうな奴で――」
「間抜けそうと言うと、あれか」
賈充がふと顔を上げた。
司馬昭もつられて同じ方を見る。
「……あ」
屋根の上に、人影があった。
ひとりは司馬師。
すぐそばの窓が開いている。あれは、司馬師の執務室の窓だ。おそらく、そこから屋根へ出たのだろう。
「兄上!?」
そんなところで一体何を――と訊くまでもなかった。
司馬師の視線の先。
屋根の傾斜で、必死にバランスを取ろうとしている女がいた。
昨夜、空から落ちてきた女。
――澪里だ。
「見つけたぜ。……おい!」
司馬昭が叫ぶと、澪里はびくりと肩を跳ねさせ、こちらを振り返った。
その顔には、焦りと困惑が浮かんでいる。
そして、そのすぐ近くで司馬師が静かに一歩を踏み出した。
「兄上!」
司馬昭は叫ぶ。
「兄弟で共闘も悪くない、と思いませんか?」
司馬師は、屋根の上からこちらを見下ろした。
その口元が、わずかに動く。
「ならば、昭。たまには役に立ってみせろ」
「言うと思った」
司馬師が動いた。
無駄のない歩みで、じりじりと澪里を追い詰める。
澪里は慌てて後退るが、そこは屋根の上だ。足場は悪く、傾斜もある。逃げ場など、最初からほとんどなかった。
狙い通り、彼女の体勢が崩れる。
「わ、わわーッ!」
次の瞬間、澪里は屋根から落ちた。
司馬昭はすかさず落下地点へ滑り込む。
今度は避けない。
今度は、受け止める。
「ぐっ……!」
衝撃で膝が沈んだ。
だが、腕の中に落ちてきた澪里を、司馬昭はしっかり抱え込んだ。
「連携成功っと」
腹に響く痛みをこらえながら、司馬昭はにやりと笑う。
「よし。今度は放さないからな」
腕の中で澪里が暴れる。
「離して!」
「離すわけないだろ。お前、また逃げる気満々じゃねぇか」
「逃げるに決まってるでしょ!」
「堂々と言うな」
押さえつけるように抱え直すと、澪里はようやく大人しくなった。
司馬昭は彼女を見下ろす。
「お前、兄上の部屋で何してたんだ?」
「司馬師の部屋?」
「あの窓が開いてるところだ」
司馬昭が指差すと、澪里は目を見開いた。
「え……あそこ、司馬懿の部屋じゃないの?」
その瞬間、空気が変わった。
司馬師が屋根から飛び降りる。
着地の音は、驚くほど静かだった。
「そこは、今は私の部屋だ」
司馬師は冷ややかに言った。
「なぜ、父上の部屋だと思った」
澪里は答えなかった。いや、答えられなかったのかもしれない。
その顔から、さっと血の気が引いていた。
彼女の視線は、司馬師の顔に釘づけになっている。
司馬懿に似た、整った面差し。
冷えた目元。
静かな威圧感。
司馬昭にとっては見慣れた兄の顔だった。
だが、澪里にとっては違うらしい。
まるで、そこにいるはずのない誰かを見たように。
「……似てる」
澪里が、ほとんど声にならない声で呟いた。
「なに?」
司馬昭が聞き返す。
だが澪里は、はっとしたように口を閉ざした。
司馬師の目が、さらに細くなる。
「何を知っている」
「……」
「目的は父上か」
司馬師の声が、低く沈んだ。
「貴様、何が狙いだ」
澪里は唇を引き結ぶ。
答えない。
その沈黙が、かえって不穏だった。
「まあいい」
司馬師は冷ややかに言った。
「後で口を割らせる」
「司馬師」
夏侯覇が一歩前に出た。
「俺が牢へ連れて行く」
司馬師はしばらく澪里を見据えていたが、やがて短く答えた。
「……連れて行け」
夏侯覇は頷き、司馬昭へ向き直る。
「司馬昭。間者をこちらへ渡せ」
「あ、ああ……」
司馬昭が腕を緩めると、夏侯覇はすかさず澪里の腕を掴んだ。
逃げられないよう、強すぎず、だが確実に。さすが武人だ。
澪里は一瞬だけ抵抗しようとしたが、夏侯覇の手からは抜けられないと悟ったのか、すぐに大人しくなった。
司馬昭は、その様子を見ていた。
捕まえた。
これで終わり。
そう思えばよかった。
だが、どうにも引っかかる。
あの女は、なぜ司馬懿の部屋を探していたのか。
なぜ自分の名を知っていたのか。
そしてなぜ、司馬師を見てあんな顔をしたのか。
「……やっぱ、俺も行くわ」
司馬昭はそう言って、夏侯覇の後を追った。
面倒ごとだ。
間違いなく、面倒ごとだ。
関わらない方がいい。
そんなことは、分かっている。
それでも足は止まらなかった。




