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第一章 洛陽の夜明け:第1話 運命との邂逅

 真夜中だった。


 屋敷を抜け出したのは、ただ一人になりたかったからだ。執務も鍛錬も、部下の小言も、今夜ばかりは遠ざけたかった。


 草原に寝転がり、ぼんやりと夜空を眺めていた司馬昭は、視界の端に映った淡い光に目を見開いた。


 夜空に、弧を描く帯がかかっている。


 月明かりよりも淡く、けれど確かに七色を宿した光。


 虹だった。


 夜の空に、虹が出ている。


「……そういえば、父上が言ってたな」


 司馬昭は寝転がったまま、ぽつりと呟いた。


 夜空に虹が現れる時、奇跡が起こるのだと。


 昔、父から聞いたことがある。


 過去に一度だけ、三国が一つになった時があったのだ、と。


 生まれも、志も、背負う国も違う者たちが、あの時だけは想いを一つにした。まるで奇跡のような出来事だったと。


 戦をせず、言葉で三国を一つにしてみせたのは、たった一人の少女。


「“夜の虹”が見える時の奇跡だ」


 そう言った父の顔は、妙に悲しげだった。


 切なくて、苦しげで。


 まるで、その奇跡を懐かしむよりも、二度と戻らぬものを悼んでいるようだった。


「本当にそんな奴がいるんですかね」


 あの時、司馬昭はそう言った。

 隣にいた司馬師が、静かに目を細める。


「もし存在するなら、是非お目にかかりたいものだな」

「そうですね、兄上」


 軽く返したものの、胸の奥にはずっと引っかかっていた。


 戦は終わるのか。

 平和な時代は、本当に訪れるのか。

 秩序が乱れ、戦乱が続くこの世界の運命は、変えられるのか。


 もしその少女に会えたなら、聞いてみたい。


 お前は、どうやって三国を一つにしたんだ、と。


 司馬昭は夜空にかかる虹を見上げた。


「……で、どんな奇跡が起こるって?」


 半ば呆れたように呟いた、その時だった。


 空から、何かが落ちてきた。


「……は?」


 司馬昭は目を見張る。


 それは、真っ直ぐこちらに向かって落下してきていた。


 鳥ではない。


 荷でもない。


 人だ。


 しかも、女。


 一体なぜ空から人が落ちてくるのか。


 避けるべきだと頭では分かっていた。けれどあまりに現実味がなさすぎて、司馬昭は一瞬、その女を観察することに費やしてしまった。


 はっとした時には、もう遅い。


「え、人……きゃっ!」

「ぐはっ!」


 女は司馬昭の上に落ちてきた。

 衝撃と同時に、肘が見事に鳩尾へめり込む。


「な……なんで人がいるの……」

「そりゃ、こっちの……台詞……なんで空から人が落ちてくんだよ……」


 しばらく息ができなかった。


 ようやく女から離れ、司馬昭は腹を押さえながら立ち上がる。女もまた、少しふらつきながら立ち上がった。


 その顔を見て、司馬昭はわずかに眉を寄せる。


 驚いている。戸惑っている。けれど、それだけではない。

 どこか、悲しげだった。


「あなた誰?」

「いや、お前が誰だよ」


 首を傾げる女に、司馬昭は苦笑い気味に返した。


「私は……澪里だよ」

「俺は司馬子上ってんだ。ま、忘れてくれてかまわないぜ」

「そう。じゃあ忘れることにするね」

「忘れることにするね、って……あのな。普通そこは『覚えておく』とか『忘れない』とか、もう少し可愛いこと言わないか?」

「そんなこと私に期待しないで」

「まじで可愛くねぇ……」


 軽口を叩くが、澪里は笑わなかった。

 ただ、じっと司馬昭を見ている。


「まあ、あなたのことを覚えておくかは別にして……私のことは忘れてね」

「は?」

「バイバイ、司馬昭」

「……おう。じゃあな」


 澪里は手を振り、そのまま歩き出した。

 司馬昭もつられて右手を上げる。


「……って、ちょっと待て」


 一瞬流されかけた。だが、すぐに我に返る。

 その声に、澪里が足を止めた。


「なに?」

「お前、なんで俺の名前を知ってるんだ?」


 司馬昭は目を細める。


「俺は字を名乗った。なのに、お前は今、俺を司馬昭と呼んだ」


 澪里の表情が、ほんのわずかに強張った。


「それは……司馬一族だから」


 少し間を置いて、彼女は答える。


「そりゃ、司馬って名乗ったんだから、俺が司馬家の人間だってことは分かるだろ。そうじゃない。俺の名を知っている理由を聞いてるんだ」

「希代の知将、司馬懿と言えば有名人。その息子なんだもん。あなたのことも知ってるよ」

「なるほど。あの人を父に持つと大変だな。俺まで有名人だ」


 司馬昭は、ひとまず納得したように頷いた。

 けれど内心では、まったく納得していなかった。


 司馬懿の息子として知られることはある。兄の司馬師ならなおさらだ。


 だが、自分はどうだ。


 司馬昭という名を、当然のように口にするほど、この女は何を知っているのか。


「ところでお前、どこから来た?」


 平静を装って訊ねる。


 澪里は少し考えるように視線を泳がせてから、答えた。


「魏から来たよ」

「魏……か。つまりお前は、魏の民ってことだな?」

「うん」


 頷いた澪里に、司馬昭はゆっくり近づく。

 そして次の瞬間、その腕を掴んだ。


「嘘はよくないな」

「え……」

「ここは魏だ」


 司馬昭の声が、わずかに低くなる。


「普通、魏の民が魏の地で『魏から来た』とは言わない。司州から来た、雍州から来た、どこそこの県から来た。そう言うだろ」


 澪里の肩が小さく震えた。


「お前、魏の者じゃないな」

「……」

「どこから来た?呉か?蜀か?」

「……どこでもない」

「どこでもないってことはないだろ」

「……あ」


 突然、何かを思い出したように澪里が空を指差した。


「う、上から来たの」

「上?」


 司馬昭は思わず空を見上げる。


 そういえば、澪里は本当に上から落ちてきた。


 改めて見れば、自分が寝転がっていた場所の頭上には高台がある。


「まさかお前、あそこから飛び降りてきたのか?……あ」


 気を取られた。完全に。気づいた時には、澪里は司馬昭の手をすり抜け、すぐそばに繋いでいた馬に跨がっていた。


「私、行くから。ちょっと馬借りるね」

「俺の馬!借りるってことは返すんだよな?」

「もう会うこともないから」


 澪里は振り返る。


 夜の虹を背にしたその顔は、やはりどこか悲しげだった。


「さよなら、司馬昭」

「おい、こら、戻ってこい!」


 叫んでも、当然止まるはずがない。


 馬は夜の草原を駆け、澪里の姿はあっという間に遠ざかっていく。


 司馬昭は腹を押さえたまま、深く息を吐いた。


「……歩いて帰れってか」


 最悪だ。


 意味が分からない。


 空から女が落ちてくるわ、名前は知られているわ、魏の者でもなさそうだわ、挙げ句の果てに馬まで盗まれた。


 どう考えても、関わらない方がいい。

 面倒ごとの匂いしかしない。


 けれど司馬昭は、夜空を見上げた。

 そこにはまだ、淡い虹がかかっている。


 父が言っていた。


 夜の虹が見える時、奇跡が起こるのだと。


「……奇跡ねぇ」


 司馬昭は、澪里が消えていった方角を見る。


 あれが奇跡なら、ずいぶん乱暴な奇跡だ。

 腹は痛いし、馬はないし、歩いて帰る羽目になった。


 それでも。


 どういうわけか、あの女の悲しげな顔が頭から離れなかった。


「……めんどくせ」


 そう呟きながら、司馬昭は草原を歩き出した。


 その夜、空にはまだ、夜の虹がかかっていた。

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