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序章 五丈原の星

 五丈原の地。魏の陣営にて、司馬昭は地面に寝転がり、ぼんやりと夜空を眺めていた。


 戦の夜は、妙に静かだ。


 人の声も、馬の息遣いも、遠くで焚かれる火の爆ぜる音も、すべてが薄い幕の向こうにあるように聞こえる。


 その時、夜空を一筋の光が裂いた。


 流れ星だった。


 白い尾を曳きながら、星は静かに落ちていく。


「……逝ったか、諸葛亮」


 低く呟いたのは、司馬懿だった。


 蜀漢の丞相、諸葛亮孔明。


 曹魏にとって最大の敵であり、司馬懿にとっては宿敵と呼ぶべき男だった。その身がすでに病に蝕まれていることは、司馬昭たちも知っている。


「父上。どうかしましたか?」


 どこか沈んだ響きを含んだ声に、司馬師が静かに問いかける。


「父上の手を煩わせた諸葛亮は既になく、これで我らの一層の隆盛が約束された。そういうことでしょう」


「兄上の言うとおりですよ。諸葛亮がいなくなって、面倒がひとつ減ったじゃないですか」


 司馬昭も、寝転がったまま軽く言った。


 けれど司馬懿の表情は晴れない。


「……諸葛亮は、高い知性を持つ男だった。だが奴でさえ、己が天命の前には無力だった」


 その声には、勝者の響きがなかった。


 ただ、ひとりの傑物が天に呑まれていくのを見送るような、静かな悼みだけがあった。


 司馬懿は夜空を見上げたまま、ほとんど息のように呟く。


「澪里……それは、お前も同じだったな」


 その名を、司馬師と司馬昭は聞き逃さなかった。


「誰ですか?」

「……いや。何でもない」


 司馬懿はすぐに口を閉ざした。


 だが、司馬師はわずかに目を細める。


「昭。それ以上聞くのはよせ。父上の新しい妾といったところだろう」

「あ、なるほど。それじゃ母上に報告しておきます」

「ッ、昭!私がどうなってもいいのか!」


 冗談にならない冗談に、司馬懿が思わず声を荒げた。


 司馬昭は肩を揺らして笑う。


 その笑い声は、戦場の夜には少しだけ場違いで、だからこそ三人の間にあった重い空気を一度だけほどいた。


 けれど。


 笑い終えた司馬昭は、ふと空を見上げたまま黙った。


「……しっかし、いつまでこんなこと繰り返すんですかね」


 その声は、先ほどまでとは違っていた。


 軽い口調の奥に、どうしようもない疲れが滲んでいる。


「呉や蜀が攻めてくれば戦って、国内で反乱が起これば鎮めて。その度に人が死んで、土地が荒れて、また誰かが火をつける。……いつ終わるんですかね、これ」


 司馬師が静かに息を吐いた。


「それは私も同感だ」

「兄上も?」

「いくら正しても、敵は尽きない。外にも内にも火種はある。誰が、どこで、次の乱を起こすか分からぬ」


 司馬師の声は冷静だった。


 冷静すぎるほどに。


「こんな状況で、本当に平和な世なんて来るんですかね」


 司馬昭は夜空に手を伸ばす。


 何かを掴もうとしたわけではない。ただ、そこにあるはずのない答えを探すように、指先を星へ向けただけだった。


 自分たちが生きているうちには、無理なのではないか。


 その言葉は口にはされなかった。


 けれど、司馬懿には分かった。


 司馬師にも、司馬昭にも才はある。


 天下の鬼才と呼ばれた自分の息子たちだ。長子の司馬師は冷静で、判断を誤らない。次子の司馬昭は普段こそのらりくらりとしているが、いざとなれば鋭い。


 その二人が、揃って同じ場所を見ている。


 そしてその目に、光がない。


「師、昭」


 司馬懿は、息子たちの名を呼んだ。


 二人がこちらを見る。


 若い。


 まだ若いのに、その瞳の奥には、すでに長い戦の影が沈んでいた。


 希望ではなく、諦めでもなく。


 ただ、終わりの見えない道を見つめ続けた者の、昏い穴のようなものがあった。


 司馬懿は一度、言葉を呑み込んだ。


 何を弱気な、と叱ることは簡単だった。


 だが、その言葉で拭えるほど浅い疲れではないことも、分かってしまった。


「……必ず、平和な世は訪れる」


 司馬懿は静かに言った。


「今は信じて、目の前の敵を討て」


 司馬昭は何も答えない。


 司馬師もまた、黙って父を見ていた。


 それでも司馬懿は続ける。


「お前たちは知らぬだろうが」


 夜風が吹いた。


 消えた流れ星の軌跡など、もうどこにも残っていない。


 それでも司馬懿の目には、遠い昔に見た、あり得ない光景が浮かんでいた。


 魏も、呉も、蜀も。


 互いに刃を向け合うしかなかったはずの者たちが、たった一人のために手を取り合った夜。


 夜空に、虹がかかっていた。


「――過去に一度だけ、三国が一つになった時があったのだ」


 司馬昭の眉が、わずかに動いた。


「三国が……?」


 あり得ない、と言いかけた声は、最後まで形にならなかった。


 司馬懿は目を伏せる。


 それは、夜の虹が見える時に起こった奇跡の話。


 そして、天命に逆らおうとした者たちの、誰にも語られなかった物語だった。

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