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三國残夢  作者: 仄か
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第23話 刃先の運命

 川辺に着くと、司馬昭は馬を止めた。


 夕日はまだ完全には沈んでいない。水面には赤みを帯びた光が揺れ、木々の影が長く伸びている。


 司馬昭は先に馬を下り、澪里へ手を伸ばした。


「降りられるか?」

「うん。たぶん」

「たぶんじゃ信用できねぇ」


 そう言って、結局また手を貸す。澪里は少し不満そうにしながらも、その手を取った。


 その時だった。


 風に混じって、かすかな音が聞こえた。水音ではない。枝が折れるような、衣擦れのような、小さな音。


 司馬昭は目を細める。


「……誰かいる」

「え?」


 澪里の顔が強張った。


「ここにいろ」

「私も行く」

「危ないから」

「でも――」


 言い合うより早く、木々の向こうで何かがきらりと光った。


 夕日を受けた、小さな刃。


 川辺に女が膝をつき、震える手で小刀を握っている。その刃先が、自らの喉元へ向けられた。


「――っ! 待て!」


 考えるより先に声が出た。


 司馬昭の大声に、女が驚いたようにこちらを見る。そのわずかな隙に司馬昭は駆け出し、川辺に張り出した木の根を越えて女の手首を掴んだ。刃が肌に触れる寸前で、その手を強く引き離す。


 小刀が地面に落ちた。乾いた音が、やけに大きく響く。


「何してんだ、お前……!」


 女は答えなかった。ただ血の気の引いた顔で、小さく震えている。


「大丈夫……?」


 後から走ってきた澪里が、息を切らしながら女に声をかけた。放っておくわけにもいかず、司馬昭はひとまず女をその場に座らせる。


 近くで顔を見て、わずかに眉を寄せた。


 見覚えがある。


 洛陽で澪里の身の回りの物を買いに出た日、輿に乗っていた女だ。あの時、澪里はその輿に轢かれかけた。


「……お前、あの時の」


 司馬昭が呟くと、女もまた、はっとしたようにこちらを見る。


「あなた方は……先日の」


 澪里も気づいたらしく、驚いた顔で女を見つめた。


「あの時の、輿の……?」


 女は気まずそうに目を伏せる。


「その節は、ご無礼をいたしました」

「いや、今それどころじゃねぇだろ」


 思わずそう返した。謝る順番がおかしい。今は輿のことより、小刀の方が問題だ。


 女はかすかに唇を噛む。血の気の引いた顔は、まだ小さく震えていた。


 司馬昭はその隣に腰を下ろし、澪里もさらにその横へ座った。


 座ってから、少し後悔する。


 女の隣には澪里を座らせ、自分は端に座るべきだった。こういう女を相手にするのは、正直あまり得意ではない。何を言えばいいか分からないし、間違えれば泣かれるか怒られる。どちらも面倒だ。


「あなた、名前は?」


 澪里が静かに訊ねる。


 女は俯いたまま、しばらく黙っていた。司馬昭は仕方なく口を開く。


「俺は司馬子上ってんだ。で、こっちが――」

「澪里だよ」


 澪里が自分で名乗る。


 司馬昭は女を見る。


「お前もさ、名前くらい言えるだろ」

「私は、か……」


 女は言いかけ、すぐに口を閉ざした。


 司馬昭はそのわずかな言い淀みを聞き逃さなかった。


 何かの名を言いかけたのか。家名か、名か。それとも、名乗れない理由があるのか。


 女はわずかに目を伏せる。


「……媛容、と申します」


 おそらく偽名だ。


 洛陽で輿に乗っていた女。崩れていない言葉遣い。身にまとっている絹の衣。そして、今の言い直し。どう見ても、ただの民の娘ではない。おそらく名家の娘だろう。


「何があったか知らないが、自ら命を断つのはやめとけ」


 司馬昭が言うと、媛容は初めて顔を上げた。その目には、かすかな怒りが浮かんでいる。


「……何も知らないくせに、よくそのようなことが言えますわね」

「そうだな。俺たちは何も知らない」


 司馬昭はあっさり頷いた。


「だから、話してみろよ」


 正直、面倒だった。だが、せっかく止めたのだ。自分たちが去ったあとで死なれでもしたら、後味が悪い。


 媛容はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸った。


「……家が勧める縁談があるのです」


 決して大きな声ではない。けれど、はっきりとした声だった。その奥に微かな震えがあるのを、司馬昭は聞き逃さない。


「相手の方は由緒ある家柄で、相当な権力を持っているそうです。才気煥発で人望も厚く、周囲からも期待されているとか」

「良縁じゃないか」


 司馬昭は何気なく言った。


「まさか、結婚が嫌で命を断とうと?」


 媛容が黙る。


 司馬昭は内心で冷や汗をかいた。


 図星だったらしい。早速、言うことを間違えた。


「……ばか」

「聞こえてるぞ」

「聞こえるように言ったもん」


 隣から飛んできた澪里の声に、司馬昭は軽く咳払いをする。


「あー……あれか? もしかして相手の男は性悪なのか? ついでに顔も最悪とか」


 しかし、媛容は首を横に振った。


「いいえ。会ったこともない方です。名前すら知りません」

「じゃあ、どうして?」

「……私には、お慕いしているお方が」


 媛容が言葉を詰まらせる。それだけで、司馬昭にも事情は分かった。


「なるほど。そいつと結ばれたくても叶わない、か」

「他の殿方に嫁ぐなど、考えられません」


 媛容は膝の上で両手を握りしめた。


「ですが、御家のためだと言われては……」

「そりゃあ、名家に生まれた運命だな」

「私は……」


 媛容の唇が震える。


「運命だからと、諦めたくないのです」


 澪里が、その言葉にわずかに反応した。


 司馬昭は横目でそれを見る。


 運命。


 つい先日、自分たちもその話をしていた。


「諦め切れないのです。どうしても、受け入れることができません」

「けど、別に死ぬことないだろ」


 司馬昭は少しだけ声を落とした。


「死んだら、全部そこで終わりだぜ?」


 媛容は俯いたまま動かない。


「話を聞いた限りじゃ、縁談の相手は悪くなさそうだしな」


 むしろ、相当な良縁だ。由緒ある家柄で権力もあり、才気もあり、人望もある。これで見た目も中身も良いなら申し分ない。


 そんな理想的な人間が、そうそういるとは思えないが。


「案外、気に入るかもな」

「……そうでしょうか」

「顔なんか三日で慣れるって言うし、性格が気に入らなきゃ無視すればいい。どうしても駄目なら、さっさと離縁する」

「司馬昭、それは励ましているの?」


 澪里が呆れた目で見てくる。


「励ましてるだろ。一応」

「一応なんだ」

「だいたい、お前が死んでどうにかなるのか?」


 司馬昭は媛容を見る。


「死んで運命が変わるんだったら、俺なんか今までに十回以上は死んでるぞ」

「私も」


 澪里が真顔で言った。


「百万回ぐらい軽くいってるね」

「澪里……そりゃ死にすぎだ」


 あまりにも真面目な顔で言うものだから、司馬昭は思わず苦笑した。


 そのやり取りを見ていた媛容の表情が、わずかに緩む。


 ほんの少しだけ。それでも確かに、張り詰めていたものがほどけたように見えた。


「……感謝いたします。子上、澪里」


 媛容は顔を上げた。目にはまだ迷いが残っている。それでも、先ほどのように俯いてはいなかった。


「私、とりあえず縁談のお相手に会ってみようと思います」

「ああ。それがいい」


 媛容は少し迷うように目を伏せ、それから微かに口元を緩める。


「死ぬのは、それからでも遅くないですよね」

「――いや、待て」


 司馬昭は即座に突っ込んだ。


「結局死ぬのかよ」


 媛容は一瞬きょとんとしたあと、口元に手を添えて小さく笑った。


「ふふ。冗談です」


 立ち上がった媛容は、司馬昭と澪里を振り返る。その顔には、先ほどとは違う笑みがあった。


 陰りはまだ残っている。それでも綺麗だった。花が開くような、と言えば大袈裟かもしれない。


 だが司馬昭は、思わず見惚れた。


「本当に、ありがとうございました」


 媛容は深く頭を下げると、小刀を拾うことなく衣の裾を整え、ゆっくりと去っていった。


 その背中が木立の向こうへ消えるまで、二人はしばらく黙って見送っていた。


「この時代って、自由に恋もできないんだね」


 ぽつりと、澪里が言った。


「未来では自由なのか?」

「ほぼ自由だよ」


 澪里は遠くを見るように答える。


「媛容みたいに、家に決められることの方が珍しいんじゃないかな」

「想うだけなら、こっちでも自由だと思うけどな」

「そうだね」


 澪里は小さく頷いた。


「ただ、想いを阻むものを自分の力でどうにかできるか、できないか。その違いだよ」


 子は親に従うもの。親には逆らえない。逆らわないのが普通で、婚姻ともなればなおさらだ。


 まして名家の娘である媛容に、選択の余地はほとんどないだろう。


 それでも。


「あいつの運命、どうにかして変わらないか」


 言ってから、司馬昭は自分でも少し驚いた。


 なぜ、そんなことを思ったのか。つい先日、出会ったばかりの女だ。事情も深くは知らない。


 けれど、あの笑顔を見てしまった。


 もう二度と、あんなふうに笑えなくなるのだとしたら。それは、どうにも後味が悪い。


「……変わらないから、運命なんだよ」


 澪里は静かに言った。


 その声は、残酷なほど穏やかだった。


 司馬昭は彼女を見る。


 澪里はもうこちらを見ていなかった。背を向け、先に歩き出している。その背中は、ひどく寂しそうだった。


「変えたいと思っても、変えられないものがある。変えちゃいけないものも、ある」

「……お前は、そう思ってるのか」

「思ってるんじゃないよ」


 澪里は振り返らなかった。


「そうしないと、いけないの」


 風が吹いた。草が揺れ、遠くで馬が小さく嘶く。


 司馬昭はしばらく、その背中を見ていた。


 運命だから。

 変わらないから。

 変えちゃいけないから。


 澪里の言葉はどれも正しいようで、どこかひどく苦しそうだった。


「……めんどくせぇな」


 司馬昭は小さく呟いた。


 けれどその声は、いつものような投げやりなものにはならなかった。

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