第24話 夜に残るもの
屋敷の門が見えてきた頃には、空はすっかり藍色に沈んでいた。門前に灯された明かりが、ぼんやりと二人を照らしている。
「着いたぞ」
司馬昭がそう言うと、澪里は小さく「うん」と返した。
行きよりも、帰りの方がずっと短く感じたのは気のせいだろうか。
門をくぐり、馬をゆるやかに止める。止まってしまえば、この距離も終わる。そう思った瞬間、胸の奥が妙に空いた。
――何を考えてるんだ、俺は。
「降りられるか?」
「たぶん……」
「たぶんじゃ信用できねぇ」
司馬昭は先に馬を下り、振り返って澪里へ手を伸ばした。
「ほら」
「……うん」
澪里がその手を取る。
引き下ろしてやれば、それで済む。だが馬から下りた瞬間、澪里の身体がわずかによろめいた。
「っ、わ」
「危なっ」
反射的に腰へ腕を回し、その身体を受け止める。
ふわりと落ちてきた重みが、腕の中に収まった。
「だ、大丈夫か」
「う、うん……ごめん」
「謝んな。転ばれる方が面倒だ」
ぶっきらぼうに言ってから、司馬昭は内心で舌打ちした。
もっと他に言いようがあるだろうに、こういう時に限ってまともな言葉が出てこない。
「ちゃんと立てるか」
「立てる、と思う」
「“思う”じゃ分かんねぇだろ」
言いながらも、すぐには腕を離せなかった。
またよろけるかもしれないから。
そう理由をつけてみる。
けれど、本当は離したくないだけなのかもしれない。
そこまで考えて、司馬昭は小さく息を吐いた。
「……ほら。ゆっくり歩け」
「子どもじゃないんだけど」
「だったらふらつくな」
「好きでふらついてるんじゃないよ」
口では文句を言いながらも、澪里は司馬昭の腕につかまったまま歩き出した。
門番たちが一瞬こちらを見る。
澪里は気づいたらしく、慌てて手を離そうとした。
「ちょっと、もう大丈夫だから」
「急に離すな。転んだらどうすんだよ」
「でも見られてる」
「別にいいだろ」
「よくない!」
声を潜めて抗議する澪里に、司馬昭は思わず笑いそうになった。
廊下へ上がる手前で足を止める。
「ここからは平気か」
「うん。今度こそ大丈夫」
澪里は一歩離れ、それから改めて司馬昭を見る。
「今日はありがとう」
「……別に」
「助かったよ。いっぱい」
「大したことしてねぇだろ」
「したよ」
そう言って笑う顔を見た瞬間、司馬昭は視線を逸らした。
だめだ。
今日は本当に、何をされても調子が狂う。
「もう部屋戻れ。冷えるぞ」
「司馬昭は?」
「馬見てくる」
「そっか」
澪里は少し間を置き、もう一度笑った。
「……今日はありがとう」
「ああ」
司馬昭は片手を軽く上げ、そのまま背を向けた。
いつもなら軽口の一つくらい返せるはずなのに、今日は無理だった。
厩へ向かいながらも、腕にはまだ澪里の重みが残っている気がする。さっきまで背中越しに感じていた温もりも、腕につかまっていた指先も、妙に鮮明だった。
馬のたてがみを撫でながら、司馬昭は深く息を吐く。
「……参ったな」
近くにいるだけで落ち着かない。触れれば、なおさらだ。
それなのに離れた瞬間には、今度は物足りなくなる。
こんなのはもう、どう考えてもただ事ではなかった。
その時、ふと別の光景が脳裏をよぎった。
夕日を受けて光った小さな刃と、血の気の引いた女の顔。
媛容、と名乗った声。
司馬昭は馬の首筋を撫でる手を止めた。
澪里のことばかり考えていた頭に、ようやく川辺で出会った女のことが戻ってくる。
死のうとしていた女。
縁談を苦に、小刀を握っていた女。
そして最後には、笑って去っていった女。
「……あいつ、大丈夫かよ」
呟いた時だった。
「昭」
低い声が背後から聞こえた。
司馬昭の肩がわずかに強張る。振り返ると、司馬懿が立っていた。
「父上」
「随分と遅かったな」
「……少し、寄り道を」
「澪里の気晴らしに出たはずが、夜まで戻らぬとはな」
「それは、まあ」
司馬懿の目が細くなる。
「何があった」
司馬昭は一瞬だけ黙った。
澪里とのことまで話す必要はない。だが、川辺で出会った女のことは、なぜか黙っておくのが引っかかった。
「川辺で、女が死のうとしていました」
司馬懿の眉が、わずかに動く。
「女?」
「ええ。小刀を自分の喉に当てていたんで、止めました。それで帰りが遅くなったんです」
「ほう」
「ただの民の娘には見えませんでした。言葉遣いも崩れていないし、絹の衣も着ていた。たぶん、どこか名家の娘でしょうね」
「名は聞いたのか」
「媛容と」
「……媛容」
司馬懿は短く繰り返した。
その声には、何かを測るような響きがあった。
「まあ、偽名でしょうけど。親に決められた縁談が嫌だったらしいです」
司馬昭は少しだけ眉を寄せる。
「家のためって言われりゃ、それで終わりなんですかね」
「名家に生まれたなら、避けられぬこともある」
司馬懿は静かに答えた。
「婚姻とは、本人たちだけのものではない。家と家を結ぶものだ。望む、望まぬだけで選べるものではない」
「でしょうね」
分かっている。
司馬昭だって、それくらいは知っている。
けれど今日、あの女が小刀を握っている姿を見てしまった。
誰かにとって婚姻が、命を捨てようとするほどのものになり得ることも。
ふと、兄の顔が浮かんだ。
司馬師。
兄もいずれ、家のために妻を迎える。
父が選び、司馬家に必要だと判断した女を。
兄なら、きっと上手くやるだろう。たとえ望んだ相手ではなくとも、表には出さない。妻を軽んじることもなく、必要なら大切に扱い、周囲には何の不和も見せない。
けれど、それで本当に苦しまないと言い切れるのだろうか。
あの媛容という女のように、どこかで潰れそうになっている誰かがいるかもしれない。
そして兄自身が苦しんだとしても、それを誰かに見せるとは思えなかった。
きっと、弟である自分にも。
「……兄上も、いつかそうなるんですよね」
ぽつりと司馬昭が言うと、司馬懿の目がわずかに動いた。
「いずれはな」
「父上は、もう考えてるんですか。兄上の縁談」
「当然だ」
「相手も?」
「候補はある」
「……そうですか」
司馬昭は馬の首筋を撫でた。
兄も、まだ見ぬ誰かも、家のために結ばれる。
それがこの時代では当たり前なのだ。
それでも、せめて。
二人とも、不幸にはならなければいい。
家のためでも、親のためでも、運命のためでも。その中に、ほんの少しくらい互いに笑える場所があればいい。
そんなことを願う自分が、少しだけおかしかった。
「……それにしても、媛容、か」
司馬懿が静かに呟いた。
その声が、妙に引っかかる。
「父上、何か知ってるんですか」
「知らぬ」
「今の間は、知ってる時の間でしたけど」
「昭」
「はい」
「余計なことに首を突っ込むな」
またそれだ。
司馬昭は思わず口をへの字に曲げる。
「もう突っ込んだ後です」
「だから厄介なのだ」
司馬懿はため息に近い息を吐いた。
「その女のことは、ひとまず忘れろ」
「死にかけてた女をですか」
「死ななかったのだろう」
「ええ」
「ならばよい」
「よくないでしょう」
口から出た言葉に、司馬昭自身が少し驚いた。
司馬懿も、わずかに目を細める。
「……昭」
「はい」
「情だけで動くな」
「情だけじゃありませんよ」
「では何だ」
何だ、と問われても困る。
媛容のことは何も知らない。名すら偽名だろう。どこの誰なのかも分からない。
それなのに、あの笑顔だけが頭に残っている。
死のうとしていた女が、最後に見せた笑顔。
あれを見てしまって、何事もなかったように忘れられるほど、自分は器用ではなかった。
「……後味が悪いだけです」
司馬昭がそう言うと、司馬懿はしばらく黙った。
「それを情と言うのだ」
「そうですか」
「面倒なものを拾ったな」
「父上に似たのかもしれませんね」
「口だけは達者になった」
司馬懿は冷たく言った。
だが、本気で怒っているわけではなさそうだった。




