↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三國残夢  作者: 仄か
PR
25/25

第24話 夜に残るもの

 屋敷の門が見えてきた頃には、空はすっかり藍色に沈んでいた。門前に灯された明かりが、ぼんやりと二人を照らしている。


「着いたぞ」


 司馬昭がそう言うと、澪里は小さく「うん」と返した。


 行きよりも、帰りの方がずっと短く感じたのは気のせいだろうか。


 門をくぐり、馬をゆるやかに止める。止まってしまえば、この距離も終わる。そう思った瞬間、胸の奥が妙に空いた。


 ――何を考えてるんだ、俺は。


「降りられるか?」

「たぶん……」

「たぶんじゃ信用できねぇ」


 司馬昭は先に馬を下り、振り返って澪里へ手を伸ばした。


「ほら」

「……うん」


 澪里がその手を取る。


 引き下ろしてやれば、それで済む。だが馬から下りた瞬間、澪里の身体がわずかによろめいた。


「っ、わ」

「危なっ」


 反射的に腰へ腕を回し、その身体を受け止める。


 ふわりと落ちてきた重みが、腕の中に収まった。


「だ、大丈夫か」

「う、うん……ごめん」

「謝んな。転ばれる方が面倒だ」


 ぶっきらぼうに言ってから、司馬昭は内心で舌打ちした。


 もっと他に言いようがあるだろうに、こういう時に限ってまともな言葉が出てこない。


「ちゃんと立てるか」

「立てる、と思う」

「“思う”じゃ分かんねぇだろ」


 言いながらも、すぐには腕を離せなかった。


 またよろけるかもしれないから。


 そう理由をつけてみる。


 けれど、本当は離したくないだけなのかもしれない。


 そこまで考えて、司馬昭は小さく息を吐いた。


「……ほら。ゆっくり歩け」

「子どもじゃないんだけど」

「だったらふらつくな」

「好きでふらついてるんじゃないよ」


 口では文句を言いながらも、澪里は司馬昭の腕につかまったまま歩き出した。


 門番たちが一瞬こちらを見る。


 澪里は気づいたらしく、慌てて手を離そうとした。


「ちょっと、もう大丈夫だから」

「急に離すな。転んだらどうすんだよ」

「でも見られてる」

「別にいいだろ」

「よくない!」


 声を潜めて抗議する澪里に、司馬昭は思わず笑いそうになった。


 廊下へ上がる手前で足を止める。


「ここからは平気か」

「うん。今度こそ大丈夫」


 澪里は一歩離れ、それから改めて司馬昭を見る。


「今日はありがとう」

「……別に」

「助かったよ。いっぱい」

「大したことしてねぇだろ」

「したよ」


 そう言って笑う顔を見た瞬間、司馬昭は視線を逸らした。


 だめだ。


 今日は本当に、何をされても調子が狂う。


「もう部屋戻れ。冷えるぞ」

「司馬昭は?」

「馬見てくる」

「そっか」


 澪里は少し間を置き、もう一度笑った。


「……今日はありがとう」

「ああ」


 司馬昭は片手を軽く上げ、そのまま背を向けた。


 いつもなら軽口の一つくらい返せるはずなのに、今日は無理だった。


 厩へ向かいながらも、腕にはまだ澪里の重みが残っている気がする。さっきまで背中越しに感じていた温もりも、腕につかまっていた指先も、妙に鮮明だった。


 馬のたてがみを撫でながら、司馬昭は深く息を吐く。


「……参ったな」


 近くにいるだけで落ち着かない。触れれば、なおさらだ。


 それなのに離れた瞬間には、今度は物足りなくなる。


 こんなのはもう、どう考えてもただ事ではなかった。


 その時、ふと別の光景が脳裏をよぎった。


 夕日を受けて光った小さな刃と、血の気の引いた女の顔。


 媛容、と名乗った声。


 司馬昭は馬の首筋を撫でる手を止めた。


 澪里のことばかり考えていた頭に、ようやく川辺で出会った女のことが戻ってくる。


 死のうとしていた女。


 縁談を苦に、小刀を握っていた女。


 そして最後には、笑って去っていった女。


「……あいつ、大丈夫かよ」


 呟いた時だった。


「昭」


 低い声が背後から聞こえた。


 司馬昭の肩がわずかに強張る。振り返ると、司馬懿が立っていた。


「父上」

「随分と遅かったな」

「……少し、寄り道を」

「澪里の気晴らしに出たはずが、夜まで戻らぬとはな」

「それは、まあ」


 司馬懿の目が細くなる。


「何があった」


 司馬昭は一瞬だけ黙った。


 澪里とのことまで話す必要はない。だが、川辺で出会った女のことは、なぜか黙っておくのが引っかかった。


「川辺で、女が死のうとしていました」


 司馬懿の眉が、わずかに動く。


「女?」

「ええ。小刀を自分の喉に当てていたんで、止めました。それで帰りが遅くなったんです」

「ほう」

「ただの民の娘には見えませんでした。言葉遣いも崩れていないし、絹の衣も着ていた。たぶん、どこか名家の娘でしょうね」

「名は聞いたのか」

「媛容と」

「……媛容」


 司馬懿は短く繰り返した。


 その声には、何かを測るような響きがあった。


「まあ、偽名でしょうけど。親に決められた縁談が嫌だったらしいです」


 司馬昭は少しだけ眉を寄せる。


「家のためって言われりゃ、それで終わりなんですかね」


「名家に生まれたなら、避けられぬこともある」


 司馬懿は静かに答えた。


「婚姻とは、本人たちだけのものではない。家と家を結ぶものだ。望む、望まぬだけで選べるものではない」

「でしょうね」


 分かっている。


 司馬昭だって、それくらいは知っている。


 けれど今日、あの女が小刀を握っている姿を見てしまった。


 誰かにとって婚姻が、命を捨てようとするほどのものになり得ることも。


 ふと、兄の顔が浮かんだ。


 司馬師。


 兄もいずれ、家のために妻を迎える。


 父が選び、司馬家に必要だと判断した女を。


 兄なら、きっと上手くやるだろう。たとえ望んだ相手ではなくとも、表には出さない。妻を軽んじることもなく、必要なら大切に扱い、周囲には何の不和も見せない。


 けれど、それで本当に苦しまないと言い切れるのだろうか。


 あの媛容という女のように、どこかで潰れそうになっている誰かがいるかもしれない。


 そして兄自身が苦しんだとしても、それを誰かに見せるとは思えなかった。


 きっと、弟である自分にも。


「……兄上も、いつかそうなるんですよね」


 ぽつりと司馬昭が言うと、司馬懿の目がわずかに動いた。


「いずれはな」

「父上は、もう考えてるんですか。兄上の縁談」

「当然だ」

「相手も?」

「候補はある」

「……そうですか」


 司馬昭は馬の首筋を撫でた。


 兄も、まだ見ぬ誰かも、家のために結ばれる。


 それがこの時代では当たり前なのだ。


 それでも、せめて。


 二人とも、不幸にはならなければいい。


 家のためでも、親のためでも、運命のためでも。その中に、ほんの少しくらい互いに笑える場所があればいい。


 そんなことを願う自分が、少しだけおかしかった。


「……それにしても、媛容、か」


 司馬懿が静かに呟いた。


 その声が、妙に引っかかる。


「父上、何か知ってるんですか」

「知らぬ」

「今の間は、知ってる時の間でしたけど」

「昭」

「はい」

「余計なことに首を突っ込むな」


 またそれだ。


 司馬昭は思わず口をへの字に曲げる。


「もう突っ込んだ後です」

「だから厄介なのだ」


 司馬懿はため息に近い息を吐いた。


「その女のことは、ひとまず忘れろ」

「死にかけてた女をですか」

「死ななかったのだろう」

「ええ」

「ならばよい」

「よくないでしょう」


 口から出た言葉に、司馬昭自身が少し驚いた。


 司馬懿も、わずかに目を細める。


「……昭」

「はい」

「情だけで動くな」

「情だけじゃありませんよ」

「では何だ」


 何だ、と問われても困る。


 媛容のことは何も知らない。名すら偽名だろう。どこの誰なのかも分からない。


 それなのに、あの笑顔だけが頭に残っている。


 死のうとしていた女が、最後に見せた笑顔。


 あれを見てしまって、何事もなかったように忘れられるほど、自分は器用ではなかった。


「……後味が悪いだけです」


 司馬昭がそう言うと、司馬懿はしばらく黙った。


「それを情と言うのだ」

「そうですか」

「面倒なものを拾ったな」

「父上に似たのかもしれませんね」

「口だけは達者になった」


 司馬懿は冷たく言った。


 だが、本気で怒っているわけではなさそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。