第22話 夕暮れの寄り道
馬のそばまで戻ると、司馬昭はようやく澪里を地面へ下ろした。腕の中から温もりが離れた瞬間、妙に名残惜しいような感覚が胸をかすめて、自分で自分にうんざりする。
「ほら。乗れ」
「……その前に、ちゃんと足が戻るまで待った方がよくない?」
「待ってたら本当に真っ暗になるだろ」
ぶっきらぼうに言って、司馬昭は先に馬へ跨がった。それから馬上から手を差し伸べる。
「来い」
「う……」
さっき抱き上げられたばかりだからか、澪里は少しだけためらったように見えた。だが、やがて観念したように司馬昭の手を取る。ぐいと引き上げ、自分の前へ座らせた。
「しっかり座れよ」
「わ、分かってる……」
言いながらも、澪里の背はぴんと強張っている。そのすぐ後ろに自分がいるせいだと気づいて、司馬昭も変に意識した。
いや、仕方ないだろ。前に乗せなければ支えにくいし、手綱も取れない。ただそれだけだ。
そう言い聞かせながら手綱を取ると、自然と両腕が澪里の身体を囲う形になる。ふわりと揺れる髪が風に乗って頬をかすめ、甘いような柔らかな匂いが鼻先をくすぐった。
近い。思っていた以上に。
「……司馬昭?」
「なんだよ」
「近い」
「当たり前だろ。馬だぞ」
できるだけ平然と返したつもりだったが、自分でも少し声が硬いのが分かった。
「でも……」
「落ちたいのか?」
「落ちたくはないけど……」
「じゃあ黙ってろ。大人しくしてれば、すぐ着く」
「……はいはい」
返事は素直ではない。けれど、その声が妙に可愛く聞こえて、司馬昭はますます落ち着かなくなる。
馬を進める。夕暮れの風が頬を撫で、桃の花の香りが少しずつ遠ざかっていった。
道は思ったより細く、所々で馬の足元が揺れる。そのたびに澪里の身体がわずかにぐらつき、司馬昭は反射的に腕へ力を込めた。
「きゃっ」
「だからちゃんと掴まってろって言っただろ」
「ど、どこに?」
「前だよ。鞍でもなんでもあるだろ」
「だって揺れるんだもん……」
拗ねたような言い方に、思わず苦笑が漏れそうになる。だが次の瞬間、澪里が遠慮がちに司馬昭の腕へ触れた。
ほんの少し、服の上から指先がかかるだけ。それだけなのに、身体の芯が妙に熱くなる。
「……これでいい?」
「……ああ」
短く返すのが精一杯だった。
腕に添えられた指先。背中越しに伝わる柔らかな重み。ただ支えているだけのはずなのに、馬が進むたび、その距離の近さがじわじわと意識の内側へ染みてくる。
膝枕で眠ってしまった時も、気持ちよさそうにしていたからと足が痺れるまで動かなかったと言われた時も、抱きとめた時も、抱き上げた時も。
いちいち胸が鳴る。
こんなの、今までなかった。
「司馬昭」
「……なんだよ」
「さっきから、なんか静かじゃない?」
「別に」
「ほんとに?」
「ほんとだ」
「嘘っぽい」
「お前な……」
言い返そうとした、その時だった。馬が少し大きく揺れ、澪里の身体が後ろへ傾いで司馬昭の胸へ軽くぶつかる。
「……っ」
一瞬、息が止まった。
司馬昭は手綱を持つ手に力を込め、もう片方の腕で澪里の腹のあたりを支える。
「ちゃんとしろ。危ねえだろ」
「そ、それは今のは道が悪いの!」
「分かってる」
分かっている。分かっているのに、心臓だけがまるで分かっていない。
澪里はしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。
「……司馬昭の方こそ、なんか変」
「は?」
「さっきから声、変だし」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないと思うけど」
「気のせいだって言ってるだろ」
やや強めに返してしまい、しまったと思う。けれど澪里は怒るでもなく、ただ少し肩をすくめた。
「ふーん」
「なんだよ、その言い方」
「別に?」
顔は見えない。それでも、きっと笑っているのだろう。そう思うと少し腹立たしいのに、その苛立ちは不思議と嫌なものではなかった。
むしろ今は、その何でもなさそうな声に救われている気さえする。この妙に落ち着かない空気を、いつもの二人に戻してくれるから。
しばらく進むうち、空はゆっくりと夕暮れの色を深めていった。まだ明るさは残っているが、日が沈みきるまでそう長くはない。
「……綺麗」
澪里がぽつりと呟いた。その声は、桃園で涙を浮かべていた時よりも少しだけ穏やかだった。
「だろ」
「うん」
短いやり取りのあと、不意に澪里の肩から力が抜ける。さっきまで強張っていた背中が、そっと司馬昭へ預けられた。
その何気ない変化に、司馬昭の鼓動が大きく跳ねる。
「……落ちるなよ」
「落ちないよ」
「だったらいい」
「司馬昭がちゃんと支えてくれてるし」
さらりと言われて、言葉に詰まった。
信じられている。当たり前のように、自分なら支えると思われている。
それが嬉しい。
そう認めてしまえば、さっきから自分をおかしくしているものの正体なんて、もう誤魔化しようもなかった。
守りたい。近くにいたい。
触れているだけで、どうしようもなくなる。
――参ったな。
「……このまま帰るの?」
澪里の声で我に返る。
「帰りたいのか?」
「そういうわけじゃないけど……遅くなったら、司馬懿に怒られない?」
「もう怒られるだろ」
「え」
「予定よりだいぶ遅い」
澪里が困ったように振り返ろうとする。その動きに合わせて、髪がまた司馬昭の頬をかすめた。
「じゃあ、急いだ方がいいんじゃない?」
「足、まだ完全には戻ってないだろ」
「もう平気だよ」
「信用ならねえ」
「ひどい」
小さく抗議する声に、司馬昭はわずかに口元を緩めた。
川の音が聞こえてきたのは、その時だった。
木々の向こうから、さらさらと水の流れる音がする。夕日を受けた葉の隙間から淡い光がこぼれていた。
司馬昭は手綱を少し引く。
「少し寄ってくぞ」
「え?」
「川辺で休む。馬も水を飲ませた方がいい」
「でも、帰らなくていいの?」
「だから、もう怒られるって言っただろ」
「それ、開き直ってない?」
「どうせ怒られるなら、少しくらい休んでからでも同じだ」
澪里が呆れたように息をつく。
「司馬昭らしいね」
「褒めてんのか?」
「半分くらいは」
「また半分かよ」
思わず笑って、司馬昭は馬を川辺へ向けた。
本当は急いで帰るべきなのだろう。父には節度を持てと言われた。王元姫にも釘を刺された。澪里だって怪我をしている。
そんなことは分かっている。
それでも、このまま屋敷へ戻る気にはなれなかった。
腕の中にある温もりを、もう少しだけ離したくない。
そう思ってしまった自分に気づき、司馬昭は小さく舌打ちした。
「……面倒くせぇ」
「またそれ?」
「何でもねえよ」
木々の影が、二人をゆっくりと包んでいく。桃の香りはもう遠く、代わりに湿った土と川風の匂いが近づいてきた。
その先で、司馬昭はまだ知らない。
この寄り道が、ひとりの女の運命を変えることになるなど。




