第21話 桃花にほどける
朝の風を切り、しばらく進んだ先。
視界が開けた瞬間、前に座る澪里が小さく息を呑む気配がした。
「綺麗だろ?」
そこは一面の桃園だった。
枝いっぱいに咲き誇る薄紅の花が朝日に透け、風が吹くたび、花びらが宙を舞う。散った花は地を淡く染め、まるで空から春が降り積もったようだった。
「司馬昭……ここって……」
「ここの桃園は毎年見事だって聞いたことがあってな。……気に入ったか?」
澪里の顔を覗き込むと、その瞳にはうっすら涙が浮かんでいた。
「……って、おい。なんで泣いてんだ」
「あ……ううん。なんでもない。本当に綺麗だね」
笑ってはいる。でも、その声の奥にあるものには気づかないふりをした。
きっと、ここには彼女だけの理由がある。
今ここでそれを訊くのは、違う気がした。
司馬昭は馬を下り、澪里にも手を貸して下ろしてやる。二人並んで、桃の木の下へ歩いた。
ひときわ花のよく咲く樹のそばに腰を下ろす。風が吹くたび、花びらが肩や髪に舞い落ちた。
「澪里。その……悪かったな」
今なら言える。
そう思って、司馬昭はずっと喉に引っかかっていた言葉をようやく口にした。
「なにが?」
「ほら……あの朝のことだよ」
「ああ」
澪里は一度、足元に落ちた花びらへ目を落とした。
それだけで、あの日の自分の熱がまざまざと蘇る。兄に張り合って、笑われて、意地になって――勢いのまま、越えかけた一線。
「勢いで……変なことしようとした」
「変なこと?」
「お前、分かってるくせに」
「さあ?」
わざとらしく首を傾げられ、司馬昭は眉を寄せる。けれど、そこで本気で怒る気にはなれなかった。
「……無理やり、あんなふうに迫るつもりじゃなかった」
「でも、迫ったよね」
「だから謝ってるんだろ」
澪里はくすっと笑った。責めるような響きはない。
司馬昭は胸の奥で、少しだけ息を吐く。
「気にしてないよ」
「お前はそう言うと思った」
「それに」
「ん?」
「司馬昭だったから、あそこまでで済んだんだと思う」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
澪里は少しだけ笑って、桃の花を見上げる。
「他の人だったら、たぶんもっと本気で怒ってた」
「それ、褒められてるのか?」
「半分くらいは」
「どっちだよ」
呆れたように返しながらも、悪い気はしない。むしろ、その“半分”がやけに心をくすぐった。
けれど、それだけで終わらせてはいけないことも分かっていた。
司馬昭は膝の上で手を握る。
「それと、もう一つ」
澪里がこちらを見る。
さっきまでの柔らかな空気が、少しだけ変わった。
「公孫淵の乱のことも、悪かった」
「……うん」
「あの時、俺は失敗した。お前に怪我をさせた。なのに……最初に考えたのは、自分が責められることだった」
口にすると、ひどく情けなかった。でも言わなければならない。
逃げるなと母に言われ、王元姫に刺された。そして何より、自分が一番分かっていた。
これ以上、澪里の優しさに隠れてはいけない。
「あの時、お前が来なければ、俺は死んでたかもしれない。助けられたのは俺の方だ。なのに俺は、それをちゃんと受け止められなかった」
澪里は黙って聞いていた。
怒らない。責めない。
だからこそ、司馬昭は言葉を続けた。
「心配かけた。怪我させた。それから……助けに来てくれて、ありがとな」
言い終えた瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ落ちた気がした。
澪里はしばらく黙っていた。
風が吹く。桃の花びらが一枚、澪里の膝へ落ちた。
「……怒ってないわけじゃないよ」
小さな声だった。
司馬昭は息を止める。
「怖かったし、心配したし、無茶しないでって思った。ちゃんと反省してほしいとも思ってる」
「……してる」
「なら、いいよ」
「軽くないか?」
「軽くないよ」
澪里は花びらを指先でつまみ、そっと地面へ落とした。
「でも、司馬昭が生きてるから、こうして怒れるんだよ」
その言葉に、胸の奥がひどく痛んだ。
まただ。
澪里はいつも、責める代わりにそう言う。
生きていてよかったと。
それがどれほど自分を逃げられなくするか、きっと分かっていない。
「……お前、ずるいよな」
「え?」
「なんでもねぇ」
司馬昭は草の上に寝転がった。
そして、ついでのような顔をして、そっと頭を澪里の膝に預ける。
「ちょ……司馬昭……っ」
「少しくらい、いいだろ。ずっとバタバタしてたんだ」
「バタバタって……謹慎中だったじゃない」
「だからその間、俺にしては真面目に執務してたんだよ。褒めてくれてもいいぜ」
冗談めかして言うと、澪里が呆れたように息をつく気配がした。
「自分で言うんだ」
「言わなきゃ誰も言ってくれねえだろ」
その返しに、澪里が小さく笑う。
次の瞬間、髪にそっと指が触れた。
ふわり、と撫でる優しい手つき。
思わず目を閉じる。くすぐったいような、落ち着くような、不思議な感覚だった。
泣いていたくせに、こういう時には人を安心させる。
そういうところが、ずるい。
「……お前、そういうとこあるよな」
「なにが?」
「いや。なんでもねぇ」
口にしたら、たぶん今の空気が変わってしまう。
だから司馬昭はそれ以上言わなかった。
髪を撫でる手の感触だけを追いながら、意識はゆっくりとほどけていく。このままもう少しだけ、ここにいたい。そんなことを思ったのが最後だった。
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次に目を開けた時、司馬昭は飛び起きた。
いつの間にか日は大きく傾き、桃園には長い影が伸びている。空はまだ明るいが、西の端にはうっすらと橙色が滲み始めていた。
「……やっべ」
寝過ごした。
慌てて隣を見ると、澪里は桃の樹にもたれたまま、座って静かな寝息を立てていた。夕暮れの淡い色が頬に差している。
「澪里。おい、起きろ」
「ん……あ、司馬昭……」
「日が暮れる。そろそろ帰るぞ」
だが、澪里は身体を起こしたまま、困ったように眉を寄せた。
「……どうした?」
「う……立てない。足、痺れてる……」
その一言で事情を察する。長いこと同じ体勢でいた上に、膝には司馬昭の頭が乗っていたのだ。
「重けりゃ頭落とせばよかったじゃないか」
「そ、そんなことできないよ。気持ちよさそうに寝てたし……」
その言葉に、心臓がどくんと大きく鳴った。
自分が気持ちよさそうに眠っていたから。だから動けなかった。そんな理由で困っているくせに、責めるどころか、むしろ少し困ったように笑う。
――そういうの、反則だろ。
「……お前、そういうとこ可愛いよな」
「はぁ? なにが」
「だから、そういうとこだって。ほら、無理すんな」
言いながら手を差し出す。澪里は、少しだけむっとした顔をした。
「……いらない」
「お前な。そういう時は素直に甘えろよ。可愛くねぇぞ」
「だって、平気……ひゃっ」
「……っと」
足がもつれた澪里の身体が傾く。司馬昭はとっさに腕を伸ばし、その身体を受け止めた。
軽い。思ったよりずっと。
なのに、腕の中に収まった途端、妙に意識してしまう。顔も、息も、体温も近い。さっきまでただ“守るように”受け止めたはずなのに、今はそれだけでは済まない何かが胸の内側を熱くしていく。
「司馬昭……?」
「あ……悪い」
呼ばれて我に返り、慌てて少しだけ身体を離した。だが、一度意識してしまったものは簡単には消えない。触れていた腕が、妙に熱かった。
このまま痺れが治るのを待っていたら、たぶん自分の方がもたない。
司馬昭は半ば誤魔化すように言い放った。
「……っあー。お前の痺れが治まるの待ってたら日が暮れる。行くぞ」
「え、きゃっ」
返事を待たず、膝裏に腕を差し入れて抱き上げる。ふわりと身体が浮いた瞬間、澪里が目を丸くした。
「し、司馬昭っ。いい、いいから! 降ろして!」
「少し黙ってろ。暴れると落とすぞ」
「お、落とさないでよ……!」
ぴたり、と腕の中で大人しくなる。司馬昭から顔を逸らした澪里の頬は、夕暮れのせいだけではない色に染まっていた。
それを見た瞬間、また胸の鼓動が大きく跳ねる。
なんだこれ。さっきから、調子が狂いっぱなしだ。
「……重くない?」
「全然」
「即答……」
「お前が軽いだけだろ」
言ってから、自分の台詞の気恥ずかしさに遅れて気づく。だが今さら撤回もできない。澪里の方も何を返していいか分からないらしく、ただ黙っている。
その沈黙が、妙に甘かった。
桃の花びらが、風に乗って二人の肩をかすめていく。腕の中の温もりを意識しないようにしながら、司馬昭は馬の方へと足を向けた。
早く馬まで運べばいい。ただ、それだけのことだ。そう思っているはずなのに、腕の中の澪里が少し身じろぎするたび、どうにも歩幅が乱れる。
――何やってんだ、俺は。
ふと浮かんだ苛立ちに、自分で自分が可笑しくなる。だから司馬昭は、いつものように少しだけ不機嫌そうな顔を作ってみせた。
「ほら。帰るぞ」
「……うん」
小さく返ってきた声は、どこか素直で。そのたった一言だけで、胸の奥がまた、どうしようもなく騒いだ。




