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三國残夢  作者: 仄か
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22/25

第21話 桃花にほどける

 朝の風を切り、しばらく進んだ先。


 視界が開けた瞬間、前に座る澪里が小さく息を呑む気配がした。


「綺麗だろ?」


 そこは一面の桃園だった。


 枝いっぱいに咲き誇る薄紅の花が朝日に透け、風が吹くたび、花びらが宙を舞う。散った花は地を淡く染め、まるで空から春が降り積もったようだった。


「司馬昭……ここって……」

「ここの桃園は毎年見事だって聞いたことがあってな。……気に入ったか?」


 澪里の顔を覗き込むと、その瞳にはうっすら涙が浮かんでいた。


「……って、おい。なんで泣いてんだ」

「あ……ううん。なんでもない。本当に綺麗だね」


 笑ってはいる。でも、その声の奥にあるものには気づかないふりをした。


 きっと、ここには彼女だけの理由がある。

 今ここでそれを訊くのは、違う気がした。


 司馬昭は馬を下り、澪里にも手を貸して下ろしてやる。二人並んで、桃の木の下へ歩いた。


 ひときわ花のよく咲く樹のそばに腰を下ろす。風が吹くたび、花びらが肩や髪に舞い落ちた。


「澪里。その……悪かったな」


 今なら言える。


 そう思って、司馬昭はずっと喉に引っかかっていた言葉をようやく口にした。


「なにが?」

「ほら……あの朝のことだよ」

「ああ」


 澪里は一度、足元に落ちた花びらへ目を落とした。


 それだけで、あの日の自分の熱がまざまざと蘇る。兄に張り合って、笑われて、意地になって――勢いのまま、越えかけた一線。


「勢いで……変なことしようとした」

「変なこと?」

「お前、分かってるくせに」

「さあ?」


 わざとらしく首を傾げられ、司馬昭は眉を寄せる。けれど、そこで本気で怒る気にはなれなかった。


「……無理やり、あんなふうに迫るつもりじゃなかった」

「でも、迫ったよね」

「だから謝ってるんだろ」


 澪里はくすっと笑った。責めるような響きはない。


 司馬昭は胸の奥で、少しだけ息を吐く。


「気にしてないよ」

「お前はそう言うと思った」

「それに」

「ん?」

「司馬昭だったから、あそこまでで済んだんだと思う」

「……は?」


 思わず間の抜けた声が出た。


 澪里は少しだけ笑って、桃の花を見上げる。


「他の人だったら、たぶんもっと本気で怒ってた」

「それ、褒められてるのか?」

「半分くらいは」

「どっちだよ」


 呆れたように返しながらも、悪い気はしない。むしろ、その“半分”がやけに心をくすぐった。


 けれど、それだけで終わらせてはいけないことも分かっていた。


 司馬昭は膝の上で手を握る。


「それと、もう一つ」


 澪里がこちらを見る。


 さっきまでの柔らかな空気が、少しだけ変わった。


「公孫淵の乱のことも、悪かった」

「……うん」

「あの時、俺は失敗した。お前に怪我をさせた。なのに……最初に考えたのは、自分が責められることだった」


 口にすると、ひどく情けなかった。でも言わなければならない。


 逃げるなと母に言われ、王元姫に刺された。そして何より、自分が一番分かっていた。


 これ以上、澪里の優しさに隠れてはいけない。


「あの時、お前が来なければ、俺は死んでたかもしれない。助けられたのは俺の方だ。なのに俺は、それをちゃんと受け止められなかった」


 澪里は黙って聞いていた。


 怒らない。責めない。

 だからこそ、司馬昭は言葉を続けた。


「心配かけた。怪我させた。それから……助けに来てくれて、ありがとな」


 言い終えた瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ落ちた気がした。


 澪里はしばらく黙っていた。


 風が吹く。桃の花びらが一枚、澪里の膝へ落ちた。


「……怒ってないわけじゃないよ」


 小さな声だった。


 司馬昭は息を止める。


「怖かったし、心配したし、無茶しないでって思った。ちゃんと反省してほしいとも思ってる」


「……してる」

「なら、いいよ」

「軽くないか?」

「軽くないよ」


 澪里は花びらを指先でつまみ、そっと地面へ落とした。


「でも、司馬昭が生きてるから、こうして怒れるんだよ」


 その言葉に、胸の奥がひどく痛んだ。


 まただ。


 澪里はいつも、責める代わりにそう言う。

 生きていてよかったと。


 それがどれほど自分を逃げられなくするか、きっと分かっていない。


「……お前、ずるいよな」

「え?」

「なんでもねぇ」


 司馬昭は草の上に寝転がった。


 そして、ついでのような顔をして、そっと頭を澪里の膝に預ける。


「ちょ……司馬昭……っ」

「少しくらい、いいだろ。ずっとバタバタしてたんだ」

「バタバタって……謹慎中だったじゃない」

「だからその間、俺にしては真面目に執務してたんだよ。褒めてくれてもいいぜ」


 冗談めかして言うと、澪里が呆れたように息をつく気配がした。


「自分で言うんだ」

「言わなきゃ誰も言ってくれねえだろ」


 その返しに、澪里が小さく笑う。


 次の瞬間、髪にそっと指が触れた。

 ふわり、と撫でる優しい手つき。


 思わず目を閉じる。くすぐったいような、落ち着くような、不思議な感覚だった。

 泣いていたくせに、こういう時には人を安心させる。


 そういうところが、ずるい。


「……お前、そういうとこあるよな」

「なにが?」

「いや。なんでもねぇ」


 口にしたら、たぶん今の空気が変わってしまう。


 だから司馬昭はそれ以上言わなかった。


 髪を撫でる手の感触だけを追いながら、意識はゆっくりとほどけていく。このままもう少しだけ、ここにいたい。そんなことを思ったのが最後だった。


---


 次に目を開けた時、司馬昭は飛び起きた。


いつの間にか日は大きく傾き、桃園には長い影が伸びている。空はまだ明るいが、西の端にはうっすらと橙色が滲み始めていた。


「……やっべ」


 寝過ごした。


 慌てて隣を見ると、澪里は桃の樹にもたれたまま、座って静かな寝息を立てていた。夕暮れの淡い色が頬に差している。


「澪里。おい、起きろ」

「ん……あ、司馬昭……」

「日が暮れる。そろそろ帰るぞ」


 だが、澪里は身体を起こしたまま、困ったように眉を寄せた。


「……どうした?」

「う……立てない。足、痺れてる……」


 その一言で事情を察する。長いこと同じ体勢でいた上に、膝には司馬昭の頭が乗っていたのだ。


「重けりゃ頭落とせばよかったじゃないか」

「そ、そんなことできないよ。気持ちよさそうに寝てたし……」


 その言葉に、心臓がどくんと大きく鳴った。


 自分が気持ちよさそうに眠っていたから。だから動けなかった。そんな理由で困っているくせに、責めるどころか、むしろ少し困ったように笑う。


 ――そういうの、反則だろ。


「……お前、そういうとこ可愛いよな」

「はぁ? なにが」

「だから、そういうとこだって。ほら、無理すんな」


 言いながら手を差し出す。澪里は、少しだけむっとした顔をした。


「……いらない」

「お前な。そういう時は素直に甘えろよ。可愛くねぇぞ」

「だって、平気……ひゃっ」

「……っと」


 足がもつれた澪里の身体が傾く。司馬昭はとっさに腕を伸ばし、その身体を受け止めた。


 軽い。思ったよりずっと。


 なのに、腕の中に収まった途端、妙に意識してしまう。顔も、息も、体温も近い。さっきまでただ“守るように”受け止めたはずなのに、今はそれだけでは済まない何かが胸の内側を熱くしていく。


「司馬昭……?」

「あ……悪い」


 呼ばれて我に返り、慌てて少しだけ身体を離した。だが、一度意識してしまったものは簡単には消えない。触れていた腕が、妙に熱かった。


 このまま痺れが治るのを待っていたら、たぶん自分の方がもたない。


 司馬昭は半ば誤魔化すように言い放った。


「……っあー。お前の痺れが治まるの待ってたら日が暮れる。行くぞ」

「え、きゃっ」


 返事を待たず、膝裏に腕を差し入れて抱き上げる。ふわりと身体が浮いた瞬間、澪里が目を丸くした。


「し、司馬昭っ。いい、いいから! 降ろして!」

「少し黙ってろ。暴れると落とすぞ」

「お、落とさないでよ……!」


 ぴたり、と腕の中で大人しくなる。司馬昭から顔を逸らした澪里の頬は、夕暮れのせいだけではない色に染まっていた。


 それを見た瞬間、また胸の鼓動が大きく跳ねる。


 なんだこれ。さっきから、調子が狂いっぱなしだ。


「……重くない?」

「全然」

「即答……」

「お前が軽いだけだろ」


 言ってから、自分の台詞の気恥ずかしさに遅れて気づく。だが今さら撤回もできない。澪里の方も何を返していいか分からないらしく、ただ黙っている。


 その沈黙が、妙に甘かった。


 桃の花びらが、風に乗って二人の肩をかすめていく。腕の中の温もりを意識しないようにしながら、司馬昭は馬の方へと足を向けた。


 早く馬まで運べばいい。ただ、それだけのことだ。そう思っているはずなのに、腕の中の澪里が少し身じろぎするたび、どうにも歩幅が乱れる。


 ――何やってんだ、俺は。


 ふと浮かんだ苛立ちに、自分で自分が可笑しくなる。だから司馬昭は、いつものように少しだけ不機嫌そうな顔を作ってみせた。


「ほら。帰るぞ」

「……うん」


 小さく返ってきた声は、どこか素直で。そのたった一言だけで、胸の奥がまた、どうしようもなく騒いだ。

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