第20話 世話係りの務め
謹慎が解けた。とはいえ、晴れ晴れとした気分には程遠い。
部屋に籠もらされている間も、執務は普段より多く積まれた。外に出られないなら仕事をしろ、という父の理屈は分かる。分かるが、分かりたくはなかった。
ようやく屋敷の中を自由に歩けるようになったというのに、司馬昭の足取りは重い。理由は分かっている。
澪里に、まだ謝れていない。
公孫淵の乱で心配をかけたこと。助けに来てくれたこと。自分の失態を、彼女のせいにしようとしたこと。それから、あの朝のこと。兄に張り合って、勢いのまま口付けようとしたこと。
謝るべきことはいくつもある。あるのに、口に出すきっかけがない。
「……めんどくせぇ」
呟きながら廊下を進む。その時、ふと聞き慣れた声が耳に入った。
「本当に、ごめんなさいね」
母、張春華の声だった。
司馬昭は足を止める。声は澪里の部屋から聞こえてくる。扉は少しだけ開いていた。中を覗くつもりはなかった。だが、続いた言葉に身体が動かなくなる。
「子上が不甲斐なくて」
「い、いえ。そんな……」
澪里の困ったような声がする。
司馬昭は思わず眉を寄せた。何の話をしているのか、聞かなくても分かった。公孫淵の乱のことだ。自分が奇襲に失敗したこと。澪里が怪我をしたこと。それを、母が代わりに謝っている。
「昔から、あの子は面倒なことから逃げるのが上手くて」
「……そうなんですか?」
「ええ。怒られると分かると、うまく言い訳を探してね。けれど、肝心なところでは意地を張るのです」
張春華の声には、呆れと、少しだけの愛情が混じっていた。
「だから余計に手がかかる」
「でも……優しいところもあります」
澪里の声が、静かに返る。
司馬昭は息を止めた。
「知っています」
張春華が穏やかに言った。
「だから、困るのです。心根が悪いわけではないから、叱る方も余計に腹が立つ」
「ふふっ」
澪里が小さく笑った。その笑い声に、張春華も少しだけ笑ったようだった。
「澪里。あなたが怪我をしたこと、あの子はまだきちんと受け止めきれていないのでしょう」
「……はい」
「けれど、逃げているだけでは何も変わりません。あなたも、怒ってよいのですよ」
「怒ってはいます」
澪里は少しだけ拗ねたように言った。
「でも、生きててくれたから……それで、いいかなって」
胸の奥が苦しくなった。
まただ。また、澪里は自分を責めない。怒っていいはずなのに。責めていいはずなのに。それなのに、生きていてよかったと言う。
司馬昭は扉の前から動けなかった。入らなければならない。今こそ謝るべきだ。そう分かっているのに、足が動かない。
「子上殿」
背後から声がした。
司馬昭は肩を跳ねさせる。振り返ると、王元姫が立っていた。いつもの無表情。だが、その目は少しだけ冷たい。
「入らないのですか」
「……いや、今は母上と話してるし」
「盗み聞きはされるのに?」
「してねぇよ」
「では、そこで何を?」
「……通りかかっただけだ」
「随分と長い通りがかりですね」
刺す。相変わらず、遠慮なく刺してくる。
司馬昭は顔をしかめた。
「元姫、お前な」
「子上殿」
王元姫の声が、少しだけ低くなる。
「逃げるのは、もうおやめください」
言い返そうとして、言葉が詰まった。逃げている。それは自分が一番分かっていた。
「澪里殿は、あなたを責めておられません」
「……分かってる」
「だからこそ、子上殿が自分で謝るべきです」
「分かってるって」
「分かっているだけでは、何も変わりません」
何も言い返せなかった。
王元姫は静かに扉へ手をかける。
「入りますよ」
「ちょ、待て――」
止める間もなく、王元姫が扉を開けた。室内にいた張春華と澪里が、こちらを振り返る。
「あら、子上」
「……母上」
張春華は司馬昭の顔を見るなり、すべて察したように目を細めた。
「そこにいたのですか」
「今来たところです」
「そういうことにしておきましょう」
母には、たぶん何もかも見抜かれている。
澪里は少し驚いた顔をしていたが、すぐにいつものように笑った。
「謹慎、解けたんだね」
「……まあな」
「よかった」
責めない。やはり責めない。それが逆に、司馬昭には堪えた。
何か言わなければと思う。だが、言葉が喉で引っかかる。その沈黙を切ったのは、王元姫だった。
「澪里殿の気晴らしに、少し外へ出ます。子上殿も来てください」
「なんで俺まで」
「護衛です」
「元姫の方が俺より強そうだけど」
「否定はしません」
「否定しろよ」
澪里が少し笑う。その笑いに、司馬昭の肩からほんの少し力が抜けた。
だが、張春華の声がすぐに飛んでくる。
「子上。あなたは世話係でしょう」
「父上には、近づきすぎるなって言われてるんですけど」
「近づかなければ、世話などできないでしょう」
「それはそうですけど」
「それとも、また逃げるのですか」
ぐさりと刺さった。
母は王元姫より柔らかく刺す。だが、痛さは変わらない。
「……逃げませんよ」
「ならば、行きなさい」
張春華は当然のように言った。
「澪里も、屋敷の中にばかりいては気が滅入るでしょう。少し外の空気を吸ってきなさい」
「でも、いいんですか?」
澪里が遠慮がちに言う。
張春華は微笑んだ。
「ええ。許可は、あの人に取ればよいだけです」
あの人。
言うまでもなく、司馬懿である。
王元姫は静かに頷いた。
「では、私が確認してまいります」
そう言った時だった。
「何の確認だ」
低い声が廊下から聞こえた。
司馬昭は思わず顔をしかめる。来た。一番面倒な人が来た。
「父上」
司馬懿が部屋の前に立っていた。何か用があったのか、それとも声を聞きつけたのか。どちらにせよ、間の悪さはさすがだった。
王元姫が一礼する。
「司馬懿殿。澪里殿の気晴らしに、屋敷の外へ出してもよろしいでしょうか」
「外へ?」
司馬懿の目が澪里へ向く。澪里は少し姿勢を正した。
「はい。少しだけ」
「誰をつける」
「子上殿を」
「……昭を?」
司馬懿の視線が、ゆっくりと司馬昭へ向いた。その目には、はっきりと疑念がある。
無理もない。つい先日、自分は公孫淵の乱で大失態を犯したばかりだ。しかも司馬懿は以前、澪里に近づきすぎるなと釘を刺している。司馬昭にも、それくらいは分かっていた。
「司馬家での世話係ですので」
王元姫が淡々と言う。
司馬懿は黙った。考えている。近づきすぎるなと言ったはずだ。だが、世話を命じたのも自分だ。そういう顔だった。
王元姫は、その迷いを見逃さなかった。
「では、子元殿を?」
「……いや、昭でよい」
即答に近かった。
司馬昭は思わず司馬懿を見る。今、父の中で何が天秤にかけられたのかは分からない。だが、司馬師ではなく自分が選ばれた。喜ぶべきなのか、嫌な予感を覚えるべきなのか。判断に困る。
「ただし」
司馬懿の声が低くなる。
「昭」
「はい」
「節度を持て」
「……またそれですか」
「返事は」
「はい。節度を持ちます」
「澪里」
「なに?」
「無理はするな。傷は浅いとはいえ、塞がりきっているわけではない」
「分かった」
澪里が素直に頷く。
司馬懿はそれを確認すると、張春華へ視線を移した。
「春華。勝手なことを」
「あら。澪里の顔色が悪いのを放っておけと?」
「そうは言っていない」
「なら、よろしいでしょう」
司馬懿は何か言いたげだったが、結局それ以上は言わなかった。
母上、強い。
司馬昭は内心で感心する。父に正面から言えるのは、やはり母くらいだ。
こうして、澪里の気晴らしに外へ出ることが決まった。
王元姫も同行する予定だった。少なくとも、その時点では。
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出発の支度を整え、馬舎へ向かおうとした時だった。
「子上殿」
王元姫が、いつになく険しい顔で現れた。
「何だよ、今度は」
「宮中より呼び出しがありました」
「……は?」
「私は同行できません」
司馬昭はすぐに眉を寄せた。
「じゃあ中止だな」
「なぜですか」
「元姫が行けないなら、護衛が減るだろ」
「子上殿がいます」
「俺を護衛扱いするなよ。いや、護衛だったな」
「そうです」
王元姫は表情を変えない。
「代わりに、澪里殿をお願いします」
「は?俺と澪里だけで?」
「何か問題でも?」
「……いや」
問題はある。山ほどある。謝れていないこと。気まずいこと。父に節度を持てと言われたこと。自分がまた余計なことを言いそうなこと。
けれど、それを口にすれば、王元姫にさらに刺されるだけだ。
「節度を持てばよいだけです」
「お前までそれ言うのかよ」
「必要ですので」
王元姫は真っ直ぐに司馬昭を見る。
「それから、子上殿」
「何だ」
「謝る機会は、自分で作るものです」
司馬昭は言葉を失った。
本当に、こいつは。嫌なところを的確に刺してくる。
「……分かってる」
「なら、よろしいです」
王元姫は少しだけ表情を和らげた。
「澪里殿をお願いします」
「任された」
軽く言ったつもりだった。だが、王元姫はすぐには引かなかった。
「今度は、途中で死んだふりをなさらないように」
「まだ言うか、それ」
「言います」
王元姫は淡々と返す。そして一礼し、宮中へ向かって歩いていった。
司馬昭はその背を見送りながら、大きく息を吐く。
「どいつもこいつも、勝手なことばかり言いやがる」
父は近づきすぎるなと言う。母は近づかなければ世話などできないと言う。王元姫は謝る機会を作れと言う。そして澪里は、責めない。
責めないからこそ、逃げ場がない。
「司馬昭?」
背後から声がした。
振り返ると、澪里が立っていた。外へ出る支度を済ませている。まだ少し顔色は白い。けれど、屋敷の中にいた時よりは、どこか明るく見えた。
「元姫は?」
「宮中に呼ばれた」
「じゃあ、今日はやめる?」
「いや」
司馬昭は馬の手綱を取った。
「行くぞ」
「でも、二人だけで大丈夫?」
「節度を持てばいいんだろ」
「何それ」
「父上と元姫に言われた」
澪里がきょとんとしたあと、ふっと笑った。
「じゃあ、節度を持ってお願いします」
「お前まで言うな」
少しだけ、空気が緩んだ。
けれど、まだ肝心なことは言えていない。謝らなければならない。礼も言わなければならない。それでも今は、馬に跨がる方が先だった。
司馬昭は先に鞍へ上がり、澪里へ手を差し出した。澪里は少し迷ったようにその手を見る。そして、そっと手を重ねた。
その手は、前より少しだけ弱々しく感じた。
司馬昭は力加減を探りながら、澪里を自分の前へ引き上げる。
「痛むか?」
「少しだけ」
「少しの顔じゃないな」
口にしてから、司馬昭ははっとした。どこかで聞いたような言い方だった。司馬師だ。
澪里も気づいたのか、少しだけ目を丸くしたあと、笑った。
「司馬師みたいなこと言うね」
「……うるせぇ」
気まずい。けれど、以前ほど嫌ではなかった。
司馬昭は澪里の肩越しに前を見て、手綱を握った。腕の内側に、澪里の背中がある。近い。父の言葉が頭をよぎる。
近づきすぎるな。
余計な情を抱くな。
余計な約束をするな。
余計な未来を求めるな。
「……面倒くせぇ」
「何か言った?」
「何でもねぇよ」
司馬昭は前を向いたまま答える。
「どこへ行きたい?」
澪里は少し考えてから、遠くを見るような目をした。
「桃園が見たい」
「桃園?」
「うん。この時代の桃園って、どんな感じなのかなって」
その声には、どこか懐かしむような響きがあった。
未来のことか。それとも、過去のことか。司馬昭には分からない。だが、深くは訊かなかった。
「じゃあ、桃園だな」
「いいの?」
「気晴らしなんだろ。行きたいところへ行けばいい」
そう言って、司馬昭は馬を進めた。
屋敷の門を抜ける。風が吹いた。
謝るなら、今日だ。
そう思った。思っただけで、まだ言葉にはできない。けれど、逃げるつもりはなかった。少なくとも、今日は。
馬は、桃園へ向かってゆっくりと進み出した。




