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三國残夢  作者: 仄か
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20/25

第19話 謝れない男

「馬鹿めが!」


 司馬懿の怒声が、部屋に響き渡った。


 怒鳴られているのは、もちろん他でもない司馬昭である。


 奇襲部隊が壊滅したこと。

 退却の機を逃したこと。

 死んだふりをしてやり過ごそうとしたこと。

 挙げ句の果てに、そのまま本当に眠ってしまったこと。


 犯した失態はすべて司馬懿の耳に入り、司馬昭は大目玉を食うことになった。


「奇襲に失敗したこと、それ自体はどうでもよい」


 司馬懿の声は低い。

 怒鳴っている時よりも、かえって恐ろしかった。


「戦に失敗はつきものだ。問題はその後よ。退却し損ない、死んだふりで乗り切ろうとは……愚の極みだ!」

「父上。お言葉ですが、皆が早々に退却して、俺一人で頑張ってたんですよ」

「それで退却の機を逃したのでは意味がないわ!」


 司馬懿の眉間に、深い皺が刻まれる。


「引き際を見定められず、将兵を危険にさらし、身を守るためとはいえ最も滑稽な手段を取るとは……とんだ凡愚よ!」


 凡愚。


 司馬懿が最も嫌悪する存在を、そう呼ぶ。


 誰かが言われている分には、別に構わない。

 だが、それが自分に向けられると、思った以上に胸の奥が重くなった。


「よもや、我が息子がこれほど怠慢だとはな」

「……申し訳ありませんでした」


 司馬昭は俯いた。

 司馬懿の顔をまともに見られなかった。


「昭。お前をしばらく謹慎に処する」

「……はい」

「一切の外出を禁じる。己の所業についてよく考えろ」

「はい」

「もちろん、その間も普段通り――いや、それ以上の執務を命じる」

「……分かりました」


 司馬昭は視線を上げないまま一礼し、部屋を出た。


 扉が閉まった瞬間、重い息が漏れる。


「子上殿」


 顔を上げると、部屋の前に王元姫が立っていた。

 待ち構えていたらしい。


「分かってるって、元姫」


 司馬昭は片手を軽く上げる。


「謹慎中は部屋から出ない。執務もちゃんとやる。それでいいんだろ」

「そうではありません」


 王元姫の声は、いつもより冷たかった。


「部屋へ籠もる前に、澪里殿のところへ行ってください」

「は? なんで」

「先の戦があってから、元気がありません。子上殿は、何かご存じですか」

「知らねぇな」


 司馬昭は顔をそむけた。


「だいたい、俺は別働隊で一緒にいなかった。澪里と行動してたのは兄上だ」


 そもそも、自分がこんなことになったのは澪里のせいでもある。


 そう思った。


 彼女が伏兵のことを先に言っていれば。

 自分に同行していれば。

 あるいは、もっと詳しく教えてくれていれば。


 そんな考えが、胸の内に黒く滲む。


「てか、澪里は?」


 司馬昭は王元姫を見る。


「戦が終わってから全然見ないけど、どうしてるんだ?」

「知らないのですか、子上殿」


 王元姫の目が細くなる。


「彼女の相棒だと豪語しておられたそうですが」


「相棒って言うなら、俺を危険な目に遭わせるなっつーの」


「澪里殿は怪我をされました」


 その一言で、司馬昭の息が止まった。


「え……」

「子元殿を庇って、矢傷を受けて」


 怪我。

 澪里が。

 司馬師を庇って。


 そんなはずはない、と頭のどこかが否定した。


 澪里は未来を知っている。危険があるなら分かっているはずだ。

 自ら危険な目に遭うはずがない。


「重傷、なのか?」

「いいえ。傷は深くはないようです」

「……そっか」


 司馬昭は小さく息を吐いた。


「大したことないなら、良かったじゃないか」


 その瞬間、王元姫の表情が変わった。


「あなたは、何も分かっていないのですね」

「何だよ」

「澪里殿は、子上殿の代わりに奇襲へ向かわれたのです」

「俺の代わり?」

「本来なら、彼女は本陣で待機しているはずでした。ですが、子上殿が動けなくなり、子元殿が救援に向かった。奇襲を続けるために、澪里殿も前線へ出ざるを得なかった」


 王元姫は、きっと眦を吊り上げた。


「その結果、怪我をされたのです」

「なんだよ」


 司馬昭の声が低くなる。


「俺が悪いみたいな言い方だな」

「ええ、そうですよ」


 王元姫は一歩も引かなかった。


「まったく、不甲斐ない」

「あのな。奇襲部隊は伏兵に遭って、早々に分断されたんだ。そんな中、俺は最後まで残ってたんだぜ? 下手すりゃ死んでた」

「ですが、無事だったのですよね」

「それは――」

「しかも、死んだふりをしていた」


 言葉が詰まる。


「子上殿が最後まで奮戦していれば、子元殿もあなたの同行を許したはずです。少なくとも、足手まといとは言わなかったでしょう」


 図星だった。


 司馬昭は何も言えなくなる。


「司馬懿殿は、あなたを責めたでしょう」


 王元姫の声が、少しだけ静かになる。


「けれど澪里殿は、子上殿が無事でよかったと、そう言っていました」

「……」

「自分が怪我をしたことよりも、子上殿が生きていたことに、ほっとしていたのです」


 王元姫は目を伏せた。


「それなのに、あなたは彼女のせいにするのですか」


 胸の奥が、嫌な音を立てた。


 俺は馬鹿だ。


 司馬昭はようやく思った。


 本当は分かっていた。司馬師は、あんな醜態をさらした自分に呆れて、同行を拒んだ。

 澪里が伏兵のことを知っていたとしても、それをどうにかするのは自分自身だった。


 命の危機に瀕したとしても、諦めずに運命を変える。


 そう言ったのは、自分だ。


 それなのに、思うようにいかなかったからといって、澪里に責任を押しつける。


 それでは、ただの子どもだ。


「……悪かった、元姫」

「謝る相手が違います」


 王元姫は静かに言った。


「謝るなら、澪里殿に謝ってください。それから、お礼を言うべきです」


 顔を上げた王元姫は、先ほどとは違って、少しだけ柔らかい表情をしていた。


 司馬昭はその目を見て、小さく頷く。


「……分かった」


 そして、澪里の部屋へ向かった。


 道すがら、何を言うべきか考えた。


 助けに来てくれてありがとう。

 心配をかけて悪かった。

 それから、先日の朝のことも、ちゃんと謝るべきだ。


 兄に張り合って、勢いで迫ったこと。

 怖がらせたこと。

 あれは自分が悪かった。


 そう言わなければならない。


 けれど、澪里の部屋の前まで来た時、司馬昭は思わず足を止めた。


 扉が、わずかに開いていた。その隙間から、部屋の中が見える。


 司馬師と澪里がいた。

 肩を寄せるようにして座っている。

 司馬師が、澪里の腕に巻かれた布を見ていた。傷の具合を確かめているのだろう。


 ただ、それだけだ。


 そう分かっているはずなのに。

 その距離が、妙に近く見えた。


「痛むか」


 司馬師の声が聞こえた。


「少しだけ」

「少しの顔ではない」

「じゃあ、けっこう痛い」

「最初からそう言え」


 澪里が小さく笑った。


 司馬師の声は、いつも通り静かだった。

 けれど、司馬昭には分かった。


 少しだけ柔らかい。


 普段、他人へ向ける声とは違う。


「無理をするなと言ったはずだ」

「司馬師だって無理したでしょ。司馬昭のところに行くって聞かなかったって、夏侯覇に聞いたよ」

「余計なことを」

「本当なんだ」

「忘れろ」

「無理。あんなに焦った司馬師、初めて見たもん」


 澪里がまた笑う。


 司馬師は何も言わなかった。

 否定しない沈黙だった。


 司馬昭は、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。


「司馬昭、無事でよかったね」


 澪里の声だった。


 その言葉に、息が止まる。


「あれでも、私の相棒だから」

「相棒か」

「うん。めんどくさいし、すぐ楽をしようとするし、変なところで意地を張るけど」

「よく見ているな」

「でも、優しいところもあるよ」


 司馬昭は、扉の前で固まった。


 胸が痛い。


 責められているわけではない。

 むしろ、庇われている。

 なのに、苦しい。


「だから、ちゃんと強くなってほしい」


 澪里の声は、ひどく穏やかだった。


「司馬昭は、きっとこれから必要になる人だから」

「……それは、運命帳に書いてあるからか」


 司馬師の声が低くなる。


 澪里は少し黙った。


「それもある」

「それだけではない、と?」

「うん」


 小さな沈黙。


 そして、澪里が言う。


「私が、そう思ってるから」


 司馬師が息を吐く気配がした。


「ならば、本人に言ってやれ」

「言ったら調子に乗るよ」

「それは否定できぬな」


 二人の笑い声が、重なる。

 どうしようもなく、息が詰まった。


 この感じ。

 前にもあった。


 縁側で司馬師と澪里を見かけた夜。


 あの時と同じだ。


 いや、もっと悪い。

 今度は、口付けの誤解ではない。

 司馬師と澪里が、本当に互いを分かり合っているように見えた。


 自分の知らないところで。

 自分の話をして。

 自分よりも近い距離で。


 司馬昭は、扉を叩けなかった。


 謝らなければならない。

 礼も言わなければならない。

 分かっている。


 分かっているのに、足が動かなかった。


「……何やってんだ、俺」


 声にならないほど小さく呟く。


 司馬昭はそのまま、静かに扉から離れた。


 廊下を歩き出す。


 逃げた。


 そう思った。


 けれど、今あの中へ入っていけるほど、自分はできた人間ではなかった。


 胸の奥に残った痛みの正体を、司馬昭はまだ知らない。


 ただ、ひとつだけ分かった。


 自分は、澪里に謝ることすら、まともにできない男だった。

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