第19話 謝れない男
「馬鹿めが!」
司馬懿の怒声が、部屋に響き渡った。
怒鳴られているのは、もちろん他でもない司馬昭である。
奇襲部隊が壊滅したこと。
退却の機を逃したこと。
死んだふりをしてやり過ごそうとしたこと。
挙げ句の果てに、そのまま本当に眠ってしまったこと。
犯した失態はすべて司馬懿の耳に入り、司馬昭は大目玉を食うことになった。
「奇襲に失敗したこと、それ自体はどうでもよい」
司馬懿の声は低い。
怒鳴っている時よりも、かえって恐ろしかった。
「戦に失敗はつきものだ。問題はその後よ。退却し損ない、死んだふりで乗り切ろうとは……愚の極みだ!」
「父上。お言葉ですが、皆が早々に退却して、俺一人で頑張ってたんですよ」
「それで退却の機を逃したのでは意味がないわ!」
司馬懿の眉間に、深い皺が刻まれる。
「引き際を見定められず、将兵を危険にさらし、身を守るためとはいえ最も滑稽な手段を取るとは……とんだ凡愚よ!」
凡愚。
司馬懿が最も嫌悪する存在を、そう呼ぶ。
誰かが言われている分には、別に構わない。
だが、それが自分に向けられると、思った以上に胸の奥が重くなった。
「よもや、我が息子がこれほど怠慢だとはな」
「……申し訳ありませんでした」
司馬昭は俯いた。
司馬懿の顔をまともに見られなかった。
「昭。お前をしばらく謹慎に処する」
「……はい」
「一切の外出を禁じる。己の所業についてよく考えろ」
「はい」
「もちろん、その間も普段通り――いや、それ以上の執務を命じる」
「……分かりました」
司馬昭は視線を上げないまま一礼し、部屋を出た。
扉が閉まった瞬間、重い息が漏れる。
「子上殿」
顔を上げると、部屋の前に王元姫が立っていた。
待ち構えていたらしい。
「分かってるって、元姫」
司馬昭は片手を軽く上げる。
「謹慎中は部屋から出ない。執務もちゃんとやる。それでいいんだろ」
「そうではありません」
王元姫の声は、いつもより冷たかった。
「部屋へ籠もる前に、澪里殿のところへ行ってください」
「は? なんで」
「先の戦があってから、元気がありません。子上殿は、何かご存じですか」
「知らねぇな」
司馬昭は顔をそむけた。
「だいたい、俺は別働隊で一緒にいなかった。澪里と行動してたのは兄上だ」
そもそも、自分がこんなことになったのは澪里のせいでもある。
そう思った。
彼女が伏兵のことを先に言っていれば。
自分に同行していれば。
あるいは、もっと詳しく教えてくれていれば。
そんな考えが、胸の内に黒く滲む。
「てか、澪里は?」
司馬昭は王元姫を見る。
「戦が終わってから全然見ないけど、どうしてるんだ?」
「知らないのですか、子上殿」
王元姫の目が細くなる。
「彼女の相棒だと豪語しておられたそうですが」
「相棒って言うなら、俺を危険な目に遭わせるなっつーの」
「澪里殿は怪我をされました」
その一言で、司馬昭の息が止まった。
「え……」
「子元殿を庇って、矢傷を受けて」
怪我。
澪里が。
司馬師を庇って。
そんなはずはない、と頭のどこかが否定した。
澪里は未来を知っている。危険があるなら分かっているはずだ。
自ら危険な目に遭うはずがない。
「重傷、なのか?」
「いいえ。傷は深くはないようです」
「……そっか」
司馬昭は小さく息を吐いた。
「大したことないなら、良かったじゃないか」
その瞬間、王元姫の表情が変わった。
「あなたは、何も分かっていないのですね」
「何だよ」
「澪里殿は、子上殿の代わりに奇襲へ向かわれたのです」
「俺の代わり?」
「本来なら、彼女は本陣で待機しているはずでした。ですが、子上殿が動けなくなり、子元殿が救援に向かった。奇襲を続けるために、澪里殿も前線へ出ざるを得なかった」
王元姫は、きっと眦を吊り上げた。
「その結果、怪我をされたのです」
「なんだよ」
司馬昭の声が低くなる。
「俺が悪いみたいな言い方だな」
「ええ、そうですよ」
王元姫は一歩も引かなかった。
「まったく、不甲斐ない」
「あのな。奇襲部隊は伏兵に遭って、早々に分断されたんだ。そんな中、俺は最後まで残ってたんだぜ? 下手すりゃ死んでた」
「ですが、無事だったのですよね」
「それは――」
「しかも、死んだふりをしていた」
言葉が詰まる。
「子上殿が最後まで奮戦していれば、子元殿もあなたの同行を許したはずです。少なくとも、足手まといとは言わなかったでしょう」
図星だった。
司馬昭は何も言えなくなる。
「司馬懿殿は、あなたを責めたでしょう」
王元姫の声が、少しだけ静かになる。
「けれど澪里殿は、子上殿が無事でよかったと、そう言っていました」
「……」
「自分が怪我をしたことよりも、子上殿が生きていたことに、ほっとしていたのです」
王元姫は目を伏せた。
「それなのに、あなたは彼女のせいにするのですか」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
俺は馬鹿だ。
司馬昭はようやく思った。
本当は分かっていた。司馬師は、あんな醜態をさらした自分に呆れて、同行を拒んだ。
澪里が伏兵のことを知っていたとしても、それをどうにかするのは自分自身だった。
命の危機に瀕したとしても、諦めずに運命を変える。
そう言ったのは、自分だ。
それなのに、思うようにいかなかったからといって、澪里に責任を押しつける。
それでは、ただの子どもだ。
「……悪かった、元姫」
「謝る相手が違います」
王元姫は静かに言った。
「謝るなら、澪里殿に謝ってください。それから、お礼を言うべきです」
顔を上げた王元姫は、先ほどとは違って、少しだけ柔らかい表情をしていた。
司馬昭はその目を見て、小さく頷く。
「……分かった」
そして、澪里の部屋へ向かった。
道すがら、何を言うべきか考えた。
助けに来てくれてありがとう。
心配をかけて悪かった。
それから、先日の朝のことも、ちゃんと謝るべきだ。
兄に張り合って、勢いで迫ったこと。
怖がらせたこと。
あれは自分が悪かった。
そう言わなければならない。
けれど、澪里の部屋の前まで来た時、司馬昭は思わず足を止めた。
扉が、わずかに開いていた。その隙間から、部屋の中が見える。
司馬師と澪里がいた。
肩を寄せるようにして座っている。
司馬師が、澪里の腕に巻かれた布を見ていた。傷の具合を確かめているのだろう。
ただ、それだけだ。
そう分かっているはずなのに。
その距離が、妙に近く見えた。
「痛むか」
司馬師の声が聞こえた。
「少しだけ」
「少しの顔ではない」
「じゃあ、けっこう痛い」
「最初からそう言え」
澪里が小さく笑った。
司馬師の声は、いつも通り静かだった。
けれど、司馬昭には分かった。
少しだけ柔らかい。
普段、他人へ向ける声とは違う。
「無理をするなと言ったはずだ」
「司馬師だって無理したでしょ。司馬昭のところに行くって聞かなかったって、夏侯覇に聞いたよ」
「余計なことを」
「本当なんだ」
「忘れろ」
「無理。あんなに焦った司馬師、初めて見たもん」
澪里がまた笑う。
司馬師は何も言わなかった。
否定しない沈黙だった。
司馬昭は、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
「司馬昭、無事でよかったね」
澪里の声だった。
その言葉に、息が止まる。
「あれでも、私の相棒だから」
「相棒か」
「うん。めんどくさいし、すぐ楽をしようとするし、変なところで意地を張るけど」
「よく見ているな」
「でも、優しいところもあるよ」
司馬昭は、扉の前で固まった。
胸が痛い。
責められているわけではない。
むしろ、庇われている。
なのに、苦しい。
「だから、ちゃんと強くなってほしい」
澪里の声は、ひどく穏やかだった。
「司馬昭は、きっとこれから必要になる人だから」
「……それは、運命帳に書いてあるからか」
司馬師の声が低くなる。
澪里は少し黙った。
「それもある」
「それだけではない、と?」
「うん」
小さな沈黙。
そして、澪里が言う。
「私が、そう思ってるから」
司馬師が息を吐く気配がした。
「ならば、本人に言ってやれ」
「言ったら調子に乗るよ」
「それは否定できぬな」
二人の笑い声が、重なる。
どうしようもなく、息が詰まった。
この感じ。
前にもあった。
縁側で司馬師と澪里を見かけた夜。
あの時と同じだ。
いや、もっと悪い。
今度は、口付けの誤解ではない。
司馬師と澪里が、本当に互いを分かり合っているように見えた。
自分の知らないところで。
自分の話をして。
自分よりも近い距離で。
司馬昭は、扉を叩けなかった。
謝らなければならない。
礼も言わなければならない。
分かっている。
分かっているのに、足が動かなかった。
「……何やってんだ、俺」
声にならないほど小さく呟く。
司馬昭はそのまま、静かに扉から離れた。
廊下を歩き出す。
逃げた。
そう思った。
けれど、今あの中へ入っていけるほど、自分はできた人間ではなかった。
胸の奥に残った痛みの正体を、司馬昭はまだ知らない。
ただ、ひとつだけ分かった。
自分は、澪里に謝ることすら、まともにできない男だった。




