19.一陣の風
浅い眠りから目覚めたのは、まだ夜明け前だった。
ぼんやりとした頭のまま瞼を開ければ、薄暗い明かりの中、目の前でジークフリートがディアーヌの髪を指で遊ばせていた。
(え)
途端に、身体中に血が駆け巡る。
急激に覚醒した意識のまま目を見開けば、そのままジークフリートの双眸とかち合った。
「早いな。まだ寝てていい」
「い、いえっ……お、起きます……」
状況はまだ上手く飲み込めなかったが、今日だけは絶対に起きてジークフリートを見送るのだ。
本当ならディアーヌの方が早く起きるはずだったのにと、ほんの少しだけ悔しい気持ちでジークフリートを見やれば、彼はただ優しく微笑んでいる。
(ずるいわ!)
こんな日まで余裕があるなんて。
無意識に拗ねる様に唇を尖らせたディアーヌを見て、ジークフリートは声を上げて笑った。
◇
「おはようございますっ!」
身支度を整えて、いつもより早い朝食を終えた頃、見計らったかの様に爽快な声が邸に響いた。
「おはようディルク」
昨日の表情が抜け落ちた顔など嘘みたいに、いつも通りの朗らかなディルクが、ジークフリートを迎えに来た。
こんな風に今までもきっと、何度も自分の気持ちを押し殺してきたのだろうか。
「妃殿下、しばらく留守にしますけど安心してください!俺の代わりにこいつら置いていきますんで」
そうディアーヌに声をかけると、ディルクは数人の騎士を指し示した。
「ありがとう。でもわたくしの事よりジークフリート様をお守りしてね。それとディルクも、自分を優先して」
本来なら言って良い事ではないのかも知れない。歴戦の騎士相手に。けれどどうしても、言っておきたかったのだ。
これまで接して来た僅かな時間でも、ジークフリートもディルクも、自身の事は後回しにしそうな予感がしたから。
「はい」
ディルクは何度か目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
そうしてディアーヌに礼を執ると、ジークフリートへと向き直る。
「殿下、準備は整ってます」
「わかった」
一言で、ジークフリートの顔つきが変わる。
「参る」
ジークフリートの後を、ディアーヌをはじめ邸に全ての者が後に続く。
玄関ホールの扉を開け、外へと出れば、そこには既に王弟直轄の一団が整列していた。
ジークフリートは一団を一瞥すると、振り返ってディアーヌに向き直った。
「後は任せた。邸のことはエルンストやアンナに聞くと良い」
「はい」
「身体に気をつけて」
「ジークフリート様こそ、どうかご武運をお祈りいたします」
決して泣かないと、ディアーヌは昨夜誓った。絶対に笑顔で見送るのだと。
ジークフリートは物言いたげに、笑顔のディアーヌを見下ろしていた。
けれど、何かを言いかけて開いた唇は、結局そのまま閉じられた。
不意に一陣の風が吹く。
風に煽られたジークフリートの漆黒のマントが大きくはためいて、ディアーヌの視線は無意識にそちらに向いた。
視界が黒に覆われた時、ジークフリートの大きな手がディアーヌの頬に触れた。
(え)
名残惜しむかの様に指先で頬を撫でたかと思えば、ジークフリートの顔が近づいてきて、ほんの一瞬、額に柔らかな温もりを感じた。
(え!)
衝撃の余り硬直してしまったディアーヌの頭上に、ふっと小さな笑い声が降ってくる。
思わず見上げた先にあったのは、ディアーヌのよく知るジークフリートの優しい笑顔だった。
けれどその笑顔を見られたのは一瞬だけで。
すぐに踵を返したジークフリートは、一団に向かって声を上げた。
「出陣!」
地鳴りの様な騎士たちの声の中、ジークフリートは騎乗すると、一度も振り返らずに出立して行った。
ディアーヌはその姿が見えなくなるまでずっと、見送っていた。
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