第10客 エンジンブロー
あれ、いつもの目覚ましと違う。
その呼び出し音が、
電話だと気が付いた。
ヤバイ!寝坊!?
スマホの画面を見ると、
黒川から電話だ。
ちらっと画面上の時刻を見た。
良かった。まだ10時じゃない。
一呼吸おいて通話に出る。
「ヘ~ロ~」
「乙姫!やばい、ちょーやばい」
ただ事でないことがわかる。
時間帯だ。
今は市場に仕入れに行って帰路についているはずだ。
確信的なのは私を乙姫と呼ぶことだ。
言い合いになった時、業務的な連絡をするとき、
てんぱっている時。
「何かあったの?」
そして何より、
彼がやばいと言う時は結構やばい。
「車が…車のエンジンぶっ壊れた」
車?え?
事故…じゃないよなこの言い方だと。
「黒ちゃん今どこなの?」
「市場から出て10分ぐらいの所かな?」
仕入れ帰りか。
歩くととても1時間では無理な距離だ。
「と、とりあえずお店向かうわ!」
「レッカー呼んだからとりあえずそれで大丈夫…だと思う」
レッカーも呼んでいるようだし、
できることがない…。
事の重大さの実感が湧かない。
心臓が跳ねることような感覚も感じない。
そんな足取りでお店につき、鍵を開ける。
とにかく黒川の連絡を待つしかない。
良かった、今日が火曜日で。
冷蔵庫を開ける。
昨日余った昆布締めの刺身が数切れ、
そのほかはちょっとしたおつまみメニューにしか使えない。
仕込めるものがない、手持ち無沙汰。
「ドリンクの発注は昨日みなみがしてたしなぁ」
…
お掃除でもしようかしらね。
普段は任せきりな客席を掃除しようと、
掃除機を抱え3階に上った。
畳のほこりを吸いながらふと部屋を見渡す。
「よくここでお客さんに交じって、
いろいろと遊んでもらったな」
頃合いのシーズンになると、
店のお手伝いをするとお小遣いをくれるお客さんもいた。
建物は古いが、基礎の部分は全然痛んでいない。
所々柱についている傷のうちの何カ所かは、
黒ちゃんとチャンバラしたり、
お姉ちゃんと遊んでつけた傷だ。
物思いにふけていると、
カランカランという音が聞こえた。
1階に戻ると、黒川が立っていた。
「あ!お帰り、車は…」
両手を横に広げて黒川はお手上げポーズ。
「エンジンブロー、オイル漏れしていて、
油膜切れして逝っちまったらしい」
オイル、そういえば最近そんな臭いが気になっていた。
まさかうちの車だったとは…
「うん、十分あの子も頑張ったよね。
20年以上あの車だったかな?」
あの車で海とか山とか連れて行ってもらった。
大型のバンはファミリーカー代わりになっていた。
「あ!そういえば食材は!?」
黒川は肩を落とす。
「レスキューがなんとか運んでくれたんだけどさ、
表に置いてあるよ」
表に置いた発泡スチロールの箱を一通りお店に運んだ。
蓋を開けると。
「あぁ…これは…お客さんに出すのは厳しいね」
今すぐにでも処置して食べたほうがいい。
「こりゃ…」
「今日は営業できないな」
臨時休業と札を貼った。
そして明日はディーラー行きだな。
「え~と、残念なお知らせですが、
うちの車が壊れてしまい市場に行けなくなりました。
本日お店は臨時休業です」
正社員で車を持っている人が一人もいないのは、
こういう時に非常に大きい。
「一応レンタカーの手配は出来たので、
木曜日からはお店開けますが、ちょっとシフト変更かけます」
と言っても、今日の出勤者は、
私と黒川とみどりとあやの4人だけだ。
半分顔ぶれが足りない。
「今日は大掃除をしましょうか。
黒川さんは引き続き使えそうな食材の仕込みと、
賄いをよろしくお願い致します。解散!」
魚はとても出せる物じゃない。
今日は従業員に大盤振る舞い。
まあロスにしたくないだけだ。
18時を過ぎた頃に、
入口をコンコンとノックする音が聞こえてきた。
「乙姫、どうする?ゲンさん来ちゃったよ。奥さんと」
ああ…どうしよう。いいかたまには。
「あやさん、じゃあ招いちゃいましょうか…」
一応私が応対しよう。
「ヘロー乙姫ちゃん、どうしたんじゃ今日は?」
「あ~ゲンさんいらっしゃい。ちょっと大トラブル発生でね、
お店開けられなくなっちゃったのよ…」
でも。
「食材ロスしちゃうの勿体ないし、
ゲンさん食べてく?」
「いいんかの?ラッキーラッキー」
まあ常連だしね。
こんなサービスもたまにはいいでしょう。
「あ、もちろんまかない以外のメニューと、お酒はお金取るからね?」
「ちゃ、ちゃっかりしとるの、あのばーさんそっくり」
そんな会話をしているとまたコンコンと音が鳴る。
あらま、今度はターさんか…まあいっか。招こう。
「どうせ赤字なんだから知ったこっちゃないわ。
散々食べていけばいいのよ。ターさん、こっち座って!」
半ばやけくそで賄は振舞われた。
滅多にカウンターには立たないみどりがゲンさんとお話しているようだ。
「きいてよゲンさん、うちのバカ息子がさ?…」
あの二人が仲良さげに話している姿に違和感がある。
しかしみどりは古株だ。顔見知りなのは当然のことだ。
「みどりちゃんももう40過ぎてるんだもんなぁ。
俺も定年過ぎて年金貰ってるわけだわな」
時の流れとは恐ろしい。
ここにいたらあっという間に私も熟れてしまいそう。
話は進むがそれでも余る大量のおかずを、
従業員同士でタッパーに詰めて分け合った。
スーツを着た人に丁寧に対応されると、
こちらもこんな楽な服装で来てよかったのかと思ってしまう。
「一応リビルドエンジンに載せ替えた時の見積もりです」
リ、リビリビ?
「黒ちゃん、リビルドって何?」
「俺もようわからん…」
テーブルの上を滑ってくる紙の奥のほうを見た。
「え、エンジン載せ替えってやっぱ高いんだなぁ」
黒ちゃんは見積と睨めっこしている。
私には相場なんてわからないが、
表に札が貼ってあった中古の軽自動車は買えてしまう。
ど、どうすればいいってのよ。
「正直申し上げますと、年式も年式なので、
足回り、ミッションとか、
いろいろ修繕が必要になってくる時期かもしれません」
ミッション?
何かの組織?
「確かになぁそう考えると買い替えタイミングってわけだな」
そうなの?黒ちゃん。
「そうですね、本心からそのタイミングだと思います。
一応後継タイプの商用バンの見積もり作ってきたのですが」
なぬ!
鼻の穴からこれでもかと息を吸ってしまった。
「おんちゃん、どうする?」
え~と、残高があれで、
人件費がこれで、
修繕積立がこれで…
って即決できるわけないわよ!
暗算では算出不可能。
「一応軽自動車って選択肢もあるんですけど、
これが見積もりです」
うん。
まだ想像の範囲内だ。
これぐらいの金額が精神衛生上良い。
「軽で乗り切るんかな…」
黒ちゃんは積み込みのシミュレートをしているようだ。
「実車、見てみますか?」
私たちの立ち上がったタイミングはぴったり一致した。
「俺、軽バンの中見るの初めてかもしれない」
「今知ったのよね私。軽バンとかバンって言葉」
うちの車は商用バンだったんだね。
黒川は実際に荷台に乗ったり寝転がったり、
メジャーを借りて寸法を測った。
「おんちゃん、軽バンなめてたわ。すげー」
私も荷台に座ったり立ってみたりした。
「これ車中泊とか余裕じゃん。
これでいいかもしれないよ?」
わからないよぉ!
「黒ちゃんが言うなら、それにかけよう」
これなら私でもみなみでも気軽に運転できる。
まあ黒ちゃんは
「ネタは俺がみねーとダメだからな」
と言うので行かせてもらえないけど。
私だって、魚の脂の乗り方とか、
お肉の脂の広がり方とか見れるんですよーだ。
肝心の車に関しては黒川の一言で即決。
メーカーとかよくわからないし、店から一番近いし。
「ご購入の意、誠にありがとうございます。
どうしましょうか、買い切りか、カーリースか」
カーリース?
「すみませんカーリースって何でしょうか?」
店員さんはパンフレットを開きながら自信満々の笑顔で答える。
「簡単に言うと、月額制でお車を当店から貸し出しいたします。
確かに支払い総額は買い切りより高くなってしまいますが、
事業者さんには思わぬメリットがあったりします」
どういう事だろう。
総額高くなるのに、メリットがあるのだろうか?
「一つは、月々の支払いのご負担が減るので、
資金繰りの選択肢が広がる事です」
なるほど。
「確かに、一気に資産が減ると、
お店の維持管理とか設備投資が難しくなりますね」
黒川は腕を組み目を閉じている。
あれは、なんも考えてないときの黒川だ。
そして二つめと店員がいう。
「お車が資産にならないので、
リース費用が経費として計上ができます」
ほほう!
そんなこともできるんだ!
「なるほど!知らなかったです。
あくまで車は車屋さんの持ち物ってことですね??」
実に良い制度かもしれない。
うちみたいな小さい事業主とは相性がいい。
「それなら、今回は月額制の方向で…」
月額制…
なんだ!?何かを感じる。
「おんちゃん?どったの?」
月払い…サブスク…
サブスクリプション!
人間追いつめられると思わぬところで力が発揮する。
この時、乙姫の中で確かな可能性の種を拾った。
昼カラオケで…
サブスクやるのは…
どうかしら…




