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雨の日だけ会える辺境伯と、晴れを願ってはいけない聖女  作者: 九葉(くずは)


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第2話 晴れを望めば、あなたはいなくなる

 祈りは、昼過ぎまで始められなかった。


 始めなかったのではない。アメリアはそう自分に言い聞かせた。領地の様子を見たいと言ったのは自分だし、ノアもそれを許した。雨を止めるには、まず雨に苦しむ人々を知らなければならない。


 それは正しい。聖女として、少しも間違っていない。


 けれど馬小屋の軒下で外套を留めているあいだ、アメリアは何度も庭先の黒い狼を見てしまった。


 ノアは待っていた。弱い雨の中では人に戻れないのだと聞いていても、金色の目が昨夜と同じだけに、声だけが失われていることが胸に刺さる。


 足元に気をつけろ、と言っただろうか。無理はするな、と言っただろうか。それとも、領民が待っているから急ごうと、自分を急かしただろうか。


「聖女様」


 使用人の女性に呼ばれ、アメリアは我に返った。


「馬車の準備ができております。ただ、道がひどく崩れているところがございますので、ノア様が先導なさるそうです」


「ノア様が?」


「はい。晴れの日も雨の日も、領内を一番よくご存じなのはノア様ですから」


 その声に迷いはなかった。


 狼の姿の領主を、彼らは恥じていない。隠してもいない。変わらず主として敬い、頼りにしている。


 馬車が村へ向かうころ、雨は細く、しつこく降っていた。畑の若い麦は泥に伏せ、道はところどころ崩れている。黒い狼は馬車の前を走り、危ない場所があれば鼻先で御者に示した。


 村人たちは彼を見つけるたびに顔を上げる。


「ノア様、東の橋はまだ危ねえです」


「うちの子も、今日は少し粥を食べました」


 ノアは声のするほうへ耳を向け、頷くように頭を動かす。それだけで、村人たちは安心した顔になる。


 彼は愛されている。だからこそ、きっと苦しいのだ。


 村の集会所では、咳をする子どもたちが火のそばに集められていた。床には濡れた靴の跡がいくつも残り、壁際の洗濯物は重たげに垂れている。アメリアが癒やしの祈りを捧げると、子どもたちの頬に少しずつ血の気が戻った。


 母親たちは涙ぐんで礼を言う。


「聖女様、ありがとうございます。あとは、お日様さえ戻ってくれれば」


 その言葉に、アメリアは笑って頷こうとした。


 けれど、入口の外で雨に打たれている黒い影が見えた。中へ入れば皆が迎えたはずなのに、ノアは濡れた体で子どもたちを冷やさないよう、外で待っていた。


 日差しが戻れば、村は救われる。

 日差しが戻れば、ノアは人の声を失う。


 その二つが同じ場所に置かれていることを、アメリアはどうしても受け入れきれなかった。


 帰り道、雨を含んだ斜面の土が崩れ、細い丸太が流れ出した。近くにいた少年が泥に膝を取られ、母親の悲鳴が雨を裂く。


 御者が馬車を止めるより早く、ノアが走った。丸太が少年へ転がりかけた瞬間、黒い狼は自分の肩でそれを受けた。


「ノア様!」


 狼は一瞬だけ体を揺らしたが、すぐに少年の襟をくわえ、安全な場所まで引きずった。母親が泣きながら子どもを抱きしめる。村人たちが駆け寄るなか、ノアは何でもないというように首を振った。


 けれど右前脚が少し震えているのを、アメリアは見逃さなかった。


「見せてください」


 近づくと、ノアは後ずさる。


「だめです。怪我をしているでしょう」


 彼はさらに一歩下がった。金色の目が困ったように細まる。


 人前で弱っているところを見せたくないのだ。領民の前では、彼はいつでも領主でいなければならない。痛いと鳴くことも、苦しいと告げることもできない姿で。


 だからアメリアは声を落とした。


「怒りません。大げさにも騒ぎません。ですから、少しだけ私に手伝わせてください」


 長い沈黙のあと、ノアは諦めたように前脚を差し出した。


 アメリアは泥で汚れるのも構わず膝をつき、傷を確かめる。深くはない。だが打ちつけた部分が熱を持っている。両手でそっと包み、祈りを流すと、淡い光が雨の中でにじんだ。


「痛かったでしょう」


 返事はない。

 けれどノアの耳が、ほんの少し伏せられた。


「あなたは、何でもない顔をするのがお上手ですね。でも、私はあまり上手ではありません。心配したら、顔に出ます」


 狼の金色の目が、ゆっくり瞬いた。


 夜になり、雨はまた強くなった。


 アメリアが借りている部屋の暖炉に火を入れていると、扉が控えめに叩かれる。返事をすると、人の姿のノアが立っていた。右腕を少し庇っている。


「入っても?」


「もちろんです。ですが、怪我は」


「君のおかげで大したことはない。むしろ少し眠い」


 ノアは困ったように笑った。


 人の姿だと、彼の疲れは隠しきれなかった。雨の日にしか与えられない時間を、眠ることに使うのを惜しんでいるようにも見える。


 アメリアは椅子を勧め、温かい茶を淹れた。ノアは両手で杯を受け取り、しばらく湯気を見ていた。


「昼間は、ありがとう」


「それは私の台詞です。子どもを助けたのはノア様です」


「俺は領主だからな」


「領主でも、痛いものは痛いです」


 踏み込みすぎたと思った。だがノアは怒らなかった。杯を持つ指先を見下ろし、ぽつりとこぼす。


「狼の姿だと、痛いと言う方法が分からない。鳴けば皆が怯えるし、黙っていれば皆が安心する」


 アメリアは返事ができなかった。


「最初は、声を失うのが一番つらいと思っていた。でも違った。つらいのは、自分が平気だと周りに思わせることに慣れていくことだった」


 アメリアは膝の上の手を見た。神殿でも似たようなことは何度もあった。大丈夫ですと笑い続けるうちに、本当はどう感じていたのか、自分でも取り出せなくなる。


「少しだけ、分かります。神殿では、聖女は迷わないものだと言われました。困っている方の前で泣いてはいけないとも。だから私も、ずっと平気な顔をしてきました」


「君が?」


「見えませんか」


「いや。見えていなかったのだと思う」


 その言い方があまりにまっすぐで、アメリアは目を伏せた。責められたわけではないのに、胸の奥にしまっていたものを静かに撫でられた気がした。


 しばらく二人は黙って茶を飲んだ。沈黙は気まずくなかった。雨が代わりに話してくれているようだった。


 やがてノアが、窓の外へ目を向けたまま言った。


「明日、祈るのだろう」


「はい」


「領地には晴れが必要だ」


「分かっています」


「俺にも分かっている」


 その一言のほうが、ずっと痛かった。


 アメリアは顔を上げる。


「ノア様は、寂しくありませんか」


 尋ねてから、あまりに残酷な問いだったと気づいた。寂しいと言えばアメリアを縛る。寂しくないと言えば自分を偽る。


 ノアは長いこと黙っていた。そして、杯を置く。


「寂しいよ」


 声は、とても静かだった。


「雨が強くなると体が戻る。手で本を開けるし、字も書ける。使用人たちに礼も言える。領民の名前を呼べる。君とも、こうして話せる」


 アメリアは息を詰めた。


「けれど、君にそれを言えば、君は祈れなくなるだろう」


 優しさとは、こんなに苦しいものだっただろうか。


 部屋の空気が冷えたのか、アメリアの指先がかすかに震えた。するとノアはそれに気づき、ためらいながら手を伸ばした。


 大きな手が、アメリアの指を包む。


 驚いて顔を上げると、ノアも少し驚いた顔をしていた。自分で触れておきながら、触れた事実に戸惑っている。


「冷えている」


「雨のせいです」


「そうだな」


 彼の手は温かかった。アメリアはその温かさを離したくないと思ってしまった。


 いけない。

 明日、晴れを祈るのに。


 ノアも同じことを思ったのか、すぐに手を離した。


「すまない。雨の日の俺は、少し欲張りになる」


 その言葉に、アメリアの頬が熱くなった。


「私も、少しだけ欲張りです。明日が来なければいいと、ほんの少し思いました」


 ノアは目を伏せる。怒られると思った。聖女がそんなことを口にしてはいけないと、諭されると思った。


 けれど彼は、小さく息を吐いて笑った。


「ありがとう」


「どうして、お礼を」


「俺だけではなかったのだと、思えたから」


 それは、とてもずるい言葉だった。


 ノアは懐から小さなものを取り出した。青い花を押し花にして、細い革紐で留めた栞だった。昨日の朝、彼がくれた雨待ち花と同じ花だ。


「昼間、使用人に作らせた。君が本を読むと聞いたから」


「私に?」


「雨の日にしか咲かない花だ。晴れたら、もうしばらく見られない」


 アメリアはそれを受け取った。薄い花弁は紙の中で眠っているようで、指で触れれば消えてしまいそうだった。


「大切にします」


「晴れたら、俺のことは忘れていい」


 その言葉だけは、どうしても受け取れなかった。


「忘れません」


「忘れてくれたほうが、君は楽だ」


「私は、楽になりたくてここへ来たのではありません」


 思ったより強い声が出た。ノアがわずかに目を見開く。


「私は雨を止めます。領地のために、子どもたちのために、あなたのために。それでも、あなたを忘れることだけはしません。忘れたほうが楽だなんて、勝手に決めないでください」


 ノアは黙っていた。


 やがて、ひどく小さな声で言う。


「困ったな」


「え?」


「そんなことを言われたら、晴れが怖くなくなってしまう」


 アメリアは何も言えなくなった。


 そのとき、神殿で聞いた古い教えを思い出した。聖女の祈りは、ただ天気を変えるだけではない。強く願ったものに、ほんの少し形を与えることがある、と。


 もし本当なら、自分は明日、何を願えばいいのだろう。


 ノアは窓辺へ歩いた。外はまだ雨だ。明日の朝を隠すように降っている。


「この呪いには、君に話していないことがある」


 アメリアの背筋が冷えた。


「雨が続けば、俺は人に戻れる時間を少しずつ失う。いずれ雨の夜でも戻れなくなるかもしれない」


「そんな」


「だから晴れが必要だ。領地にも、俺にも」


 彼は振り返った。金色の瞳に、隠しきれない恐れがあった。


「君が晴れを呼べば、俺は狼のままだ。それでも心までは失わずに済むかもしれない。だが雨を残せば、君と話せる時間は少し延びる代わりに、俺は俺でなくなっていく」


 雨音が、急に残酷なものに変わった。


「どうして、早く言ってくださらなかったのですか」


「君に、俺を選ばせたくなかった」


 アメリアの目に涙が浮かんだ。


 彼はずっとそうだ。自分が苦しいことより、誰かに苦しい選択をさせることを恐れる。だから寂しいと言わず、痛いと言わず、忘れていいと言う。


「それは優しさではありません。私を信じてくださらなかっただけです」


 言ってしまってから、アメリアは唇を押さえた。ひどいことを言ったと思った。けれどノアは怒らず、傷ついたように笑う。


「そうかもしれない。すまない、アメリア」


 初めて、名前を呼ばれた。


 たったそれだけで、涙が一粒落ちた。拭おうとしたが、ノアのほうが早かった。彼は指先でそっと涙を受け止め、すぐに手を引く。


 それ以上触れれば、何かが決壊してしまうと分かっているように。


「明日、君は晴れを祈ってくれ。俺はそれを恨まない」


 アメリアは首を横に振ることも、頷くこともできなかった。


 夜が更けても雨は止まなかった。


 ノアが去ったあと、アメリアは窓辺に立ち、青い花の栞を胸に当てていた。明日になれば祈らなければならない。晴れを呼ばなければならない。そうすれば畑は助かり、子どもたちは外で遊べるようになる。ノアも、完全な獣にならずに済むかもしれない。


 それなのに。

 それでも。


 今だけは、雨が止まないでほしいと思ってしまった。


 アメリアはその夜、初めて雨音を憎み、初めて雨音に縋った。

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