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雨の日だけ会える辺境伯と、晴れを願ってはいけない聖女  作者: 九葉(くずは)


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3/3

第3話 最後の雨と、名前を呼ぶ狼

 朝になっても、雨は降っていた。


 夜の名残を抱えた、重たい雨だった。屋敷の屋根を叩き、窓を濡らし、庭の小道を浅い川に変えている。空は低く、雲は幾重にも重なって、今日という日を隠そうとしているようだった。


 アメリアは寝台の端に座り、膝の上の栞を見つめていた。


 青い雨待ち花。雨の日にしか咲かない花。


 ノアがくれたそれは、薄い紙の中で静かに眠っていた。押し花になっても色は褪せず、夜明け前の空のように淡い。


 今日、晴れを祈る。


 そう決めたはずなのに、胸の奥では何度も同じ声がした。


 もう一日だけ。

 あと一晩だけ。


 雨が強く降れば、ノアは人の姿でいられる。声を聞ける。名前を呼んでもらえる。けれど雨が続けば、彼は彼でなくなっていく。


 アメリアは栞を両手で包み、目を閉じた。神殿で覚えた祈りなら、何ひとつ間違えずに唱えられるはずだった。


 けれど今は、聖女の顔を作ることさえ難しい。


 扉が控えめに叩かれた。


「アメリア」


 その声を聞いた瞬間、胸が痛んだ。


 人の声だった。ノアの声だった。雨がくれた、最後かもしれない声だった。


「はい」


 扉が開く。ノアは黒い上着を着ていた。顔色は悪い。けれど髪も襟元も整えられ、領主として祭壇へ立つ準備をしていた。


「おはようございます、ノア様」


「おはよう、アメリア」


 名前を呼ばれるたび、心が小さく揺れる。


 こんなにも短い言葉を、人はどうして一生分の宝物みたいに受け取ってしまうのだろう。


 ノアは彼女の手元に目を落とした。


「持っていてくれたのか」


「はい。お守りのつもりです」


「雨の日の花なのに?」


「だからです」


 ノアは少しだけ笑った。昨夜より柔らかい笑みだった。


「君は本当に、俺を困らせるのがうまい」


「困らせたいわけではありません」


「分かっている。だから困る」


 二人はしばらく見つめ合った。行かないでほしい。怖い。寂しい。好きです。どれも今日の朝には重すぎた。


 廊下へ出ると、使用人たちが並んでいた。誰も泣いてはいない。けれど皆、息を詰めているような顔をしている。


 年配の使用人がノアの前に進み出る。


「ノア様」


「留守を頼む」


「はい。いつも通りに」


 いつも通りに。


 その言葉で、アメリアは喉が詰まりそうになった。彼らは狼の姿のノアも、いつも通り迎えるつもりなのだ。


 祭壇は、領地を見下ろす丘の上にあった。


 雨でぬかるむ坂道に、村人たちが集まっている。誰もが晴れを待っている。けれど彼らの視線は、アメリアだけに向いているわけではなかった。


「ノア様」


 誰かが呼んだ。


 村人たちは一人、また一人と頭を下げた。深く、長く。感謝と祈りと、どうしようもない別れを込めるように。


「畑は俺たちで立て直します」


「子どもたちも元気になります」


「ですから、ノア様も、どうかご無事で」


 ノアは何も言えなかった。


 まだ人の姿なのに、言葉を失ったように立っていた。


 アメリアはその横顔を見た。彼は自分のせいで皆が苦しんでいると思っていた。けれどこの領地の人々は、彼を責めてなどいない。


 晴れを待ちながら、彼のことも待っている。


 アメリアの胸の奥で、祈りの形が少し変わった。


 雨を止めるだけでは足りない。この人が、自分を呪わずに生きていけるように。


 祭壇に立つと、雨がアメリアの髪を濡らした。白い聖衣の裾は泥を吸い、指先は冷たくかじかんでいる。神殿のように清らかな場所ではない。けれど、ここには暮らしがあった。湿った土の匂いと、隣に立つノアがいた。


 アメリアは振り返った。


「ノア様。私、晴れを祈るのが怖いです」


 正直に言うと、ノアの目が揺れた。


「あなたの声が聞けなくなるのも、名前を呼んだときに返事がないかもしれないのも、怖いです。でも、それでも祈ります。あなたを失うためではありません。あなたがあなたのまま、明日を迎えられるように」


 ノアはゆっくり息を吸う。


「アメリア」


「はい」


「俺は、晴れが来ても君を恨まない」


「知っています」


「だが、君が泣くのは困る」


「困ってください」


 ノアが目を見開く。


 アメリアは泣きながら笑った。


「私も、たくさん困りました。だからノア様も少し困ってください。私は聖女ですが、あなたの前では、ちゃんと泣きます」


 ノアは本当に困った顔をした。


「参ったな。そんなことを言われたら、戻りたくなる」


「戻ってきてください」


「狼でも?」


「狼でも」


「話せなくても?」


「私がたくさん話します」


「返事ができなくても?」


「尻尾でしてください」


 その瞬間、ノアは笑った。小さな笑いだった。けれど雨の朝に、ほんの少しだけ息が戻った。


「祈ってくれ」


「はい」


 アメリアは祭壇に向き直った。


 祈りの言葉は、神殿で覚えたものとは少し違っていた。今日だけは、自分の言葉で祈りたかった。


 雨よ、どうか眠ってください。


 大地に染みた悲しみも、屋根を叩いた不安も、彼の胸に積もった孤独も、すべて抱いて静かに眠ってください。


 空よ、どうか開いてください。


 この地に光を。濡れた畑に熱を。冷えた子どもたちに朝を。


 そして、もし私の力に、ほんの少しだけ余りがあるなら。


 彼から言葉を奪っても、心までは奪わないでください。

 彼が愛されていることを、彼自身が忘れないようにしてください。


 祈りが、胸の奥からあふれた。


 祭壇の石が淡く光る。雨粒が銀の糸のようにきらめき、丘を包んでいた雨の幕がゆっくり薄くなっていく。


 最初の光が差した。


 誰かが息を呑む。


 灰色の雲に裂け目が入り、朝日が落ちてくる。濡れた草が光り、村人たちの顔に温かさが戻っていく。


 雨が、止んだ。


 アメリアは振り返った。


 ノアが立っていた。

 いや、立っていようとしていた。


 彼の輪郭が揺れ、黒い髪が毛並みに変わっていく。伸ばしかけた手が前脚になり、金色の瞳だけを残して、人の姿が光の中で遠ざかる。


「ノア様!」


 呼ばずにはいられなかった。


 黒い狼が、彼女の前にいた。


 人の言葉を失った口。けれど金色の瞳は、昨夜も今朝も変わらないまま、まっすぐアメリアを見ている。


 アメリアは震える手を伸ばした。狼は逃げなかった。額に触れると、温かかった。生きている。ここにいる。姿は変わっても、彼は消えていない。


「ノア様。私は、あなたを忘れません。雨の日だけでなく、晴れの日にも、何度でもあなたの名前を呼びます」


 狼は目を閉じた。


 その姿を見た瞬間、アメリアの中で何かがほどけた。聖女として押し込めてきたものが、堰を切ったようにあふれ出す。


 アメリアは黒い狼の首に腕を回した。


「好きです」


 言ってしまった。


 雨の日の夜にではなく、晴れた朝に。人の姿の彼にではなく、狼の姿の彼に。


「あなたが人の姿だからではありません。痛いのを隠してしまうところも、寂しいのに平気なふりをするところも、誰かを困らせないように自分だけ困るところも、全部ひっくるめて、私はあなたが好きです」


 村人たちがいる。使用人たちも見ている。聖女として、あまりに無防備な告白だった。


 それでも止められなかった。


「だから、もう忘れていいなんて思わないでください。私は楽になりたいんじゃありません。あなたのそばにいたいんです」


 黒い狼の体が、かすかに震えた。


 狼が口を開く。


 息だけが漏れた。

 言葉にはならない。


「ノア様、無理をしないで」


 言いかけたアメリアの手に、狼がそっと鼻先を押しつけた。待ってくれ、と言うように。


 そして、晴れた丘の上で。

 雨の止んだ空の下で。


 黒い狼は、たどたどしく彼女の名を呼んだ。


「ア……メ、リア」


 世界が、静かになった。


 聞き間違いではない。夢でもない。人の声とは違う、低く掠れた、不格好な声。けれどそれは確かに、彼が彼女を呼ぶ声だった。


「もう一度」


 アメリアは泣きながら笑った。


「もう一度、呼んでください」


 狼は少し困った顔をした。それから、尾を小さく揺らして、もう一度口を開く。


「アメリア」


 今度は、少しだけはっきりしていた。


 村人たちの間から歓声が上がった。泣き出す者もいた。子どもたちは何が起きたのか分からないまま笑っていた。


 雨は止んだ。

 ノアは人には戻らなかった。

 呪いがすべて解けたわけではない。


 けれど彼は、晴れの日に彼女の名を呼んだ。


 それだけで、世界は昨日とは違っていた。


 数日後、王都から帰還を命じる手紙が届いた。


 手紙を読んだ日、アメリアは晴れた庭にいた。隣には黒い狼のノアが座っている。彼は少しずつ言葉を取り戻していたが、長く話すと疲れてしまう。


 アメリアは手紙をたたみ、膝の上に置いた。


「王都へ戻るように、と」


 ノアは何も言わなかった。ただ、金色の瞳で彼女を見る。


 その目があまりに静かだったので、アメリアは少し怒りたくなった。


「また、私が楽なほうを選べるように黙っているのですか」


 狼の耳がぴくりと動く。


「ノア様」


「……困る」


 掠れた声だった。


「え?」


 狼は顔をそむけた。けれど声は、確かに続いた。


「行ったら、困る」


 それは、彼にとって、とても勇気のいる言葉だった。


 寂しいと言わず、痛いと言わず、忘れていいと言った人が、初めて自分のために困ると言った。


 アメリアは手紙を胸に抱いたまま、ゆっくり笑った。


「はい。困ってください」


 ノアがこちらを見る。


「私も困ります。王都に戻れば静かな部屋も温かな食事もあります。でも、ここにはあなたがいます」


 アメリアは手紙を破らなかった。そんな乱暴なことをしなくてもよかった。彼女はもう、命じられるだけの聖女ではない。


「王都には返事を書きます。辺境領には聖女の力がまだ必要です、と」


「嘘だ」


「少しだけ本当です。畑の回復には祈りが必要でしょう?」


 ノアはじっとアメリアを見る。


 アメリアは、少し頬を赤らめながら続けた。


「それから、辺境伯にも私が必要です」


 狼の耳が、今度ははっきり立った。


「必要だと言ってください。そうしたら残ります」


 ノアは口を開いた。言葉はすぐには出てこない。喉の奥で何度も揺れ、形を探すように震える。アメリアは急かさなかった。


 やがて、ノアは低く掠れた声で言った。


「必要だ」


 アメリアの目に、また涙が浮かぶ。


「アメリアが、必要だ」


「はい」


「そばに、いてほしい」


 最後の言葉は、ほとんど吐息だった。


 けれどアメリアには十分だった。


「喜んで」


 晴れた庭で、黒い狼の尻尾が遠慮がちに揺れた。


 そしてその翌朝。


 雨は降っていない。庭には光が満ちている。アメリアは書庫で読んでいた本に、青い花の栞を挟んで外へ出た。


 隣には黒い狼のノアが歩いている。


 彼はまだ流暢には話せない。

 けれど、彼女の名だけはもう間違えなかった。


「アメリア」


「はい、ノア様」


 呼ばれるたび、胸が温かくなる。何度聞いても、初めて聞いた朝のように。


 ノアは晴れた庭の真ん中で立ち止まり、空を見上げた。アメリアもつられて顔を上げる。


 そこに、虹があった。


 雨上がりではない。それなのに、淡い七色が空の端にかかっている。


「君の、せいだ」


「私の?」


「嬉しいと、空まで変える」


「そんな力はありません」


「ある」


 ノアは真面目な顔で言い切った。


 アメリアはこらえきれずに笑った。


「では、困りましたね。これからこの領地は、晴れの日にも虹が出てしまいます」


「悪くない」


 黒い狼がそっと鼻先を寄せる。アメリアはその額に触れた。


 雨の日だけの恋だと思っていた。

 晴れを願えば終わってしまう恋だと思っていた。


 けれど彼は、晴れた朝に何度でも私を呼ぶ。


「アメリア」


「はい」


 もう一度呼ばれて、アメリアは笑った。


「今日は雨ではありませんよ、ノア様」


 黒い狼は、少し誇らしげに尻尾を揺らした。


 その空には、雨上がりではない虹が、いつまでもやさしく光っていた。

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