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雨の日だけ会える辺境伯と、晴れを願ってはいけない聖女  作者: 九葉(くずは)


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第1話 雨の夜、狼は紳士になる

 聖女アメリアが辺境伯領に着いた日、空はひどく低かった。


 馬車の窓を叩く雨は、王都を出た朝から弱まらない。道はぬかるみ、車輪は何度も泥に取られた。御者が小さく息を吐くたび、アメリアは膝の上で組んだ指に力を込めた。


 ここへ来たのは、雨を止めるためだった。


 辺境伯領では、ひと月近く雨が続いている。畑は水を吸いすぎ、干し草は乾かず、子どもたちの咳も増えているという。神殿に届いた嘆願書には、祈る相手が神なのか聖女なのかも分からなくなったような、震えた字が並んでいた。


 だからアメリアは来た。

 聖女として。雨を止める力を持つ者として。


 馬車が辺境伯邸の門をくぐると、古い石壁に絡む蔦が雨に濡れて光っていた。窓には明かりが灯り、冷たい空の下で、そこだけが人の暮らしを抱いているように見える。


「聖女様、長旅お疲れさまでございました。足元が滑りますので、お気をつけくださいませ」


 扉の外から、使用人らしき女性の声がした。アメリアが礼を言って降りようとした、そのときだった。


 低く、喉の奥で転がるような唸りが聞こえた。


 馬車の脇、雨に濡れた石畳の上に、黒い狼が立っていた。王都の絵本に出てくる獣より、ずっと大きい。濡れた毛並みは夜をそのまま編んだように黒く、金色の瞳だけが静かに光っている。


 逃げなければ、と頭のどこかが叫んだ。

 けれど足は動かなかった。狼の目に、飢えも敵意もなかったからだ。むしろ彼は、アメリアが怯えたことに気づいたように、ほんの少し耳を伏せた。


「ノア様、聖女様が驚いておいでです」


 使用人の女性が、困ったように狼へ言った。


「ノア様?」


「はい。こちらが、辺境伯ノア・エルヴェ様でございます」


 雨音が遠くなった気がした。


 王都で聞かされた話には、呪いを受けているとはあった。晴れの日は狼の姿になり、雨の日だけ人に戻る。ただし雨が降れば必ず戻れるわけではなく、空に十分な水気が満ちる強い雨の夜だけ、彼は人の姿を取り戻すのだという。


 けれどアメリアは、どこかで勝手に考えていた。屋敷の奥で静かに伏せっているのだろうと。人目を避け、ただ雨を待っているのだろうと。


 目の前の狼は、違った。


 彼はゆっくり近づき、馬車の足元に落ちかけていた旅行鞄を口でくわえた。牙が革に触れたのに、鞄には傷ひとつつかない。玄関先まで運ぶと、濡れた石畳の上にそっと置く。


 そして振り返り、まるで「どうぞ」と言うように首を少し傾けた。


 その仕草があまりに自然で、あまりに礼儀正しくて、アメリアは怖がっていた自分が恥ずかしくなった。姿だけで相手を決めつけたのだ。


「失礼いたしました、ノア様。アメリア・リュシエンと申します。王都より参りました」


 雨の中、ドレスの裾を摘まんで礼をする。


 狼はしばらく彼女を見つめていた。金色の瞳の奥で何かが静かに揺れた気がしたが、それが何なのか、アメリアにはまだ分からなかった。


 屋敷の中へ入ると、暖炉の火がぱちぱちと鳴っていた。冷えた体に、乾いた木の匂いが染みていく。使用人たちが濡れた外套を預かる間も、黒い狼は少し離れた場所でじっと待っていた。


 彼はアメリアの泥で汚れた靴を見下ろし、そばにいた少年の使用人へ視線を向ける。少年は慣れた様子で頷き、替えの室内靴を持ってきた。


「ノア様は、いつもこのように?」


「はい。お声が出ない日は、目で何でもお命じになります。慣れますと、なかなか分かりやすい方です」


 その声には恐れではなく、親しみがあった。


 アメリアは暖炉の前に座る狼を見る。彼は濡れた尾を床につけないよう器用に丸めていた。敷物を汚さないようにしているらしい。


 狼なのに。

 いや、違う。

 狼の姿をしているだけで、この方は領主なのだ。


 夕食の席に、ノアは現れなかった。雨はまだ細く、彼が人へ戻るには足りないらしい。アメリアは温かなスープを口に運びながら、自分の胸に重たいものが積もっていくのを感じていた。


 自分はこの雨を止めるために来た。領民のためにも、それが正しい。けれど雨が止めば、あの金色の瞳の領主は、もう人の言葉で礼を言うこともできなくなる。


 そんなことを考えてしまうのは、聖女として間違っているのだろうか。


 夜更け、雨が激しくなった。


 屋敷の屋根を叩く音が深くなり、廊下の窓硝子が細かく震え始める。部屋に案内される途中だったアメリアは、階段の下で足を止めた。


 玄関広間に、黒い髪の青年が立っていた。


 濡れたように艶のある髪が額にかかり、肩には簡素な上着を羽織っている。背は高く、整った顔立ちの奥に、長く眠れていない人の影があった。金色の瞳がこちらを見た瞬間、アメリアは息を飲む。


 あの狼と同じ目だった。


「……ノア様」


「夜分にすまない。雨が強くなったので、ようやくまともに挨拶ができる」


 声は低く、穏やかだった。聞く人を落ち着かせる声なのに、言葉の端に長い諦めが滲んでいる。


「こちらこそ、先ほどは大変失礼いたしました。私、驚いてしまって」


「当然だ。馬車を降りた途端に狼がいたら、俺でも驚く」


 ノアはわずかに笑った。誰かを安心させるために覚えたような笑みだった。


「王都から遠かっただろう。道も悪い。疲れているはずだ」


「平気です。雨を止めるために来ましたから」


 言ったあとで、アメリアは自分の言葉が鋭く響いたことに気づいた。


 ノアは表情を変えなかった。ただ、ほんの少しだけ目を伏せる。


「それでいい。君は正しい」


 優しい声だった。

 なのにアメリアは、叱られたときより苦しくなった。


「この領地には晴れが必要だ。畑も、家畜も、子どもたちも限界が近い。君の力を借りられるなら、心から感謝する」


「ですが、雨が止めばノア様は」


「狼に戻る。けれど死ぬわけではない。耳は聞こえるし、目も見える。領内を走るには、むしろ便利なこともある」


 冗談めかして言ったつもりなのだろう。けれどアメリアは笑えなかった。


「言葉は?」


 思わず尋ねていた。


「失う」


 それきり、二人の間に雨音だけが残った。


 アメリアは慰めの言葉を探した。神殿で教わった祈りの文句も、悲しむ人へかける模範的な言葉も、いくつも浮かんだ。けれど、どれもノアに向けるには薄かった。


 この人は、そんな言葉を何度も受け取ってきたのだろう。そのたびに礼を言い、笑って、次の晴れの日には声を失ってきたのだ。


「私は、明日の朝から祈りの準備を始めます。けれどその前に、領地を見せていただけますか。雨を止めるべき場所を、自分の目で見たいのです」


 ノアは少し驚いたようだった。


「聖女は、祭壇で祈るだけだと思っていた」


「王都の人たちは、そう思いたがります」


 そんな皮肉を口にした自分に、アメリアは少し驚いた。


 ノアの目元が、わずかに緩む。


「では明日、案内しよう。俺がこの姿でいられれば、だが」


「狼のお姿でも構いません」


「君は変わっているな」


「よく言われます」


「それは褒め言葉として受け取ってくれ」


 別れ際、ノアはアメリアの部屋まで送ってくれた。廊下の窓から吹き込む風に彼女が肩を震わせると、彼は無言で上着を脱ぎ、彼女の肩へかける。


 濡れた森と、かすかな暖炉の匂いがした。


「ノア様、これは」


「客人を冷やしたとなれば、使用人たちに叱られる」


 また、誰かを安心させる言い方だった。


「ありがとうございます」


「こちらこそ、来てくれてありがとう」


 その言葉は礼儀正しく、静かで、少しだけ寂しかった。


 翌朝、雨は弱まっていた。


 庭へ出ると、人の姿のノアはいなかった。代わりに黒い狼が、雨粒をまとって座っている。彼はアメリアに気づくと近づき、口にくわえていたものを石畳の上へ置いた。


 青い花だった。


 雨に濡れても萎れず、むしろ雨粒を抱いて光る、小さな花。花弁は薄く透けていて、曇り空の下でもかすかに青く灯って見えた。


「これは?」


「雨待ち花です。この土地では、雨の日にしか咲きません」


 使用人の女性が後ろから教えてくれた。


 雨の日にしか咲かない花。


 昨夜なら、彼は何か言えたのだろうか。ようこそ、と。無理をしないでくれ、と。それとも、早く晴れを呼んでくれ、と。


 言葉にできない朝が、彼には何度あったのだろう。


「ありがとうございます、ノア様。大切にします」


 狼は少しだけ目を細めた。笑ったように見えた。


 その瞬間、雲の切れ間から淡い光が差した。雨はまだ降っている。けれど、晴れの気配が近づいている。


 領民たちは待っている。畑も、子どもたちも、冷えた家々も、この光を待っている。


 アメリアは祈りの祭壇へ向かわなければならなかった。


 なのに、足元には雨の日だけ咲く花がある。目の前には、晴れれば声を失う人がいる。


 晴れを祈るはずの唇が、その朝だけは、どうしても動かなかった。

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