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8-4ご令嬢はいっそ消えてなくなりたい

セナの王国へ帰るだの帰らないだのの騒動の後一週間が経った。

セナのお見舞いに、ジャスミンとレティが部屋にやってきた。


「あらあらあらあら、こんな……」


ジャスミンは、髪が短くなってしまったセナを見て、口元を押さえて絶句した。


「ばっさりいかれちゃったわね」


レティはセナの頭を撫でながら、そう哀れむように言う。セナは、あはは…、と苦笑する。

セナの脱走事件については、フェンリルの方から、セナの大事にしていた髪飾りを突然飛んできた鳥に盗まれて、それを追いかけるうちに森に迷い込んでしまった、という説明がなされたようだった。

ラビからその話を聞かされたとき、そんなファンタジーを誰が信じるの…、と呟いた。するとラビは、誰も信じてないし、陛下も信じさせようとはしてないよ、と言った。この件はこちらで片付けたから深追いするなとフェンリルは周りに圧をかけているらしく、それについて誰も何も言えないらしい。

自分を庇うためだとわかればセナはかなり肩身が狭くなった。そんなセナにラビは、絶対権力者とはいえ、こんな無茶苦茶なことばっかりさせるとさすがの陛下も負担だからね、と釘を刺した。


「…でも、私は髪だけで済んだけど、フェンリル陛下とヴァーリ殿下には重傷を負わせてしまって…」

「それも無事治ったんだからもういいじゃない」


ね、と慰めるようにレティは微笑む。そんなレティに、そういえばあなた、よかったわね、とジャスミンが微笑む。


「ヴァーリ殿下との番を解かれたんでしょう?これまでの数多の悪行により、皇帝権限で、よね。よかったわね、これで暴力を振るわれなくて済むから」


ジャスミンは安心したようにレティを微笑む。レティはそんな彼女を見つめて一瞬固まった後、作り笑いのようにぎこちなく笑う。セナはレティをじっと見つめる。


ヴァーリは結局、今回の脱走については、迷い込んだセナを助けるためだった、という部分を認められ、怪我が治り次第、牢での幽閉を解かれることになったらしい。ただ、今後一切新しい番関係を結ぶことは禁じる、という制約付きではある。

その上、ディノの一族が治める辺境地への配属が決まったようだ。この城では有名無実と化していた彼に、少しとは言え仕事が割り振られた形になる。


「(…彼は、レティを頼んだと私に言っていた。…番としての関係を解かれた彼女の心配を、彼はしているというのだろうか…)」

「ああいうのとは離れたほうがいい。一緒にいたら駄目になる。ずっと勝手に心配してたの。本当に良かったわね、レティ。私、彼の番だった女性たちにたくさん会ったけど、みんな泣きながら喜んでたわ。もうほんっとうによかった!」


ジャスミンが安堵のため息をつきながらまた微笑む。レティはまたぎこちなく笑う。その笑顔に、セナは一瞬息が止まる。


「(…もしかして、レティはヴァーリのことを…)」

「…ヴァーリ殿下、また悪さをしやしないかしら。昔からずっと、陛下への恨み言ばっかりだったのに。あんなにお城から遠いところだったら、陛下の監視の目が届かないんじゃない?」


レティは無理に笑いながら言う。するとジャスミンが、あら、と眉をひそめた。


「殿下が行くのはディノの家よ?とっても優秀な一族があの地を取り仕切ってる。ヴァーリ殿下の好きになんかさせるもんですか。…それに、」


ジャスミンは小さく息をつく。


「…殿下がディノと今回の引っ越しの件で話をしているところを見たけれど、…なんだかすっかり牙を抜かれた様子だったわ。あの感じなら、…もうこれまでのようなことはしないんじゃないかしら」

「…」


レティはジャスミンを見つめて固まる。そして目を伏せて、…そう、と静かに呟いた。セナは彼女をじっと見つめる。レティはセナの視線に気がつくと、にこりと微笑んだ。


「それじゃあ私、そろそろ行こうかしら」


レティはそう言って微笑んだ。ジャスミンは、あらもう?と首を傾げた。セナは、お茶も出せずに…、と慌てる。レティは、ううん、と頭を振る。


「ちょっと、…用事がね」


レティはそう言って目を細める。その瞳には涙が滲んでいる。ジャスミンははっとすると、そうなのね、と慌てて返した。レティは、お邪魔しました、と言うと、背中を向けて去っていった。


「…ヴァーリ殿下のことが、本当に好きだったのかな…」


セナは血の気が引きながらジャスミンに尋ねた。ジャスミンは腕を組んで、うーん…、と唸る。


「…だとしても、…あの男からは離れたほうがいい。絶対に」


ジャスミンの言葉を呆然とセナが聞いていたら、扉が開いて、お茶の準備をしたベイズが入ってきた。ジャスミンは、わあ、と嬉しそうにベイズの持ってきたお茶菓子を眺めた。セナはその様子を一瞬ぼんやりと見つめた後、ありがとう、とベイズに微笑んだ。













中庭にて、セナはベンチに座ってぼんやりと空を眺めていた。ふとしたときに、レティのあの表情が浮かんで心が痛む。


「(…そもそも、ヴァーリ殿下が番関係を解消させられたのは勝手に部屋に行った私のせいだし、番を一生作れなくなったのも、お城から逃げ出した私のせいだし…)」


セナは頭を抱える。セナがヴァーリの部屋に入ったことは、ヴァーリがセナを無理やり連れ込んだという事になっている。せめてヴァーリの名誉のためにそこの訂正をしたいのだけれど、それは駄目だとラビに固く止められていた。彼曰く、ヴァーリ殿下が証言している以上それが事実になるし、そこに理由のわからない人間が反対のことを言ったら混乱する。ここでグダグダしたら、この城の多数を占めるヴァーリ殿下反対派の怒りに触れる。


ーーそれに、ヴァーリ殿下は僕に、゛レティを頼む゛ってセナへの伝言を頼んだんだ。…彼は、この城に敵が多すぎる自分では彼女を救えないってわかってたんだよ。だから君の潔白を示して、代わりに君に彼女を託したんだ。そういう事情を汲まずに、真実だけに固執すると、悪い方にことは進むよ。



ラビの言葉を思い出しながら、セナは両手で顔を覆い、深い溜息をつく。


「(…わかってる、わかってるわよでも、とんでもない罪悪感…。レティからしたら、好きな人に濡れ衣を着せられて、かつ、番関係を解消させられて、しかも二度と番同士にはなれなくさせられたのよ…?)」


セナは罪悪感から顔が青くなる。ジャスミンの、あんな男とは離れたほうがいい、という言葉が浮かぶがしかし、そんなのは他所から言われて当人が納得できるものではないことはセナでもわかりきっている。


「(…私にわざわざレティを頼むって言ってきたってことは、ヴァーリも彼女に特別な思いがあったんだろうし…。あああ私は極悪人よ…最低最悪の女よ……)」

「セナ」


声がして、セナは、はっと顔を上げた。するとそこには、前に会ったときよりもさらに包帯の数が減ったフェンリルがいた。セナは、陛下…、と言うと立ち上がった。フェンリルはベンチに腰掛けると、セナも座って、と声をかけた。セナは一瞬戸惑ったものの、彼の隣に恐る恐る腰掛けた。そんなセナに、フェンリルは小さく笑う。


「…なんだか、そこまで態度が変わると落ち着かないな」

 

セナは、ええっと…、と気まずさと恥ずかしさから身を縮こませる。あの頃はとにかく嫌われようと、一国の王にあんまりな態度ばかり取っていた。そのころの自分のことを思い起こして、申し訳なさから地面に埋もれたくなる。

目を泳がせて、あの頃は本当に申し訳ないことを…、と謝罪するセナを、隣に座るフェンリルは優しい瞳で見つめる。


「…ところで、何を悩んでいたんだ?」

「え?」

「今も青い顔をしている」


フェンリルはセナの顔を見つめて尋ねる。セナは、えっと、えっと…、と、挙動不審でいたあと、意を決して、あの、とフェンリルの方を見た。


「ヴァーリ殿下のことで…」

「ヴァーリ兄さんの?」

「あの、その…、新しく番を作ることを禁止、っていうのを、取り消しにできませんか?幽閉が解かれたのは本当に良かったのですが、でも、一から十まで私が悪いわけで、それなのにそこまでしたら…、申し訳なくて…いたたまれなくて…。それにどうやら、彼に想いを寄せる女性がいて、その方に面目ないと言うか…。私を部屋に連れ込んだっていう濡れ衣まで着せられてしまっているし…」


セナは、目に涙を浮かべたレティの顔を思い出しながら、背中に冷や汗を大量に流してフェンリルに訴えた。フェンリルはそんなセナをじっと見つめて、しばらく黙り込んだ。長い沈黙のあと、フェンリルはゆっくり口を開いた。


「…番の禁止事項は、兄さんから申し出たんだ」

「え…?」


セナは目を丸くする。フェンリルは空を見上げてから、目を伏せた。


「…俺が皇帝になってから兄さんはずっと、俺に復讐しようと躍起になってた。でも、全てが実にならず、復讐は遂げられず、…その失敗が積み重なる中で、おそらく彼は疲れ果てていたんだ。番のことを禁止されれば、自分の跡取りを次の皇帝にと望むことが強制的にできなくなる。復讐の望みを自ら断ち切ることで、もう楽になりたかったんだと思う」


セナはそう話す、どこか悲しそうなフェンリルの横顔を見つめる。フェンリルはセナの方を見た


「セナが兄さんの部屋に行ったことで下された処分については、ほとぼりが冷めたら兄さんを幽閉から解放するつもりだった。あの時はとにかく、兄さんを排除したい勢力が煩くて、それを鎮める必要があったんだ」

「…そう、だったんですか…」

「兄さんが牢から脱走したのも、結果的にはセナを助けた勲章がついた。そのおかげで俺は、兄さんの幽閉を早く解くことができたし、ここにいるよりずっと実権を兄さんに持たせてやることができた。兄さんからしたらかなりの重傷を負ったけれど、不幸中の幸い、だな」


セナは、フェンリルから知らされた話に、自分の罪がほんの少しだけ許されたような気持ちになる。がしかし、それ以上の罪悪感に相変わらず押しつぶされる。


「…陛下はヴァーリ殿下に色々されてきたのに、なんだかずいぶん…寛大ですね」


セナはぽつりと尋ねる。フェンリルは、ん?と軽く首を傾げ、そして、小さく口元を緩めた。


「昔は、とても優しい兄だったんだ。次期皇帝の争いが起こるまでは。…あの頃の兄さんを、俺は忘れられないんだ」


フェンリルはどこか寂しそうな瞳で言う。セナはそんな彼を見つめて目を伏せる。


「…私、殿下に頼まれたんです。レティを頼むって」

「……」

「…私、レティの新しい結婚相手…番を探します。血眼になって」


セナはそう意気込む。自分が彼と彼女にできる償いはきっと、これだけなのだとセナは思う。

フェンリルはそんなセナに少し目を丸くした後、小さく微笑んだ。


「…俺も協力しよう。レティに良い相手がいないか当たってみる」

「ありがとうございます。私、頑張って探します!」


快く手伝うことを申し出てくれたフェンリルを見つめながら、セナは、心強い気持ちになる。

フェンリルはセナを優しい瞳で見つめた後、それで、と切り出した。


「それで、セナは?」

「え?」


セナはフェンリルの方を見て首を傾げた。フェンリルは、復讐だ、と言った。セナは、目を丸くして息が止まった。


「ふ、復讐…」

「もう諦めたのか?それとも、まだ何か企んでいるのか?」

「い、いえ、私は……」 


セナは両手を振るが、しかし、王国でのうのうと幸せに生きているやつらの顔が浮かび、額に青筋が立つ。セナは、腹の底から沸き上がる怒りによって、両手に力が入る。


「…腹は立ってます、本当に、もう、めちゃくちゃ!」


セナは、ふん、と鼻で息をして怒りを少しでも外に出そうとする。フェンリルは瞬きを繰り返してセナを見つめる。セナは必死の形相でフェンリルに訴えかけた。


「聞いてください!私の実家、私がいたときは王家の血筋のわりにものすごく小さな家だったのに、私を帝国に献上したお礼に国王からたんまり報酬をもらって、それを元手にビジネスを成功させて、ちゃっかり家をとっても大きくしてるんです!おうちには広い庭があって、そこに大型犬を2匹も飼ってるんです!仲良くしてた姫は、優しくしてくれた裏で、私をものすごく馬鹿にしていたんです!そんな彼女、隣国に嫁ぐのすっごく嫌がってたのに、嫁ぎ先が本当にいい人たちばっかりだったみたいで、それはもう幸せにしてるみたいなんです!それからアレックス…、私に思わせぶりなこと言って気持ちをもてあそんできた男なんて、結婚した人との間にもう子供が生まれたんです!それからウィズ殿下!めっちゃくちゃ素敵な人と結婚するらしいんです…!私もお会いしたことある方なんですけど、知的で、でも気取ってなんかなくてお話すると楽しくて、見た目だってとっても麗しくて…。そんな方と結婚したら幸せになるに決まってる…!当たり前に幸せになるに決まってる…!本当に恨めしいです憎いです!私に嫌な思いをさせてきた周りの人たちばっかり幸せになっていくのを眺めているのが…!」


セナは言い終わると肩で息をした。フェンリルはそんなセナの肩を支えて、だ、大丈夫か…、と、流石に少し引き気味で心配した。

セナはぜいぜいと息を切らしながら、唇を固く結んだ。そして、目を伏せた。


「でも、」


セナは握りしめた拳を緩めた。小さく息を吐いて、唇を噛み締めた。怒りによって体は疲弊していて、ああヴァーリはこんな気持ちだったのかと理解した。


「でも本当は、誰のことも恨みたくなんかない。相手の幸せに対して素直に、おめでとうって、良かったねって、そう言いたい。言えるようになりたい。幸せそうな周りのことを眺めて、恨めしく思っているのはもう、疲れた」


セナはそう言うと自虐的に笑った。


「ずっと、20年も閉じ込められて、なんで自分ばっかりって、被害者意識でいたんです。でもよくよく考えたら、いや考えなくても、王家の人間が国のために何かをするのは当然のことで。…それになにより、私の復讐のために、陛下やヴァーリやレティや、ラビも、ベイズも…、他にもたくさんの人に迷惑をかけた。もうこんなことしたくないって、そう思うようになったんです」


そう言うと、セナは空を見上げた。生まれて初めて見上げたあの日の空を思い出す。際限ないほど高く、そして青かった空を。涙が出るほど美しかったあの景色を。


「…まあ、自分を笑ってきたような人たちとわざわざ無理に関わりたくはない、ですけど。おめでとうっ、て言うにも遠巻きでいいんですけど」


セナはそう付け足す。そんなセナに、フェンリルは小さく吹き出す。セナは笑うフェンリルの横顔を見つめて、つられるように微笑んだ。

フェンリルはセナの目を見て、なら、と言った。


「祖国のことは忘れて、君はここで幸せになったらいい。もとよりそうするつもりだった」

「え、え?」

「したいことはないのか?欲しいものは?書き出すなりなんなりして俺に教えてほしい。可能な限り叶えてやる」

「いや…え?」

「そういえば君、前に言っていたな。素敵なところに出かけて…」

「あのあのあの!あの!…何度も聞きますけど、本当に人違いじゃないですか?」


セナは疑わしそうにフェンリルを見る。フェンリルは一瞬きょとんとしたあと、いいや、と真面目に返した。そんなフェンリルに、む、とセナは眉をひそめる。


「…本当にですか?ここから、実は人違いでした、どうぞお帰りください、とかだったら悲惨なんですが…」

「…万が一勘違いだったとしても、ここまで言ったのだから最後まで責任を取るよ」

「いや…」


セナは怪訝そうに眉をひそめる。フェンリルは、らしくなく目を泳がせた後、またセナの方を見た。そして、短くなったセナの髪を彼女の耳にかけた。


「短いのも君によく似合っている。綺麗だ」


フェンリルはそう、セナの目を見て微笑んだ。セナは突然のことに頬の熱が上がるが、しかし、何かを誤魔化されたと察する。


「(…何?何か隠している…??)」

「陛下、お時間です」


犬の獣人がフェンリルを呼びに来た。フェンリルは、今行く、と返事をすると、改めてセナの方を見て、彼女の頬に手を当てた。


「また後で」


フェンリルはそう言うと、犬の獣人の方に向かった。セナは、解せない顔で彼の背中を見送った。















そんな話があった数日後、セナは今日も、レティの新しい婚約者について考えていた。


「(…そもそも私に人脈がない…。ジャスミンなんて、顔が広そうだし相談したら助けてくれるかしら…)…あれ?」


突然扉が開いて、そこから小さな黒い犬が入ってきた。セナは、ぶーちゃん?と声をかけてから犬のもとに向かった。しゃがんで犬を抱き上げると、セナは頬擦りをした。


「なんだか久しぶりね。どこにいたの?」


セナは腕にぶーちゃんを抱きかかえると、先ほどまで座っていたソファーに今一度腰かけた。膝のうえに犬を乗せたとき、セナは、あれ、と声をもらした。犬の前足を優しく手で持つと、肉球のあたり指でをなぞった。


「爪を切ってもらったの?よかったね」


セナは顔の周りを微笑みながら撫でる。やはり城の中に飼い主がいるのだろうか、と考えた後、セナはまたレティの婚約者について頭を悩ませ始めた。


すると、ノックのあと扉が開いて、笑顔のジャスミンと、猫背のディノがやってきた。

セナは犬を抱いたまま立ち上がり、ジャスミン、ディノ、と彼らを呼んだ。


「ごきげんよう、セナ」


ジャスミンは笑顔でセナに近づいた後、セナの腕の中にいる子犬をみて、あら、と呟いた。


「あなたもここにいたの?」


ジャスミンの様子に、セナは、え、と声を漏らす。


「ジャスミン、この子を知っているの?」

「えっ、え?知ってるも何も…」

「セナ、フェンリルから頼まれた、ヴァーリ殿下の元番、レティの新しい番相手の候補リストを持ってきたよ」


ディノはそう言ってセナに紙の束を渡した。セナは、え?と驚く。


「も、もう?」

「他にもタスクは山ほどあるけど、皇帝陛下の命令は絶対だから」


ディノはそう淡々と、セナの目線より少し下の方を見ながら言う。伸びすぎた前髪の下から少しだけ見える眼鏡の奥の瞳では、彼の感情がよくわからず、セナは戸惑いながら、あの、お忙しいところありがとうございました…、と頭を下げた。


セナはリストの分厚さを眺めながら、お、おお…、と感嘆のため息を漏らす。ジャスミンは、本当に大変だったんだから、と、セナの腕にいるぶーちゃんのほうを見ながら話しかけた。


「一度、誰かと番関係を持ったことがあると、本っ当に、次の相手って見つからないのよ!皇帝陛下直々のお達しがあっても、なかなかの難問よ?おかげでディノはここ連日寝不足よ」


ジャスミンが少し嫌味のような言い方でぶーちゃんに語りかける。ぶーちゃんは、ふんっ、と鼻を鳴らしてジャスミンを見上げる。


「(…なるほど、ヴァーリは表面上は私に頼んだけど、私の裏にいるフェンリルの助けを求めてたわけね…)」


セナはリストを眺めながら、ヴァーリの真意を知る。セナはディノの方を見て、本当にありがとうございました、と頭を下げた。


「あの…、他のヴァーリの元番だった方たちも、希望があればこのリストで相手を見つける…、ということは可能ですか?」


セナはおずおずとディノに尋ねた。ディノは、うん、と頷いた。


「フェンリルもそのつもりだったみたい。希望者の調整を今取ってるから、とりあえず君からレティに話を通してきてよ」


ディノは寝癖のついた頭をかきながら言った。セナは安心しながら、ありがとうございます、とお礼を言った。ディノは落ち着きのない様子で、いいや、と頭を振った。


「…俺はもう行くよ。知らない女性の部屋にいるのは落ち着かないんだ」


ディノはそわそわと頬や頭をかきながら早口で言った。そんなディノに、もう、とジャスミンは満面の笑顔で抱きつく。


「そういうところが可愛いんだから!ディノね、一人でセナの部屋に行けないからって、私についてくるようにお願いしてきたのよ?」

「…知らない女性と部屋で二人きりになるのが気まずくて億劫だったんだけど、事前に先手を打たれてたみたい」


ディノはそう言うと、ジャスミンから離れてセナの前に来た。そして軽く腰をかがめると、セナの腕に抱かれたぶーちゃんと目線を合わせた。


「次の会議の資料、さっき君の部屋に置いてきちゃったよ。ここにいるって先に言ってくれれば持ってきたのに」


ディノはそう言うと、それじゃあ、とセナに言って背中を向けた。ジャスミンは、あら、と呟いた後、セナの方を見た。


「それじゃあセナ、フェンリル、またね」


ジャスミンは笑顔で手を振ると、部屋から出ていった。扉が閉まる音を聞きながら、セナは、ん?と首を傾げる。


「…フェンリル?」


セナは、はっとして部屋の周りを見回す。いつの間にいたのかわからないことが恐ろしくて、セナはついぎゅっとぶーちゃんを抱きしめる。


「なに、なに、どういうこと?あの人、カメレオン的な力でもあるの?」


セナはしゃがみ込んで床を触ってみたり、壁の様子を注意深く確認した。


「違う、そんなものはない」


急に、フェンリルの声がした。声はするのに姿が見えない恐怖に、セナは、体を縮こませて、ぶーちゃんにしがみつく。


「え、えええ?!」

「ここだ」

「え、え、え…」


自分から超至近距離で声が聞こえて、セナは、心臓が止まりそうになる。一度深呼吸をした後、自分の腕にちょこんと抱かれているぶーちゃんを見た。ぶーちゃんの赤くつぶらな瞳と目が合う。


「それが俺だ」


セナの時が止まる。つぶらな瞳としばらく見つめ合いながら、セナはしばらくの間の後深呼吸をした。


「え…え、え?」


セナは改めてぶーちゃんを抱きしめ直すと、また見つめ合った。


「フェン、リル、陛下、なの?あなたが?」

「そうだ」


セナの問に、ぶーちゃんは尻尾を振って頷く。セナの頭にとんでもない衝撃が走る。

あの頃、塔での幽閉生活の中で、ほんの短い間とは言え癒しを与えてくれていたあのぶーちゃんが、獣化したフェンリルだったのだという。

セナは衝撃の事実に硬直しながらも、獣人の姿をしたフェンリルに対してつっけんどんな態度を取る裏で、子犬の姿をしたフェンリルに対してはひたすらでろでろに愛でていたことに気がつくと、じわじわと恥ずかしさが滲んできた。セナは慌ててソファーの上にフェンリルを置くと、屈んで彼と目線を合わせた。


「なっ、ど、どうして言ってくれなかったんですか!あ、悪趣味では?!」

「かのアースガルズ帝国の皇帝が、こんな子犬では格好がつかないだろ」

「…あっ…、近しい人にしか、皇帝は獣化したら子犬の姿になるってことを知らせていなかったんですか…。極秘情報にしてた、とか…」

「いいや、皆知っている」

「……」


なら趣味が悪いだけじゃないかと思いながらセナは眉をひそめる。その時ふと、ジャスミンの言っていたことを思い出す。


「…あれ、ジャスミンが言ってましたよ。フェンリル陛下は、狼の姿になると、空を飲み込んでしまいそうなほど大きいって」

「…昔はな」

「昔?」

「昔、ヴァーリ兄さんに毒を盛られたことがある。命だけは助かったが、それ以降獣化した時に子犬ほどの大きさにしかなれなくなった」


フェンリルは、頭を軽く振ると、セナを見つめた。セナは息を飲むと、…そうなんですか…、と目を伏せた。


「もともと、生まれてからずっと権力争いの渦中にいた。そのせいで誰のことも、家族のことも信じられなくて、誰にどんな耳障りのいい言葉をかけられても、その言葉の裏をいつも探していた。あの頃俺はいつもどこか不安定で、でも何とか踏ん張ってきた。それでも、昔は優しかった兄が俺を殺そうとしたことと、せん妄状態だったとはいえ、兄さんの言葉に乗って俺の暗殺計画に父が加担したことで、心のどこかが折れてしまった」


フェンリルはそう言うと、小さく顔を俯けた。セナは、黒い耳が辛そうに垂れている姿に胸が痛む。


「…それでも、この姿も悪いことばかりではない。君に優しくしてもらえるからな」


尻尾を緩く振ってそう言うフェンリルに、セナは、む、と軽く眉をひそめる。


「やっぱり悪趣味…。もう正体はわかりましたし、これまでみたいな扱いはしませんから。…というか出来ませんよ…」


セナは頭を振る。こんな可愛い見た目をしているけれど、中身はあの皇帝フェンリルだというのなら、これまでのようには接することはできない。セナの言葉に、フェンリルは、なんだ、と伏せの姿勢をとった。


「それは残念だな。もう少し隠しておけばよかった」

「…そもそも、どうして今のタイミングで明かしたんですか?」


セナは首を傾げる。フェンリルはそんなセナを見上げる。


「君があんまりにも俺の気持ちを疑うから。理由が必要なら提示しようと決めたんだ」


そう言われて、セナは目を丸くする。つまりフェンリルは、気絶したセナに一目惚れしたわけではなく、あの短い間、塔の中で一緒に暮らしている間にセナのことを好きになった、ということになる。

セナは目を丸くしたまま、少しずつ頬を赤くする。ばっとフェンリルから目を伏せると、目を泳がせて、動揺から手の指を組んだり離したりを繰り返す。


「(…ど、どうしたの私、む、胸が信じられないくらい痛いんだけど…、苦しいんだけど…!)」


頭まで、心臓の鼓動が脈打つ振動が響き渡る。セナは、両頬を手で包んで、なんとか動揺を抑えようとする。

フェンリルは、はたと部屋にある時計に視線をやった。


「…そろそろ会議の時間か…。それじゃあもう行く」


フェンリルはそう言うと、ソファーから華麗に降りた。そして、くるりとセナの方を見ると、前足を屈んだセナの膝の上に乗せて、つぶらな瞳で見上げた。 


「…何、ですか…」


フェンリルは何も言わず、尻尾を振ったままセナを見つめる。セナは堪えたものの、我慢できず、わ、わかりましたよ…、と言うとフェンリルの頬に手を伸ばした。そして、いつもするようにわしゃわしゃと撫でた。


「(…あああ悔しい…、可愛い…!私はこの毛玉の可愛さに隷属するしかないの…?!)」

「それじゃあ、また」


フェンリルは満足そうに鼻を鳴らすと、セナに背中を向けて部屋から出ていった。セナはそれを見つめながら、多すぎる情報量に頭がくらくらして、そのままソファーに座り込んだ。

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