8-3ご令嬢はいっそ消えてなくなりたい
ベイズや医師たちの献身的な治療もあって、セナは1週間後には体の傷がきれいに消えた。
久しぶりに包帯も何もつけないでいい体を自由に感じながら、セナは黙々と荷物を整えた。元からそれほど多くはないため、荷造りはすぐに終わった。
あの日熊から逃げるために切り落とした髪は、(セナのその姿を見たときは失神するほど動揺していた)ベイズが綺麗にまとめてくれた。伸ばしていた髪は肩につかないほどの長さになったけれど、ベイズが上手にしてくれたおかげで、このヘアスタイルをセナは気に入っていた。
「セナ様、本当に帰っちゃうの?」
ラビはセナの背中にそう尋ねる。セナは振り返り、うん、と頷いた。
「フェンリル陛下には傷が癒えたら帰れって言われたし。見ての通り、きれいに治してもらったから」
セナはそう言うと、よく晴れた窓の外を見た。
「…本当は、ヴァーリ殿下に謝罪と、お礼をしたかったけど…」
あの日、フェンリルとヴァーリの受けた傷は深く、つい昨日まで面会者絶望という形をとっていた。
ここを出ていく前に、フェンリルだけでなくヴァーリにも会って謝らなくてはと思っていたが、先日の一件があるため、セナが彼に会うことは叶わなかった。
ラビは、僕が殿下に伝えておくよ、とセナに話しかけた。セナはラビに向かって微笑む。そんなセナに、ラビは眉を悲しそうにひそめる。セナはラビに近づくとぎゅっと抱きしめた。
「ラビ、たくさん迷惑かけてごめんなさい。…こんな私を、少しでも好きになったって言ってくれてありがとう」
セナはラビの頬に自分の頬を寄せてそう告げる。ラビは小さく息を吐いて、セナを抱きしめ返す。
「…セナ様なんか僕好きじゃないよ。聞かん坊だし、無鉄砲だし。…だいたい何さ、夜中に一人で森に行くなんて正気じゃないよ!世間知らずにもほどがあるから!!20年閉じ込められてたとかそれ以前だから!!君なんか嫌いだ!!」
「さ、最後の別れなのに、嫌いだなんて…」
「嫌いになれって言ったのは君だろ!!」
ラビはぷんすか起こりながらも、セナをぎゅっと抱きしめる。セナは、そんなラビが可愛くて、またもう一度頬を寄せる。
「セナ様…」
涙でぐずぐず言っているベイズが部屋に入ってきた。
「ベイズ…」
「お荷物お持ちいたします…」
鼻をすすりながら、目を赤く腫らしたベイズがセナの荷物を持つ。セナは、ありがとう…、とベイズに言いながら、今度は彼女に抱きついた。ベイズは、セナ様あ…、とぼろぼろと泣き出した。
「お帰りにならないでくださいい…!」
ううう…、と声を漏らしながら涙で顔を濡らすベイズを、セナはぎゅっと抱きしめる。
「ありがとうベイズ。あなたがいてくれたから、あなたがたくさん優しくしてくれたから、ここで楽しく生活できた。本当にありがとう」
「セナ様あ…」
「…まるで僕では楽しく生活できなかったみたいな言い方だね」
ジト目でこちらを見るラビに、誤解よ、とセナは苦笑した。
「…それじゃあ、そろそろ行くね。お世話になりました」
「門まで送るよ」
ラビはそう言うと、セナの隣に立った。セナは、ありがとう、と微笑んだ。その時ふと、セナは足元に目が行く。パーティーの日からずっと借りているあの靴を履きっぱなしだった。
「…そうだ、これ返さなくちゃ…」
「持っていったら?たぶん陛下何も言わないよ」
「でも…」
「今からご挨拶に向かいますよね?その時にお話したらいかがですか?」
ベイズに言われて、そっか、とセナは呟く。
「まだ傷のせいで歩けもしないなんてね…」
セナが後ろめたい気持ちで言うと、来週からは本格的にご公務に戻られるそうですから、とベイズかフォローしてくれた。あの日にフェンリルと会ってから、セナは顔を合わせていない。セナは、いつまでも消えない彼への罪悪感から、重いため息をつく。
「…にしても、セナを送る馬車は?」
ラビが窓の外をちらちらと眺めてそう呟く。セナは、まあまだ少し朝が早いし…、と返す。ラビは、まあ確かに…、と小さく息をつく。
「着きましたよ。私は外でお待ちしておりますね」
ベイズはそう言うと扉をノックした。すると、部屋の中から執事が扉を開けた。セナは、失礼します、と言うとラビと共に、少し緊張した気持ちで部屋に入った。
寝間着姿のフェンリルは、最後にあった時よりはずいぶん包帯のとれた見た目でいた。彼はソファーに座り、事務仕事をしているようだった。セナは、フェンリルの前に立った。フェンリルはセナに気がつくと顔を上げた。
「お、おはようございます…」
セナはおずおずと頭を下げた。フェンリルは、おはよう、と返した。
「傷は治ったのか?」
フェンリルはセナを見つめて心配そうに尋ねた。セナは、はい、と頷いた。
「あの、陛下のお身体の具合は…?」
「まだ動くのに介助はいるが、かなり良くなった。…どうした、今日はずいぶん恭しいな」
フェンリルは小さく笑う。セナは縮こまりながら、いえ…、と目を伏せた。
「本当に、ご迷惑をおかけいたしました。…申し訳ありませんでした」
「これについては謝らなくていい。全部俺に非がある」
「いえあの、これは私が…」
「とりあえず座ったらどうだ」
フェンリルはそう勧める。セナは、いえ、と頭を振る。
「ここを出ていく前に、最後のご挨拶に伺っただけですから。…長い間、お世話になりました」
セナは深々と頭を下げた。するとフェンリルが、出ていく?と首を傾げた。
「何の話だ?」
「え?」
セナは素っ頓狂な声を上げた。後ろにいたラビも目を丸くしている。
「え、…陛下、前に私に、傷が癒えたら帰れって…」
「それは、君があんなことをしてしまうほど祖国に帰りたいと渇望している、と誤解していたからだ」
フェンリルは何でもないようにそう返す。セナは目を丸くして、数回まばたきを繰り返した。
「いや…え?」
「それに、復讐したいほど祖国が嫌いなんだろう。君が国に帰る理由もない」
「いや、いやいやいや、だからその、私は、あなたが探していた人間じゃないんです」
「いいや、君で間違いない」
フェンリルはセナの目を真っ直ぐに見て言う。セナはうまく伝わらないことがもどかしくて眉をひそめる。
「…あの、心当たりがないんです。昔一度、獣人の男の子に会った記憶はあります。でも、目が合った瞬間気絶した記憶しかない。あの男の子があなただったのだとしても、そこまで好かれる理由がわからない」
セナは必死にそう伝える。フェンリルはセナから目をそらして少し考えた後、…まあ、と軽く咳払いをした。
「好きになることに、理由は必ずしも必要ではないだろ」
「………」
ふわっとしてはいるものの、自分が思う恋愛の範疇から外れていない回答だったため、セナはなんとも返事に困った。フェンリルは、それに、と続けた。
「君とあの時出会った少女は、同じにおいをしている」
「(で、でた、゛におい゛…)…体臭が酷似しているだけの可能性は…?」
「それに、久しぶりに会った君は、あの日好きだった君と全く変わっていなかった」
そう言ったフェンリルは、セナの目を見て優しく微笑む。セナは目を丸くして、意図せず頬の内側が紅潮していく。突然のことにセナは慌てて、自分の頬を両手で叩く。
「(…いや、冷静になって私。あんな可愛くない態度しか取ってない私が、好きだった昔の私と変わっていない?本当にどういうこと…?!)」
「陛下、包帯を替えに参りました」
看護師が数名部屋にやってきた。フェンリルは、ああ、と短く返事をする。セナは、ここにいては邪魔だと察して、訳がわからないまま、と、とりあえず失礼いたします…、と気の抜けた声でこの場を去ろうとした。
「もうじきに、部屋から出てもいいようになるらしい。また会いに行く。まとめた荷物はもとに戻しておいてくれ」
フェンリルは、去るセナの背中にそう声をかけた。セナは顔だけ振り向いて、よくわかっていないままあいまいに頷いた。
部屋から出るなり、ラビが迷惑そうに眉をひそめて腕を組んだ。
「あーあ、セナ様の言う事鵜呑みにして損した!!」
ほら部屋に戻るよ!と言ってラビは歩き出す。部屋の外で待っていたベイズは、わけがわからない様子で首を傾げる。セナもセナでよくこの状況が分からずに、ただふらふらとラビの後ろをついて行った。




