5-3ご令嬢は恨めしい
セナは無言で会場を出て城の廊下を歩き、部屋に向かった。
すると、急に背後から何やら白いものがお腹に巻き付いて、前に進めなくなった。足は床から離れて、セナは体がぶらんと持ち上げられた状態になった。セナは後ろを振り向いた。するとそこには、大蛇の姿をしたヨルがいた。
「あっ、よ、ヨル…」
「どうしたの?」
ヨルはそう尋ねた。セナは必死にヨルから抜け出そうとしながら、別に、とぶっきらぼうに言い放った。
そんなセナを、ヨルはさらに締め上げた。
「あっ、ぐ、ぐ、ぐええええ!く、苦しいいいい…!」
「拗ねて黙り込むことで相手に気を使わせようとするのは、大人のすることじゃないよ。それに、話し合いの場でそれは建設的じゃない」
「は、話し合う必要がない!放っておい、ぐ、ぐええええ!」
セナはさらに締め付け上げられて、顔が真っ青になる。ヨルは少しずつ力を緩めると、長い舌を出し入れしながらセナと顔を合わせた。セナはぜいぜいと呼吸を繰り返しながら、ヨルの方を見た。
「私は、…お、怒ってるのよ!」
「それはなぜ?」
「なぜ…?」
「君は、何に怒っているの?」
セナは肩で息をしながら考える。
自分をこんなことにした人たちが、何も悪びれずに幸せになっていること。
その人たちのせいで、自分はしたいことができなかったこと。
自分がしたかったことを、当然のようにしてしまえている人たちを間近で見てしまったこと。
恨めしいことはいくらでもあって、指折って数えれば数えるほど憎たらしくて、怒りが爆発しそうになる。
「(…それにこのままじゃ私、アシュリーってご令嬢と差し替えられる…!こんな形で国に返品されたら笑い者だ…!)」
フェンリルからしたら、憂さ晴らしをするための道具は人間でありさえすればいいのだ。むしろ、おしとやかそうな彼女のほうが、こんな態度ばかり取る自分より扱いやすくて良いだろう。
返品された自分を笑うアレックスたちの声が聞こえた気がして、セナは更に腹立たしくなる。セナは足をバタバタと動かして、ぜんぶよぜんぶ!と言った。
「もう全部!全部が腹立つ!腹が立って…」
セナは肩で息をしながら、喉の奥が締まるのを感じる。こんなにも腹が立っているのに、なぜ泣けてくるのか。
セナは唇を噛み締めて、理由がわからない涙をなんとか引っ込める。そんなセナを、ヨルはさらに締め上げた。
「がっ、うっ…!」
「抽象的すぎるよ。もっと具体的に」
「ちゅ…、ぐっ…」
「腹が立つ理由を明確に見つけないと、対処方法はみつからないよ?」
「と、りあ、えず、…ハナシテッ…!」
セナは顔が青くなりながら呻く。ヨルは、はあい、と言うと、セナから体を離した。セナの体はそのまま床に落下していく。圧迫感から解放されて、わけがわからないまま重力に逆らわずにいたセナの体を、誰かが抱きとめた。あれ、と酸欠からぼんやりする頭のまま視線を動かすと、フェンリルがセナの体を横抱きにして受け止めているのが見えた。
「あ…」
セナはようやく少しずつ意識がはっきりしてくると、慌てて彼の腕から降りようとした。そんなセナを、やめときなよ、とヨルの尻尾が押し返した。
「そんな身体で、急に動くと危ないよ。しばらく安静にしないと」
「…そうした張本人に言われるの、なんだか納得いかない…」
セナはそう不服そうにするものの、確かに頭はくらくらとしており、視界が揺れている。少しの気持ち悪さも感じるセナは、青い顔で深呼吸をした。
そんなセナを見つめたフェンリルは、行くぞ、と短く言うと歩き出した。彼に運ばれることが不本意で仕方がないものの、身体が思うように動かないため、セナはおとなしくするしかできなかった。
フェンリルに運ばれながら、セナはぼんやりと考えていた。
「(…このままだと、アシュリーと差し替えられる…。このまま帰ったら、家に泥を塗ることだけはできるかな…。でも、国には何のダメージもないし、アレックスたちに馬鹿にされて笑われるのも癪に障る…)」
ほらやっぱりな、と笑うあの野郎どもを想像して、セナはぼんやりとしていた頭が少しずつ覚醒してくる。
「(…そうだとして、私に何ができるのか…)」
セナは自分が情けなくなる。復讐するなんて息巻いていたけれど、結局何もできない。
「(…私に、何が…)」
セナはゆっくりと視線を上げた。フェンリルの横顔が見えたとき、ふいに初めて王国の城で出会った時を思い出し、セナはゆっくり息を吸う。
「(…ナイフを持っていたはず…)」
あの日彼は、絡んだセナの髪を自分の服から離すためにナイフを使っていた。それが今もあれば。
そんな考えが浮かんだ時、セナの部屋の前に来た。フェンリルは静かに部屋の扉を開け、そして部屋に足を踏み入れた。真っ暗な部屋は静かで、カーテンの隙間から月明かりがかすかに差し込んでいる。
咄嗟にセナは、フェンリルの内ポケットに片手を入れた。さっとナイフの柄を掴むと、それを取り出して、刃をフェンリルの方に向けた。
セナの心臓は信じられないほど速い鼓動を打っていた。頭は真っ白で、それでも頬は紅潮していた。肩で息をしながら、セナは刃の先を見つめた。ナイフを持つ手は震えており、それを抑えるために何度も握り直すが、震えは止まらない。
そんなセナとは対照的に、ナイフを向けられたフェンリルはひどく冷静な様子だった。セナを抱えている彼は手がふさがっていて、このままではナイフを避けることができないが、それでもセナを降ろさず、ただじっとセナの目を見ていた。
「(…彼を、刺せば…)」
喉が痛くなるほど、セナは激しく呼吸をした。背中から汗が流れるのを感じる。
「(…今、皇帝を刺してケガをさせれば、大問題になる…。国にも迷惑がかけられる…。家にも恥をかかせられる…。そうなったときの彼らの顔が見たい…。私の20年を浪費したことの後悔に苦しむ顔が……、罪に苛まれる顔が……)」
荒い呼吸を繰り返しながらも、セナはナイフの握り直しを繰り返していた。今ものうのうと、王国で幸せに暮らす彼らが憎い。自分を踏みにじって生きている彼らが心底許せない。
「(…でも、奴らのそんな顔を見る前に、今度こそ処刑される……)」
セナはそんなことを考える。帝国の皇帝にこんなことをして、国に帰されるだけで済むわけがない。
それでも、そうだとしても、このまま何もせず終わりたくなかった。何としてでも復讐がしたかった。
「(…なぜ私は、処刑の道を選ぶような人生を送っているんだ…)」
ふいに、セナはそう自分に尋ねる。自分がこんな選択をしている間にも、この城のパーティーホールでは、年頃の女性たちが素敵な服や靴を身に着けて、笑顔で過ごしている。そんな眩しいほど輝く彼女たちのことが、胸が締め付けられるほど羨ましい。きらめく笑顔の彼女たちがいる一方で、自分はナイフを握りしめて、両親やアナスタシアや、その他全員の不幸を祈っている。
「(…私は、いったい…)」
「刺したらいい」
フェンリルはそう平然と言った。セナは、え…、と声を漏らした。彼は真っ直ぐにセナを見つめている。
「それで君の気が済むのなら、いくらでも刺せばいい」
「……」
セナは、フェンリルの瞳を見つめ返しながら、更に呼吸が激しくなる。彼の赤い瞳を見つめながら、あの日の、セナの髪を切らなかった彼の優しさを思い出す。
すると、セナの手から力が抜けて、ナイフが床に音を立てて落ちた。セナは呆然とどこかの一点を見つめる。
フェンリルはゆっくりとセナをベッドに座らせた。そして、片膝をつくとセナと目線を合わせた。そして、彼女の頭から頬まで手を滑らせた。
「…今日は疲れただろう。もう寝るといい。明日の朝は一緒に食事をとろう。君が起きた頃にこの部屋に来る」
フェンリルはそうセナの目を見て告げた。セナは驚きから息が詰まる。うまく息が吸えずに変な呼吸を繰り返したあと、セナは自分の頬に触れているフェンリルの腕を掴んだ。そして、必死の形相で彼を見た。
「…私を国に帰して」
セナはフェンリルの腕に爪を立てる。フェンリルは顔色を変えずセナを見つめる。
「私のことを嫌って、国に送り帰して。でなきゃもっと悪いことをする」
「帰すことはしない。気が済むまで俺に当たったらいい」
そう当然のようにフェンリルに返されて、セナはもどかしさから唇を噛みしめる。駄々をこねる子供のように両足をばたつかせて、希望と違う靴を脱ぎ捨てる。セナが脱いだ靴がフェンリルの足に当たり床に落ちる。床に無様に散らばった、履きたくもなかった靴を眺めて、セナはどうしようもなく悲しくなる。
「…帝国に献上されるために長い間閉じ込められていた恨みも、祖国から異国に連れてこられた怒りも、俺に向けられるべきものだと理解している」
フェンリルが、そう静かに話し始めた。セナは目を伏せたまま、靴をじっと見つめていた。
「王国から君をもらい受けた時から、君のその気持ちごと全部引き受けると決めていた。だから存分に怒ったらいい。恨んだらいい。それを含めた君の全てを、俺は愛していくから」
はっ、とセナは顔を上げた。こちらを見つめるフェンリルを、セナは呆然と見つめ返す。彼に優しくされたことで、やり場のない苦しみや怒りが心の中で暴れ回る。
セナは両手で顔を抑えて、込み上がる涙を抑える。呼吸を繰り返して、なんとか気持ちを落ち着かせようとする。
そんな彼女を、フェンリルは抱きしめた。大きな手と身体に包まれながら、その時セナは、この男のことを怖いとは思わなかった。




