閑話:若松屋主人・清二の選択――すでに詰んでいた一手
宝暦十四年(一七六四年) 初夏 蝦夷地・松前
私の名は清二。
茶屋・若松屋の主人だ。
田舎から出てきて十年。
ようやく、この松前でも名が通るようになった。
そんな私の視界に、潰れかけていたはずの茶屋があった。
活気に満ちた自分の店とは対極にある、寂れた店。
少し前までは、確かにそうだった。
だが――少し前から、様子が変わっていた。
見慣れない子供や男が出入りするようになったかと思えば、
いきなり握り飯を売り始めたのだ。
(……ついにやけを起こしたか)
最初はそう思った。
だが、日を追うごとに、確実に客が入り始めている。
あの店に、人が流れている。
(このままでは、まずい)
今までは気にも留めていなかった存在に初めて危機を感じた。
いや――正確には、視界には入っていた。
だが、相手にする価値もないと、勝手に線を引いていただけだ。
胸の奥にわずかな焦りが芽を出し、私は自分でも気づかぬうちに、
その店へと足を向けていた。
売り子をしていた子供は、どう見ても普通の子供ではなかった。
愛想はないし、妙に落ち着きすぎている。
中で洗い物をしていた男に至っては、どう見ても侍だ。
背筋の伸び方も、手の動きも、場違いなほどに隙がない。
(……なんだ、あれは)
この子供は、あの男の息子か。
あるいは、どこかの武家の関係者か。
いずれにせよ、ただものではない。
そんな得体のしれない奴らが始めた仕掛けが普通であるはずがない。
私は握り飯を一つ買い、その“からくり”を暴いてやろうと思った。
だが――
手に取ったそれは、拍子抜けするほど――あまりにも普通すぎる代物だった。
少しばかり塩が効いているだけの、何の変哲もない握り飯。
それを、笹で包んだだけの簡素な弁当。
それが、八文で売れている。
(……馬鹿な)
納得がいかなかった。
うちで出している茶と団子を合わせた値段だ。
どう見ても、値段と質が釣り合っていない。
味で勝っているわけでもない。
見た目が優れているわけでもない。
なのに、売れている。
(こんなものが八文で売れるなら――)
胸の奥で、別の感情が膨らむ。
(私ならもっと美味い握り飯を作れる。
それに、もっと安く売れば――客は飛びつくに決まっている)
この若さで店を立ち上げた。
同い年の連中が人に使われている中、私は人を使う側になった。
店は繁盛し、名を知られるようになった。
それらの実績が、私に確信させた。
(勝てる。店をもっと大きくできる機会だ)
店に戻った私は、仕入れ担当を呼びつけ、
新たな弁当販売に向けた仕込みを言いつけた。
具は良いものを使え。
見た目も整えろ。
値段は抑えろ。
やるからには、徹底的にだ。
あの寂れた店の客など、まとめて奪い取ってやる。
(しかし、あんな握り飯が売れるとは思いもしなかったな。
いい商売の種を教えてくれたもんだ。
せいぜい活用させてもらおう)
――思えば。
これが、すべての始まりだった。
そして同時に、地獄の入口でもあった。
---
試作した握り飯を賄いとして店の者に食わせ、評価させた。
「美味いです」
「これで六文なら俺が買いたいですよ」
「私もです」
「具も豪華ですし、売れますよ、これ」
口々に上がる称賛に、私は確信を深めた。
やはり自分の考えは正しい。
一つあたりの利益は少ないが問題ない。
その分、数を捌けばいいんだ。
握り飯などいくらでも作れる。
「そうかそうか。それなら今度から賄いとして出してやる。
その代わり、しっかり働いてくれよ」
「やった」
「ありがとうございます。頑張ります」
鮭や梅、昆布を入れた握り飯は、茶との相性も良く、
店の者たちの間では大評判だった。
――もっとも。
誰も問題点を口にする者はいなかった。
場の空気を読んだのだろうが、
試作の段階で一つも指摘がないのは違和感があった。
……まあ、いい。
そこを考えるのは、私の役目だ。
(これならいける。あの寂れた店の客を全部奪ってやる。
潰れたらあそこを買い取って支店にするのもいいかもな)
まだ見ぬ成果を思い浮かべ、笑みがこぼれた。
「よし、それじゃあ包みは竹皮にするか。
あっちの貧相な握り飯と間違えられないようにしないとな」
「竹皮は少し高くつきますが……」
「構わん。見栄えは大事だ」
店の者たちの顔は自信とやる気に満ち溢れていた。
自分たちが勝ち馬に乗っているという確信により、店にはある種の全能感が漂っていた。
「さっそく、明日から売り始めるぞ。
しっかり仕込んでおけよ。
大量の握り飯を並べて客を圧倒するんだ」
「はい!」
最高の商品に万全の体制、それに加え士気も十分。
足りないものなど、何一つ思いつかなかった。
(明日が楽しみだ。また兄さんに差をつけちまうな)
遠く離れた地で、今も細々と乾物屋を続けているであろう兄に対する優越感に浸る。
私は――
わずかに曇る番頭の顔や、
いつもとは勝手が違う仕込みに難儀する調理担当の姿、
見えていたはずのものから、目を逸らしていた。
それに気づいたのは――
いや、教えられたのは、
すべてが終わったあとだった。
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弁当を売り始めた初日。
茶屋を始めて以来の大繁盛だった。
開店早々に準備していた分は売り切ってしまい、
そこからは最低限の接客係を残し、皆が必死に握り飯を握った。
それでも提供が追い付かず私は頭を下げて回ることになった。
こんなに頭を下げたのは店を立ち上げたとき以来だった。
店の前には人があふれかえっていた。
だが、その顔ぶれは、どこか見慣れない者ばかりだった。
いつも決まった席で茶を飲んでいる常連の姿は見えなかった。
(この騒がしさじゃ、ゆっくり茶を飲む気にもならないか。
次に会ったら詫びておかないとな)
あまりの勢いに押され、いつものようには営業できなかったが、売り上げはすさまじかった。
小山のようになった銭を前に私は勝利を噛み締めた。
(大成功だ。一時はどうなることかと思ったが、杞憂だったか)
これなら客の叱責に頭を下げた甲斐もあったというものだ。
寂れた店の売り子が様子を見に来ていたが
何をいうこともなく帰っていったのを見て気がすっとした。
真似をされたくなかったらされないような工夫をすべきなのだ。
最も、あんな何の工夫もない握り飯と、自分が考案した最高の握り飯では比べ物にならないが。
「あの、少しよろしいでしょうか」
そんなことを考えていると番頭が声をかけてきた。
「ん、どうした。」
「握り飯弁当の件なのですが、少し考えなおしたほうがいいのでは?
普段の店の働きとは勝手が違って皆戸惑っています。
お客が多いのは喜ばしいのですが、
何分不慣れなもので対応が追い付いていないのです。
普段と違って荒っぽい連中もいて、女たちが怖がってます。
……このままでは、うちの店がうちの店じゃなくなってしまうような。
それに、おかしな話ですが……儲かっている感じがしません」
何かと思えば忙しさへの不満か。
確かに今日は忙しかったからな、まあ仕方ない。
だが、甘い顔をするわけにはいかない。
せっかく、こんなに儲かっているのだ。
ここが踏ん張りどころだ。
「そうか。確かに、今日は忙しかったからな。
いや、本当に皆よくやってくれた。
だが、見ろ。この銭を。
この店始まって以来の売り上げだぞ。
この分ならお前たちの給金も上げてやれるだろう。
だから、今はつらいかもしれんが、なんとか踏ん張ってくれんか」
銭の小山を見せながら訴えかけると、番頭は唾をのみ頷く。
「……わかりました。他の者には私の方から言い聞かせておきます。」
わかりやすい男だ。
だからこそ右腕として使っているのだが。
「ありがとう。明日も忙しくなると思うがしっかり頼む。
何、しばらくすれば客足も落ち着く。
そのうち、みんなも慣れてくるさ」
「……そうですね。では、私はこれで」
そういって下がる番頭の背を見送る。
「さて、だいぶ米を使ったからまた仕入れないとな。
普段とは量が全然違うな。
ふふ、それだけ売れているということだが。
いっそ、もっと大量に仕入れて値引きさせるか。
その方が仕入れの手間も省けて合理的だ」
——おかしい、とは思わなかった。
思えなかった。
この時、違和感に気づいていれば、まだ傷は浅かったはずだ。
だが、目の前の銭に目がくらみ、正常な判断ができなくなっていた。
番頭のことをわかりやすいなどと嘲る資格は、私にはなかったのだ。
---
一月が過ぎた。
店は連日大繁盛。
客足は途絶えない。
なのに――。
「……足りない?」
仕入れの銭を用意しようとして、私は凍りついた。
盗まれたわけじゃない。
帳簿の勘定は合っている。
だが、銭がないのだ。
慌てて帳簿をなめ回すように読み返し、私は自分の喉が渇いていくのを感じた。
売上はすさまじい。
だが、それを上回る勢いで「仕入れ値」が跳ね上がっていた。
豪華な具材。
高価な竹皮。
大量に炊き続ける飯のための薪。
さらに、弁当の準備に追われたせいで、利益率の高い「茶と団子」の客が離れ、
本業の売り上げは無惨に落ち込んでいた。
おまけに、大量仕込みの弊害で、売れ残った具材や飯の「廃棄損」が、利益を圧迫していた。
売れば売るほど、銭が消えていく。
働けば働くほど、破滅へ近づく。
「番頭! 番頭はどこだ!」
怒鳴り散らして呼びつけた右腕の姿を見て、私は言葉を失った。
いつも厳としていた男は、今や悲壮感を漂わせ、目の下にはどす黒い隈が張り付いていた。
「……旦那。もう、限界です。
皆、必死にやってますが……これ以上は持ちません。
このままでは、皆倒れてしまいます」
言われてみれば、ここのところ、一人一人に向き合えていなかった。
最後に彼らと言葉を交わしたのはいつだっただろう。
昼間は忙殺され、夜は金勘定に腐心していた。
自分も正常な状態ではなかったのだ。
(どうしてこうなった?私は何を間違えたのだ?)
答えは出なかった。
だが、これ以上は続けていくことはできない。
それだけは、はっきりしていた。
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結局、その日は店を開けないことにした。
表には「臨時休業」の張り紙を出した。
戸を叩く音が何度か響いたが、それに応える気力すら今の私にはない。
番頭含め皆には「ここのところ忙しかったから、しばらくの間は休みだ」と伝えた。
彼らは一様に驚いた顔をしたが、直後、隠しきれない安堵を浮かべて喜んだ。
――ああ、そうか。
熱狂に浮かれて周囲が見えていなかったのは、主である私だけだったのだ。
彼らはとっくに、限界を越えていた。
「はあ……」
奥の間に座り込み、手元に残った銭を眺める。
弁当事業は、もうやめだ。
今日限りで、未練なく切り捨てる。
明日からは元通り、茶屋として静かにやっていこう。
そう決めたものの、現実は冷酷だった。
手元の銭は、驚くほど目減りしている
特に、米の大量仕入れが致命傷だった。
単価を下げるための「まとめ買い」が、今となっては首を絞める悪手となったのだ。
(……売りに出すか?)
だが、季節は夏だ。
これから新米の収穫を迎えるという時期に、古米を高く買う者などいない。
大幅に足元を見られるのが関の山だ。
かといって、茶屋で消費するには多すぎる。
半年はかかる量だ。
「どうしたらいい……」
頭を抱え、床の木目を見つめて呟いた、その時だ。
「お困りのようですね」
不意に、聞き覚えのない子供の声が鼓膜を叩いた。
顔を上げると、そこには申し訳なさそうに立ち尽くす番頭と、二人の子供がいた。
「誰だ……? 番頭、そいつらは誰だ。どうして通した。
それに、なぜお前がここにいる。今日は休みだと言ったはずだ」
急に声をかけられ焦った私は、まくしたてるように質問を浴びせた。
「はい。その、こちらは向かいの茶屋の使いだそうで……。
俺は、旦那の様子が気になって居ても立ってもいられず、つい」
番頭の言葉に、私は少し毒気を抜かれた。
端から見れば、今の私は首でも括りかねないほど弱り切って見えたのだろう。
私も焼きが回ったものだ。
「どうも、お初にお目にかかります。勘太といいます。
突然、約束もなく押しかけてしまい、すみません。
向かいの茶屋の使いで来ました」
勘太と名乗った少年には見覚えがあった。
向かいの店に出入りし、いつも籠を背負って笹を集めて回っていたガキだ。
丁稚か何かだと思っていたが、これほど淀みなく口を利くとは、見た目通りの子供ではないらしい。
その後ろには、売り子をしていた武家の子供が控えていた。
射抜くような、鋭い眼光。
勘太が穏やかな笑みを浮かべているのに対し、こちらは警戒心を隠そうともしない強い目だ。
お目付け役か、護衛のように見える。
だが、今の私に子供の相手をする余裕はない。
「悪いが、子供を相手にしているほど暇じゃないんだ。
連日の盛況でほとほとくたびれていてね。
今日は英気を養うための休みだ。
私も休みたい。
……さあ、帰ってくれ。
番頭、お前もだ。
心配しなくても、明日にはいつも通りだ」
手で追い払うような仕草をする。
しかし、勘太は動かなかった。
「ご主人、失敗しますよ、それ」
「……は?」
勘太の笑みが、先ほどよりも深く、濃くなった。
「弁当事業から手を引き、元通りの茶屋を再開するつもりでしょ?
壊れてしまった体制を元に戻すのなら、それしかない。」
なぜ、私がやろうとしていたことがわかる?
まだ番頭にも伝えていないのに。
急にやってきた子供が、なぜ。
そんな私の困惑を無視して勘太は続けた。
「……でも、一度壊れてしまったら二度と元に戻らないものがあります」
何を言おうとしているか察しはついた。
これでも店の主としてこの松前で根を張ってきたのだ。
「何だというんだ」
「金でも。
人でもない。
――信用ですよ」
思った通りの答えだった。
だが、認めたくはなくて目をそらした。
「あなたの店についていた常連客たち。
弁当を売るのをやめたら、その人たちが戻ってくるとでも?
だとすれば勘違いもいいところだ。
彼らは、すでにそれぞれ別の居場所を見つけている。
戻るとしても、一分もいれば良い方でしょうね」
背筋が凍りついた。
現実から目をそらそうとする私に淡々と事実を突きつけてくる。
この場から逃げ出したかった。
だがそれはできるはずもなかった。
勘太は、くく、と喉を鳴らして笑った。
「わかりますよ。今この瞬間も、逃げ出したいと考えていたでしょう?
あなたは非常にわかりやすい人だ。
……こちらの商売を真似するだろうことも、容易に予想できました」
じわりと、背中に嫌な汗が滲む。
真似をしたことを責めるわけでもなく、ただ「想定内だ」と告げてくる。
確かに、この状況で弁当を続ける馬鹿はいない。
元通りにするのが「正解」だ。
それ以外の選択肢など、思いつかない。
「だいたい、なぜ失敗すると言い切れる。
うちには開店からずっと付き合いのある客だってたくさんいるんだ。
彼らがいれば――」
そうだ。
この店は常連客を大切にすることで評判を広げ、今の地位を築いたのだ。
弁当事業の時だって、彼らが知り合いに声をかけてくれた。
彼らが戻れば、店は安泰だ。
だが、勘太の言葉は容赦なく私の希望を打ち砕く。
「その人たちに、あなたは何をしました?
握り飯を大量に売り始め、
静かで穏やかに茶を楽しめる空間を愛していた彼らを、
あなたは追い出した」
「追い出すだなんて、私はそんなことは……していない!」
「同じことですよ。
居心地のいい茶屋を、喧騒の絶えない戦場に変えてしまった。
たとえ『嵐は去った』と言ったところで、
またいつ同じことが起こるかわからない。
そんな場所に、誰がわざわざ戻りたいと思いますか?」
「……っ。」
言い返そうとして、言い返せなかった。
そうだ。
いつの間にか、常連たちの姿を見ていない。
前は一緒に茶を飲みながら談笑していた。
握り飯を売り始めてからは、殺到する客を捌くのに精一杯で、
彼らと言葉を交わす暇など一瞬もなかった。
彼らがいつ離れていったのか、その記憶すら抜け落ちていたのだ。
そんな私が、彼らはきっと戻ってくるなどと、言えるはずもなかった。
先に彼らを裏切ったのは私なのだから。
「……それで、落ちぶれた私に何の用だ。
弁当を真似した詫びでもしろというのか。
それとも、罰が当たったと笑いに来たのか」
自虐的に吐き捨てた私に、勘太は一転、真剣な顔を向けた。
「笑うなんてとんでもない。あなたは素晴らしい才覚をお持ちだ。
その若さで、この松前で、これだけの店を築くのは凡人にはできないことです。
立派です。……誇っていい。」
自分の半分にも満たない年齢の子供に「若さ」と「才」を褒められる。
皮肉を通り越して、奇妙な説得力があった。
「あなたには、ぜひこちらのお味方になっていただきたい。
手を組みませんか?」
勘太の提案はこうだった。
私は今まで通り、茶屋をやる。
向こうは弁当事業に専念する。
要求は二つ。
一つは、私が仕入れすぎた大量の米を、仕入れ値に少し色を付けてあちらに譲ること。
二つ目は、向こうの繁忙期に、うちの調理担当や売り子を回してほしいということ。
もちろん、働いた分の給金は向こうが支払う。
「なるほど……うちが弁当をやめれば客足はそちらに戻る。
その上で米の仕入れ値を抑え、熟練した人手を融通させようというのか。
なんとも都合のいい話だな。」
向こうには得しかない。
一方、こちらはわずかな金銭を得られるが、人手を渡さなければならない。
普通ならありえない取引だった。
……だが、今はそれ以外に道がないことも、わかっている。
「こちらには何の得がある。
米など、問屋に二束三文で売るよりはマシという程度だろう。
焼け石に水だ」
少しでも有利な条件を引き出すため、こちらに得がないと言い切る。
だが、内心は違った。
正直、悪くない。
悪くないどころか、現状で取り得る最高の救済案だとすら思った。
焼け石に水と言ったが、それがないよりは遥かにマシだ。
なにより、従業員に稼ぎ口を残せるのが助かる。
このままでは、皆を路頭に迷わせかねないのだ。
「まだ、そちらに提供するものを言っていませんでしたね」
勘太はまっすぐに私を見つめた。
「僭越ながら、そちらの『立て直し』を俺が請け負いましょう。
実績については、すでに今回の一軒でご覧いただいていると思いますので、
説明の必要はありませんよね」
心臓が大きく跳ねた。
「まさか……この状況を作り出したのは、お前なのか」
勘太は照れ隠しのように、頭に手をやった。
「はは、まあ、俺一人の手柄ではありませんが、絵図は俺が書きました。
……なかなか、上手くいったでしょう?」
震えが止まらなかった。
あの潰れかけの店を立て直しただけでなく、
競合店であるうちを困窮に追い込み、
なおかつ、更なる発展の肥やしにする。
しかも、こんな短期間で。
松前のどんな商人にもできるとは思えなかった。
それを、この子供が一人で描いたというのか。
「信じられん。……いったい誰の差し金だ。
後ろにいるそちらの御子は、大人物のご子息なんだろう。
その方が手を回したのか? うちに何の恨みがあって、こんな真似を!」
憤慨する私に勘太は笑みを浮かべて言った。
「誓って、裏にいる誰かの指図ではありません。それは保証します。
……そうですよね? 道広様」
勘太は、後ろに控えていた子供に話を振った。
待て、今、なんと言った。
道広……様。
「ああ、そうだ。この俺、松前道広が保証しよう。
今回の件に上は関わっていない。すべてはこいつの筋書きだ」
番頭が、音もなく膝をついていた。
それを見た瞬間、理解した。
——本物だ。
その立ち振る舞い。眼に宿る知性の輝き。
生まれてからずっと跪かれるのが当然の世界で生きてきた者だけが纏う、圧倒的な威厳。
謁見などしたこともないが、本能が「抗えない」と告げていた。
「なぜ、あなた様がこんなところに……。それにあんな店の売り子などを……」
「まあ、やんごとなき事情というやつだ。気にするな」
「……分かりました。提案、お受けさせていただきます」
「そうか。そうしてくれると助かる」
ここはもう、頷くしかない。
事情はわからない。
だが――関わってはならない領域に足を踏み入れていたのだと、本能が告げていた。
(兄さん、どうやら私はとんでもないことに巻き込まれてしまったみたいだ。
だが、そちらにまでは迷惑をかけないようにしてみせる。
それが、今の私にできるせめてものことだ)
こうして、俺は勘太と名乗る子供に従うことになった。
いや――
気づいた時には――
もう、選ばされていた。
——逃げ道は、最初から用意されていなかった。
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