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第85話:塩握り八文――商いの正体

 宝暦十四年(一七六四年) 初夏 蝦夷地・松前


 その知らせは、夏の気配を含んだ潮風と共にやってきた。

 

「若! 勘太! 大変です、向かいの若松屋が……こちらを探りに来た店が、

 うちの握り飯弁当を真似し始めました!」


 守屋が、慌てふためいて駆け込んできた。

 

 聞けば、あちらはただの模倣ではない。

 

 値段はこちらより二文安く、あまつさえ鮭や梅、昆布入りといった

 豪華な品揃えを用意しているという。


「ようやく、立ち直ってきたところなのに……。

 これじゃ、お客を全部持っていかれてしまう」


 店主夫婦は、今にも崩れ落ちそうな顔で言った。

 

 だが、その傍らで帳簿を捲っていた勘太が、ふっと笑った。


「……ようやく、引っかかりましたか」


「……どういうことだ? 勘太」


 勘太の反応に違和感をおぼえ、思わず問いただした。


 商法を丸ごと上位互換された。

 普通なら狼狽する場面だ。

 

 それなのに――こいつは、待っていたと言わんばかりだ。


「心配しなくても大丈夫ですよ。……店主、今日からこちらの値を上げましょう。一つ十文に」


「なっ、正気か!? 向かいが安売りを始めたというのに、こちらは値を上げるというのか?」


 守屋が目を剥く。

 

 だが、勘太の瞳には、揺らぎがなかった。


「ええ。ただし、当面は仕込みを極限まで抑えてください。

 昼前には売り切れてしまうくらいでいい。……客を、あっちの店に『譲る』んです」


「この店を潰す気か。まさか、あちらに寝返るとでもいうのか?」


 守屋が狼狽えるのも無理はない。

 俺だって同じことを思った。


 だが、勘太は、意外そうに眉を上げてから、くすりと笑った。


「いやいや、そんなわけないじゃないですか。

 何のために毎日、足を棒にして町中を歩き回ってると思ってるんですか」


 軽く肩をすくめる。


「ただのゴミ拾いじゃあないんですよ」


 その言葉に、俺は思わず黙り込んだ。


 確かに、こいつは笹を回収するついでに、客と話をしていると言っていた。

 それがどれほど役に立つのかは知らないが。


 だが――


「ちゃんと客の求めているものを把握していれば、真似するにしても、もっとやりようはあった。

 値段はともかく、凝った具を入れて種類を増やすなんて。……何もわかっていない」


 勘太は、淡々と断じる。


「思い込みで商売をやって失敗する、典型的な悪い例です」


 理解できなかった。


 安さは正義ではないのか。

 美味さは喜びではないのか。

 選択肢が多いのは豊かさではないのか。  

 

 一つ一つ頭の中で確認するが、どれも間違っているようには思えない。


 だが――こいつは、失敗すると言い切った。


(……俺は、何を見落としている?)


 問いただせば、答えは出るだろう。

 

 だが、それでは意味がない。


 宗谷でのやり取りが、脳裏をよぎる。

 あの時も、結局は核心を煙に巻かれた。


 そして苛立ちに任せて踏み込んだ結果――

 俺は、自分が最も軽蔑する連中と同じ振る舞いをした。


(……同じ轍は踏まん)


 こいつの「やり方」を、この目で暴く。

 そのために、ここにいるのだ。


「……心配なようなら、こちらも行きますか。敵情視察」


 思考を読んだかのように、勘太が言った。


「そうだな。仕込みを減らすなら、少しくらい抜けても構うまい」


「では決まりですね。ご主人、少し席を外します」


「は、はい……こちらは我らで……」


 不安げな視線を背に受けながら、俺たちは店を出た。


 潮の匂いを含んだ風が、頬を撫でる。

 

 店を出て少し歩けばすぐに見えてきた――

 遠目にもわかるほど人だかりができていた、敵の店だ。


---

 

 向かいの若松屋は、確かに賑わっていた。  

 急造の看板には「鮭・梅・昆布入り、六文」と景気のいい文字が躍っている。

 若い売り子が、額に汗を浮かべながら客を捌いていたが、その顔に余裕はない。

 

 行列はできている。

 だが、進みが遅い。


「三つくれ!」


「まだか!」


「急いでくれ、船が出る!」


「うるせえな……茶も落ち着いて飲めやしねえ」


「もうでよう」


 苛立った声が、あちこちから飛ぶ。

 店の奥では、茶を飲んでいた客が、居心地悪そうに席を立っていくのが見えた。


「見てください。あの惨状を」


 勘太が顎で示した先には、苛立ちを隠せない港の労働者たちがいた。


「たしかに少し混雑しているようだが、客は入っているではないか」


 客が多いのは大変だということは自分も売り子をして経験したので納得できた。

 だが、それを勘太が惨状と表現する理由がわからなかった


「道広様、俺が笹を回収しながら何を集めていたのか。

 それは『声』です。

 

 港で働く連中が求めているのは、手軽に素早く、片手で腹を満たせる塊ですよ。

 美味びみは二の次。なのに、あそこは『具』を入れてしまった」


 言われてみれば、あちらの客は皆、手渡されるまで時間がかかっていることに不満げだ。


「一つ試してみますか」


 勘太は列に並び順番待つ間も周囲を観察していた。

 売り子も調理担当も額に汗して働いている。

 どこか、見覚えのある光景だった。


 そうして待つことしばし、ようやく順番が回ってきた。


「半刻といったところですか。

 こんなに待たされるんじゃ、次の予定があるものは焦るでしょうね」


「そうだな、うちは早い方だがそれでも早くしろと急かす奴は多い。

 これでは気の短い奴は手が出るかもしれんな」


 いつもは待たせる立場だが待つ身になってみると存外長く感じた。

 俺が勘太の言葉に納得していると勘太が握り飯を注文した。


「一つもらえますか」


「は、はい! 六文です!」


 差し出された握り飯は、見た目だけなら確かに上等だった。

 上部から覗く鮭の色合いもよく、香りも悪くない。


「どうぞ、道広様」


 半分に割り、こちらに差し出してくる。


 受け取り、口に運ぶ。


 ――旨い。


 思わずそう言いかけた、その瞬間。


 ぽろり、と。

 こぼれ落ちそうになった塊を、受け止めるようにして慌てて口へ運んだ。


「……っ」


 崩れやすくて、食べにくい。


 勘太は無言のまま、もう半分を口に入れた。

 まるでわかっていたかのように器用にこぼさずに食べきった。


「……確かに、味はいい」


 だが、と続ける。


「ですが、これは『料理』であって『糧食』じゃない。

 そして、今、握り飯に殺到しているのは、優雅に茶を楽しむ客ではない。

 言うなれば、これから戦場に赴く兵士たちなのです。

 戦場で求められるのは、すぐに喰えて腹にたまる糧です。」


「やつらは戦場に向かう兵士と同じか......」


「そうです。戦場で兵站が途切れることは命が途切れると同義。

 速やかに途切れることなく腹を満たすのが糧食のあるべき姿です」


 太平の世となり、戦などなくなって久しいというのに、

 なぜ俺よりも年下の勘太がそのような例えを持ち出したのかわからなかった。

 俺がぼんやり考えこんでいると勘太は竹皮に残った握り飯のかけらを見せてきた。


「だいたい、これを船の上で、片手で食えますか?」


 答えは、言うまでもなかった。


「具を入れると、握り飯は脆くなる。

 動きながら食えば、この通り。

 ――崩れて、終わりです」


 勘太は冷ややかに笑う。


「さらに鮭などの生ものは、この季節、すぐに傷む。

 梅は梅で好き嫌いが激しい。

 ……ここの店主は、『自分が食べたい豪華なもの』を、客が求めているものだと勘違いしてるんです」


 それは、普通のことではないのか。

 ……それが、勘違いだというのか。


 自分の中の常識が崩れ落ちていく気がした。


「種類を増やせば、調理の手間が増える。

 注文を聞く時間も増える。

 具が余れば廃棄、足りなければ機会損失。」


 行列の先で、売り子が慌てて調理場に在庫を取りに行くのが見えた。

 

「……思い出してください。

 何の知識もなかったうちの店主が、初日にどれだけ仕込み過ぎたか。

 あそこも今、同じ沼にはまっています」


「だが、味はいい。客もこれだけ来ている。

 失敗するとは言い切れんだろう」


「そうでしょうか。客が来ているからこそ致命傷になる。

 あちらは、うちよりも原価の高い具を入れながら、うちより安く売っている。

 売れば売るほど銭が消え、人手だけが削られていく。

 

 どこで儲けが出ると思います?」


「……」


「出ませんよ。

 売るたびに、茶屋の稼ぎを食い潰しているだけです」


 少しだけ間を置いて、勘太は肩をすくめた。


「……まあ、最初から赤字覚悟でうちを潰しに来た、という見方もできなくはないですが」


「そうではないのか?」


「だったら、あんなに慌てませんよ。

 あれは覚悟じゃない。ただの見誤りです」

 

 勘太は、忙殺される売り子を憐れむように見つめた。


「しかも回転が遅い。

 商いは味じゃない。回転です」


 その一言が、妙に重く響いた。

 必死に対応する売り子が自分に重なった。

 あの懸命な働きもこいつには無意味に映っているのだろう。


「……残酷だな」


 俺が漏らした言葉に、勘太は悪びれる様子もなく答えた。


「ええ。でも仕方ありません。

 あれは商売じゃなく、ただの博打ですから。

 道広様、俺が初日にあえて『何の変哲もない塩握り』を売らせた理由が分かりますか?」


 俺は、あの具すらない飯を「手抜きだ」と詰った時のことを思い出し、黙って首を振った。


「あの初日、昼過ぎからの商いで五つ売れた。

 具も、愛想も、評判もないただの塩結びに、八文払う客が五人いた。

 ……それが全ての始まりです。

 

 『手抜きの握り飯でも、買う奴はいる』。

 その事実データを、俺はまず確認したんです」


 勘太は、混乱を極める若松屋に視線を向けたまま続ける。


「二日目は十売れた。廃棄を減らす工夫をしつつ、需要が本物であることを証明した。

 ……そこまでやって初めて、俺は次の施策――『おみくじ』を投入したんです。

 

 需要を確信してから、馴染み客を増やす仕掛けを乗せる。

 損を殺し、利益だけを育てる。それが俺のやり方です」


「……あちらは、そうではないということか」


「そうです。あちらは検証なしに、最初から全力を出した。

 高原価、低価格、低回転。

 

 ――勝てる要素が一つもない」


 少しだけ、口元が歪む。


「まあ、味はあちらの方がずっと上でしょうけどね。

 だから余計に、勘違いする」


 若松屋の店主が、客の苦情に平謝りしながら、対応しているのが見えた。


「あちらが自分の思い違いに気づく頃には……もう、店を畳む銭も残っていないかもしれませんね」


 道広様、と勘太は俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「確信のない投資は、ただの博打です。

 それを『勇気』や『剛毅』と呼んで褒めそやすのは、無責任な観客ですよ」


 俺は、懐の中の『無病息災』の紙片を指先でなぞった。

 

 勘太が集めていたのは、笹の葉だけではない。


 勝つべくして勝つための、

 言い訳の余地すらない「根拠」だった。


「そろそろ戻りましょうか。

 あの様子だと、待ちきれなくなった客が、こちらに流れているかもしれません」


「……ああ、そうだな」


 俺たちは、怒号と熱気に包まれた若松屋を後にした。  

 道すがら、俺の頭には先ほどの惨状が焼き付いていた。

 

 良かれと思って具を詰め、良かれと思って安売りをした結果、客の怒りを買い、身を削っている主人。

 あちらにあるのは「情熱」だが、勘太の言う通り、それは自らを焼く火でしかなかった。


 ――戻った店先で、思わず足が止まる。  


 暖簾は上がったままだ。

 だが、あちらの喧騒が嘘のように、こちらに客の姿はない。  

 代わりに、守屋がぽつんと立っていた。

 その手には、「完売御礼」と書かれたのぼりが握られている。


「……終わったのか」


「はい。若。昼を待たずして、用意した分がすべて捌けました。

 ……客の数は、さほどでもありませんでしたがな。

 それでも、途切れることなく売れ続けました」


 守屋の声には、興奮というよりは、拍子抜けしたような困惑が混じっていた。  

 

 店の中を覗く。

 釜は空。

 店主夫婦は後片付けをしていた。

 

 あちらが阿鼻叫喚に沈むその刻、

 こちらは一度も滞ることなく、すべてを捌き切っていた。


「……なるほどな」


 思わず、独り言が漏れた。  

 

 味ではない。

 値でもない。

 ましてや、職人の頑固な矜持きょうじでもない。    

 

 客が何を求め、いつ動き、どの程度の対価をいとわないか。  

 その「流れ」を正確に読み、淀みなく捌き切る。    

 

 ――それが、商い。

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