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第84話:売れ続ける仕組み

 宝暦十四年(一七六四年) 晩春 蝦夷地・松前


 三十文以上の持ち出し――あの「負け」の翌朝。

 俺たちはまた、今にも潰れそうなこの茶屋に集まっていた。


「あの、具はどうしましょう。昨日は急でしたから何も用意できませんでしたが……」


 店の主人が、すがるような視線を勘太に向けて尋ねる。  

 

 食べ物を売る商売をする以上、味を工夫し、中身を充実させようとするのは、

 商売人というよりも料理人として当然の発想だろう。

 

 目の前の敗北を、己の腕と誠意でひっくり返そうとするのは、職人としての矜持に他ならない。


 だが、勘太は帳簿の残金に目を落としたまま、そっけなく答えた。


「ああ、具はなしでいいです。昨日と同じ、塩を効かせただけの握り飯でいいですよ」


「……そうですか? ですが、それではまた売れ残ってしまうのでは……」


 主人の不安はもっともだ。だが、勘太は顔を上げることすらなく、淡々と言い放つ。


「いいから、言う通りにしてください。心配しなくても大丈夫です。

 今はまだ、味をいじる段階じゃない。今は、何の変哲もない握り飯がいいんです」


 その声には、一切の迷いも、職人のプライドに配慮する情緒もなかった。  

 主人は納得しかねる様子で、力なく「はぁ……」と気のない返事を返した。


 そうして始まった二日目。  

 

 昨日と同様、店が賑わうようなことはなかった。

 だが、帳簿に刻まれる数字は、勘太の言った通り、確かな変化を示していた。


 五つだった売れ行きが、今日は十個。  

 勘太の「仕掛け」が、静かに、しかし確実に客を呼び込んでいた。


「売れ残りはどうですか?」


 夕刻に戻ってきた勘太の問いに、主人は少しだけ震える声で答えた。


「はい、五個……五個で済みました」


「まだ多いですけど、五個なら俺たちで食べればいいでしょう。

 やりましたね、二日目にして早くも黒字ですよ。

 ……まぁ、大の大人が五人、一日働いた労力を考えれば、雀の涙ではありますがね」


「いえ、本当に……なんと御礼を言ってよいのやら、ありがとうございます」


「礼を言うのはまだ早いです。これからですよ、これから」


「……はい! 私も、もっと頑張ります!」


 傍らにいた女房までもが、必死に声を上げる。  

 昨日までの、死を待つだけのような暗い顔はもうない。

 主人の瞳には、微かな「生気」が戻っていた。


 その夜、俺たちは売れ残りの握り飯を分け合った。  

 塩が効いているだけの、何の変哲もない握り飯。

  

 だが、噛み締める店主夫婦の横顔を見ていると、

 この松前の城下で、静かに、

 しかし抗いようのない「流れ」が広がり始めているように思えた。


---


 茶屋の再建案件は続き、二週間が過ぎようとしていた。


 朝は、米を研ぐ水音と、釜から立ち昇る蒸気の匂いで始まる。

 薪がはぜ、釜が鳴る。

 その規則正しい音だけが、澱んでいた店内に微かな生命力を吹き込んでいた。


 客の来ぬ薄暗い店内で、俺はあいつ――勘太から渡された帳簿を開いた。  

 指先で、昨日の数字をなぞる。


 売れた数、残り、費やした米。  

 初日は差し引き三十文以上の持ち出し、完敗の赤字だった。

 だが、今では仕込みの米も増えていた。

 あいつの言葉通り売り上げが増えていたからだ。


 あいつの放つ「確信」の根拠を、俺はまだ掴みきれていない。  

 銭箱を確かめ、真っ新な紙に印を一つ。  

 そうこうするうちに商いが始まる。


 やがて、一人、また一人と客が来る。


「握り飯、二つだ」  


 銭を受け、数え、帳面に記す。


 二、四、六――。  

 

 静かに積み上がる墨の跡を、俺はじっと見つめる。  

 帳簿から顔を上げ、客を観察する。

 顔ぶれ、足取り、来る時間。


 ……記録することにどんな意味があるのかはわかっていないが、

 あいつのことだきっと何かあるに違いない。


 昼前、急に風向きが変わった。

 

「三つくれ」


「五つだ、急いでくれ」


「十だ、船に持ち込む!」


 声が重なり、守屋の手が追いつかなくなる。  

 書く、数える、渡す。  

 守屋は不器用ながらに捌き、店主は必死に握り続ける。  

 

 ――足りない。  

 

 いつの間にか、次期藩主であるはずの俺までもが、身を乗り出して売り場に立っていた。


「八文だ。……毎度。」


 口が勝手に動く。

 その喧騒の最中で、ふと気づく。  

 この昼前の刻限、港へと向かう道筋に、

 まるで目に見えぬ「流れ」があるかのように客が吸い寄せられてくる。


「毎度ありがとうございます。」


 同じ顔ぶれが、決まった時間に訪れていることに気づいた。


 仕事の前に買っていく者。

 帰り際に立ち寄る者。


 ……ここは、“どこかへ向かう途中”にある。


 考えてみれば、茶屋とは本来、一息つくための場所だ。

 そう考えれば、この客の流れにも納得はできる。


 ――これが、あいつの言っていた「港への通り道」という利点か。


 だが。


 それだけで、あのまとめ買いの増え方まで説明がつくとは思えなかった。


 やがて、潮が引くように人が消えた。  

 俺は再び帳簿に戻り、乱れた数字を整える。


 売れた数、残った笹の葉、銭箱の重み。  

 筆を握る指先が、高揚からか、あるいは別の何かからか、わずかに震えていた。


 そんな中、一人の男が立ち寄った。

 町人にしては身綺麗でどこぞの若旦那という風体だった。


「これは、お武家様。ずいぶんと繁盛しておられますね。私にも一ついただけますか」


 身なりは良いが、眼光に嫌な粘り気がある男だ。

 城で有望と噂される若手の文官を思い出させる。


「八文だ」


「ほお、ただの握り飯が八文ですか。

 いや、お武家様に手ずから売っていただけるならそれだけの価値はあるというもの。

 どうぞお納めください」


「……毎度」


 男は、何かを探るように、握り飯と、それを包む笹を確認していた。

 俺が見ていることに気づくとばつが悪そうに曖昧な笑いを浮かべ去っていった。


 男が去った後、主人が耳打ちしてきた。

 

「あいつは近所の、あの繁盛している茶屋、若松屋の店主ですよ。敵情視察というやつでしょう」


 なるほど。

 こちらが妙なことを始めたのを見て様子を見に来たか。


 売らないほうがよかったか?

 いやその気になれば人を使って手に入れることもできる。


 それに、知られて困るような秘密は何もない。

 何の変哲もないただの握り飯だ。

 どうしてこれがこんなに売れているのか俺が知りたいぐらいだ。


 夕刻。  

 

 一日の合計を書き込む。

 売上、仕入れ、差し引き。  

 数字は、日々、前日の結果を上回ってきている。


 だが――そこで筆が止まる。


 特定の刻限に集中する客。

 増えていくまとめ買い。

 同じ顔ぶれの連中。  

 

 すべては数字となってこの紙の上に現れている。  

 それでも、その背後にある勘太の「仕掛け」が見えてこない。


「……分からん」


 帳簿は嘘をつかない。  

 だが、答えまでを親切に語ってはくれない。    

 俺は帳面を閉じ、あいつが懐に隠しているであろう「仕組み」の正体に思いを馳せる。  

 

 分からぬまま、明日もまた書き、見て、考える。  

 その先に、この松前を塗り替えるための「脳内」を暴く鍵がある気がしていた。


---


 夕暮れ時。

 

 橙色の陽が斜めに差し込み、店内に長い影を落とすころ、勘太が帰ってきた。

 ここ数日、見慣れた光景だ。

 背には、笹の葉を詰めた籠を負っている。


 こちらが連日、慣れぬ帳簿付けと客の対応に追われているというのに、

 こいつは一日外を歩き回っている。

 

 守屋も水仕事で手をふやかしている。

 正直、ひとこと言いたくもなる。


「……今日も遅かったな。こちらは客が立て込んで、帳簿をつける暇もないほどだった。

 その笹の葉を集めるのに、そんなに時間がかかるものか」


 皮肉を込めて言いながら、俺は籠から一枚の笹を抜き取った。

 形は整っているが、表に白いものが付いている。


 ――飯粒だ。


「……勘太。まさか、道端に捨てられたものを拾ってきたのか」


 問いかけると、勘太は特に気にした様子もなく答えた。


「まあ、そんなところです。放っておけばその辺に捨てられるか、客に持ち帰られるか。

 どちらにせよ、資材リソースは戻ってきませんからね。

 港周辺を回って回収していたんですよ。

 

 もちろん全てとはいきませんが、大体は拾えました。

 ……今日回収できたのが五十ちょいですから、売上は百の大台に乗ったんじゃないですか?」


 図星だった。  

 俺は無言のまま、先ほど書き終えたばかりの帳面を勘太に突き出した。


「おお、想定通りですね。ここ数日の売れ行きの傾向から予測してみたんですが、

 数字は嘘をつきませんね」


 勘太は帳面を一瞥し、軽く頷いた。


 店にいなかったはずの男が、落ちている笹の数だけで売上を言い当てる。

 

(……なるほど。こいつはただゴミを拾っていたわけじゃない。

 俺が帳簿で『結果』を見ている間に、こいつは外で『流れ』を測っていたのか)


 小さく息をつく。

 やっていることは単純だが、視点が違う。


「では、明日の仕込みがありますので」


 そう言って、店の奥へ向かおうとした勘太の荷物から、ひらりと小さな紙片が落ちた。  

 俺は無意識にそれを拾い上げる。

 指先に触れたのは、勘太とやり取りしていた文と同じ、ざらりとした手触りの「紙」だった。


 そこには、あの妙な筆記具で書かれた力強い文字で、ただ一言――『無病息災』と記されていた。


「……これは何だ」


 俺の問いに、勘太は足を止め、振り返って事も無げに言った。


「ああ、おみくじ?お守り?まあ、そういう感じのものです。

 笹を返してもらう代わりに渡しているんですよ

 まあ、いくつか種類がありますよ。商売繁盛だの、無病息災だの――」

 

「……引き換え、だと?」


 俺は手の中の小さな紙片を凝視した。


「ええ。ただ捨てるものでも、ちょっとした楽しみをつければ戻ってくる。

 ついでに話のきっかけにもなりますしね。

 

 それに、種類があると、全部集めたくなるでしょう?

 ……人は、そういうものですから」


「まあ、それとは別の狙いもあるんですけどね。」


「別の狙い?」


「……今は関係ありません。いずれ分かります」


 それだけ言って、にやりと笑うと、勘太は奥へ引っ込んだ。


 手元の紙片を見る。


 わずかな紙と、簡単な言葉。

 それで人の足を店へ向けさせ、人の欲を揺さぶる。

 

 ――これが、あいつの『仕組み』の正体、いや、その一端か。


 俺は紙片を指で折り、そっと懐に入れた。


 これこそが俺が下手な芝居を打ってでも知りたかった奴の力の一端なのだ。  

 それを暴くのが、今はただ――楽しみだった。


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