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第83話:握り飯五つの革命――松前の茶屋再生計画

 宝暦十四年(一七六四年) 晩春 蝦夷地・松前


 太陽が天辺を過ぎ、影がわずかに伸び始めたころ、ようやく勘太が帰ってきた。  

 

 道中、何を調べてきたのかは知らぬが、その額には薄っすらと汗が滲み、

 瞳には獲物を見つけた鷹のような鋭さが宿っている。

 

 守屋が手早く用意した質素な昼飯を囲みながら、俺はあえて平静を装って問いかけた。

 

「……それで。例の詐欺師の足取りは掴めたのか?」


「いや、まったく。界隈で噂すら立っていませんでした。

 おそらく、組織的な本職ではなく、その場の思い付きの犯行だったんでしょう。

 それで得た逃亡資金を手に、即座に町を離れたというところかと……」

 

 勘太は悔しそうに握り飯を頬張った。

 

 当然だ、そんな男は俺の作り話の中にしか存在せぬのだから。  

 だが、すぐに気を取り直したように顔を上げた。

 

「詐欺師の件はいったん保留ですが、代わりに、今の道広様にとって最高の案件を見つけてきましたよ」


「案件……?」


「ええ。食べ終わったらすぐ案内します。面白いものが見られますよ」

 

 勘太に促されるまま屋敷を出て、海風の吹く港の方角へと歩く。


 たどり着いたのは、古びた一軒の茶屋だった。  

 

 年季が入っていると言えば聞こえはいいが、要は空気が澱んでいる。

 

 建付けは歪み、暖簾は陽に焼けて無残に色褪せ、店全体から衰退の気配が漂っていた。

 お世辞にも、客を招き入れる風情など微塵もない。


 ふと視線を転じれば、目と鼻の先に、真新しい普請で活気に満ちた別の茶屋が見える。  

 客の出入りは絶えず、景気のいい笑い声がこちらまで聞こえてくるほどだ。

 陽の光をすべて奪い去るかのような、残酷なまでの繁盛ぶりだった。


「……あっちの店に、客を根こそぎ奪われたというわけか。あからさまだな」


「その通りです。茶屋として普通に勝負しても、あの立地と新しさには逆立ちしても勝てません。

 ――だから、業態を変えます」


「業態?」


「『持ち帰り』と『出前』に特化するんです」


 勘太は、一切の迷いなく断言した。

 その瞳は既に、目の前のボロ屋ではなく、さらに先にある何かを見ている。


「さっき町を回りましたが、腰を据えて食わせる店はあっても、

 手軽に持ち運べる飯を売る店は見当たらなかった。

 

 ここは港への通り道だ。

 

 これから船に乗る者、荷揚げで忙しい連中

 ……あいつらは、ゆっくり腰を下ろす“座る時間”など求めていない。

 求めているのは、今すぐ食える“実”のある飯だ」


 言葉が、一切の無駄なく積み上がっていく。

 こいつの口から出る理屈には、いつも逃げ場がない。


「幸い、店には仕込みかけの米が残ってました。

 今日はそれを使って“試し”に売ります。

 

 数は出せませんが、それでいい。

 まずは『需要』があるかを確かめます」


 そこまで一息に言い切ると、勘太はまるで自分の庭にでも戻るような足取りで、

 店の中へと踏み込んでいった。


「ご主人、準備はよろしいですか」


 有無を言わせぬ、鋭い呼びかけ。  

 奥から現れた店主は、あいつの気圧されてか、おどおどと頷いた。


「は、はい。さっき聞いた通り、塩を強めに効かせた握り飯を笹の葉で包みました」


 卓の上には、十数個の質素な包みが並んでいる。  

 笹の葉の青い香りと、炊きたての米の匂いが、辛気臭い店内に場違いな生命力を吹き込んでいた。


「けっこうです。では、お盆に乗せてお店の前へ出しましょう。

 値は、一つ八文といったところですかね」

 

「え、えと……それで売れるなら、お任せします」


 まるで最初からそう決まっていたかのように、話が進んでいく。  

 店主夫婦は互いに顔を見合わせた。

 戸惑い、疑い――そして、崖っぷちの者だけが持つ、わずかな、しかし熱い期待。


「……本当に、売れるんですか」


 弱々しい問い。

 それに対し、勘太は振り返りもせず、出口へと向かいながら言い放った。


「売れます。――売れなければ、売れるまでやり方を変えるだけです」


 即答だった。  

 間髪入れぬその一言には、迷う余地も、退路すらも存在しなかった。


「……わ、わかりました。やってみます」


 気がつけば、店主も、そして傍観していたはずの俺すらも、小さく頷いていた。  

 これは納得した末の判断などではない。

 ただ、目の前の子供が放つ圧倒的な「確信」の渦に、完全に呑み込まれているだけだ。


(なるほど。こいつらの状況は、まるで俺と同じだな)


 俺は、震える手で握り飯を並べ始めた店主の背中を、冷めた目で見つめた。  

 行き場をなくし、崖っぷちに追い詰められている境遇。

 そして、藁にも縋る思いで、この得体の知れない子供に命運を預けようとしている点。


 立場こそ違えど、その本質は鏡合わせのように同じだ。


(勘太が分かってやっているのかは知らんが……。

 随分と悪趣味な真似をしてくれるじゃないか)


「俺に従えば、死に体のお前もこうして再生してやる」  


 背中でそう語っているかのような勘太の傲慢な覇気。

 あいつが無自覚にこれをやっているのだとしたら、それはそれで恐ろしいことだ。


 だが、あいにくと俺は、ただ救われるのを待つほどお人好しではない。


「……面白い。その『確信』、どこまで通じるか見せてもらおう」


 あいつが松前を塗り替えるための『仕組み』の一端。

 まずはこの茶屋の一幕から、あいつの脳内を暴いてやるとしよう。


---


「道広様には、この『帳簿』をお願いします」


 差し出されたのは、真っ新な紙を綴じたものだった。


「売り上げや仕入れ――何にいくら使い、いくら入ってきたかをすべて記録します」


「……宗谷で、三吉が書いていたあれか」


「ええ。経営を学ぶなら、数字から逃げるわけにはいきません」


 そう言いながら、すでに次の指示が飛ぶ。


「守屋様は、店の手伝いを。

 包みと受け渡しをお願いします。最初は手が足りません」


「な……私が、か?」


 一瞬の戸惑い。


 だが俺が頷くと、守屋は観念したように袖を捲った。


「……承知いたしました」


 勘太はそれを確認すると、満足げに頷き、


「では、俺は売り場を作ってきます」


 それだけ言い残して、再び町へと消えた。


 まるで嵐だ。


 考える間も、躊躇う間も与えず、気がつけば全員が持ち場に立たされている。


 ――これが、あいつのやり方か。


---


 勘太自身は「他に仕込みがある」と言い残し、再び町の雑踏へと消えていった。


 ――夕刻。  

 

 日が落ち、松前の町にポツリポツリと灯りが灯り始めるころ、勘太が戻ってきた。  

 

 初日の成果は、笹で包んだ握り飯が五つ。  

 

 店主が心を込めて握り、守屋が慣れぬ手つきで呼び込んで売ったそれは、

 港に向かう男たちの手に渡り、消えていった。


「五つも……。今日一日、誰も来ないかと思っておりましたのに」  


 主人の妻が、震える手で銅銭を握りしめ、涙ぐんでいる。


 たった五つの握り飯。

 

 四十文の銅銭。  

 

 城で暮らしていた俺からすれば、鼻で笑うような端金に過ぎない。

 

 庭の池に投じる餌代にもならぬ額だ。

 

 だが、目の前で「これで明日も店が開ける」と手を取り合う夫婦を見ていると、

 不思議と胸の奥が温かくなるのを感じた。


 だが、勘太の顔は晴れなかった。  

 俺がつけたばかりの帳簿を覗き込み、眉間に深い皺を刻んでいる。


「……これは、完全に採算が合ってませんね」


 言われるまでもない。

 俺とて、この帳簿をつけた身だ。  

 

 握り飯一つ、八文。

 材料だけで五文は飛ぶ。  

 五つ売れて四十文。

 

 だが、残り十個は丸ごと損だ。

 ――米代だけで五十文が消える。


「……勘定が、合わんな」  


 俺は淡々と告げた。

 差し引き、三十文以上の持ち出しだ。  

 これを毎日続ければ、いくらも持たずにこの店は干上がる。


「ええ、完敗です。材料費と、売れ残りを考えれば、五つでは話にならない」


 初日だから仕方ない、と俺は内心で思った。  

 道楽のつもりで始めたにしては、上出来ではないか。

 

 そもそも客が一人も来ない死に体だったのだ。  

 しかし、勘太の目は既に、情け容赦のない「明日」を見据えていた。


「しかし、需要があることはわかりました。これは成果です。

 明日は、売れ行きを見ながら在庫を調整していきましょう。

 

 握り飯なら、米さえ炊いてあればすぐ握れる。

 追加分はその場で回せます」

 

「わかりました。明日は少し仕込みの量を減らしてみます」


「そうしてください。ただし、減らしすぎないことです。

 飯を炊くのには時間がかかりますからね。

 せっかく買いに来た客を逃がすことになりかねません」


「……難しいです。いったい、どうすれば」  


 主人が弱りきったように肩を落とす。


「こればっかりは、やりながら慣れていくしかありません。

 やっているうちに『記録』がたまっていきますから。

 

 そしたらそれを読み解きながら、最適解へ調整していける。

 それまでは、破綻しない程度に仕込みながらやっていきましょう」

 

「なんだか……余計に難しいような……」


「大丈夫。今日だって損は損ですけど、今まで通り指をくわえて見ていたら、

 握り飯五つ分の銭すら入らなかったんです。

 

 そう考えれば、昨日よりは少しは『まし』でしょう?」


「確かに、それは……」


 物は言いようだな、と俺は思った。  

 

 嘘ではない。

 

 だが、握り飯五つ分の銭が入ったところで、経営の破綻という大火の前には焼け石に水だろうに。  

 しかし、勘太は一切の揺らぎを見せず、言い切った。


「まあ、明日はもっと売れますよ。その手筈は、もう考えてあります。任せてください」


 その力強い言葉に、店主は戸惑いながらも、縋るような安堵の色を浮かべた。  

 店主は、握り飯五つ分の銭と、「明日はもっと売れるかもしれない」という希望を得た。


 一方――俺は、今日一日で何を得ただろうか。  

 

 はっきりとはわからない。


 たった五つ売れただけで、あれほど喜ぶ。  

 だが、その裏では確かに三十文が消えている。  

 ――これが、民の営みというものか。


 では、将来、俺が万民の頂に立つ藩主になったとして、

 この店主のような者たちに何をしてやれるのだろうか。  

 

 答えはまだ、霧の向こうだ。  

 

 だが、勘太の言動をこの帳簿越しに追っていけば、いずれ何かがわかるような気がした。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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