閑話:影の執筆者(コンサルタント)の独白
宝暦十三年(一七六三年) 初春 蝦夷地・宗谷コタン
川辺の冷気を連れたまま、チセに戻ってもなお、それは肌に張り付いて離れなかった。
囲炉裏の火は小さく爆ぜ、エカシたちもすでに遠い夢の底へと沈んでいる。
隣では、薬草の香りをかすかに纏ったリラが、規則正しい寝息を立てていた。
俺は毛皮に身を包み、暗い天井を見つめた。
意識が冴え渡り、心臓の鼓動がやけに大きく耳の奥で鳴っている。
――死ぬかと思った。
毛皮に包まった指先が、今さらになって細かく震え出した。
川辺で「止めるなら今ですよ」とセタリさんに告げたあの瞬間。
俺は、本気で死を覚悟していた。
あの時、セタリさんから放たれた殺気は、
かつて対峙したオオカミの群れなど比較にならないほど鋭く、重かった。
マキリで首を撥ねられるか。
心臓を一突きにされるか。
あるいは、抵抗する間もなく首の骨をへし折られるか。
どのやり方であれ――
俺に抗う術など、一ミリも残されていないことは明白だった。
息絶えた俺は、そのまま冷たい川面に沈められる。
浮かび上がることもなく、誰にも知られず、ただ消える。
そんな光景が、まるで既に決まっている未来のように、脳裏に焼き付いた。
背骨の内側に氷を流し込まれたような感覚が走り、
喉の奥がひくりと引き攣る。
あれは、命懸けの賭けだった。
「支配」を口にする悪魔を、英雄が斬るか、それとも受け入れるか。
もし、彼が俺の首を刎ねることを選んでいたとしても、俺は彼を恨まなかっただろう。
それほどまでに、俺が語った真意は独善的で、醜悪なものだったからだ。
だからこそ、彼が俺を「悪魔」と呼びながらも、
その運命を共にすると決意してくれたあの瞬間――胸の奥でダムが決壊したような、
凄まじい安堵が押し寄せた。
助かった。
身体的な死を免れたことへの安堵ではない。
俺の孤独な狂気を、受け止めてくれる「共犯者」を得られたことへの、震えるような救いだった。
彼は俺の手を握り、俺を「悪魔」と呼びながらも、その運命を共にすることを決意してくれた。
――重い。
胸の奥に沈むそれは、言葉にするまでもなく、圧し掛かってくる。
息を吐いても、少しも軽くならない。
正直に言えば、重すぎる。
俺一人が勝手に野望を語るのとは訳が違う。
人一人の人生を巻き込んだ以上、もう“失敗しました”では済まない。
だが、引き返すつもりはない。
――だからこそ。
彼が、どこまでそれを受け止めたのかが気にかかる。
先ほど、川べりでセタリさんに明かした俺の真意。
彼はどこまで信じただろうか。
嘘はついていない。
だが、話していないこともある。
――いずれ来る「天明」の地獄。
あれを知っていて、全部話す馬鹿はいない。
パニックを起こすだけだし、何より――説明が面倒すぎる。
……それに、実を言えば、俺自身もすべてを正確に把握しているわけではないのだ。
前世で歴史の専門家だったわけでもない。
学校で習った程度の浅い知識しか持ち合わせてはいない。
「天明の大飢饉」という名称と、
それが一七八〇年代の初頭に起こるという大まかな年表だけだ。
具体的に何月何日に浅間山が噴火するのか、
いつ、どこで、どれほどの雨が降り、
どの程度の冷害が続くのか。
そんな詳細なデータまでは持ち合わせていない。
わかっているのは、防ぎようのない天災が――間違いなく来る、ということ。
そして、今のままの体制では、この地の人間は全滅に近い被害を受ける、ということだけだ。
それ以上は、何一つ確かなことはない。
不完全な予言ほど、人を狂わせるものはない。
……いや。
違うな。
問題は、そこじゃない。
単純に――俺が、怖いだけだ。
全部話せば、この絶望的なカウントダウンを、あんなに真っ直ぐな男にまで背負わせることになる。
十九年後。
積み上がる死体と、崩れ落ちるコタン。
それを「未来だ」と言い切り、逃げ場もなく突きつける。
あやふやな予言者として、それでも信じろと強いる。
そんな真似をする覚悟が――今の俺には、まだない。
---
転生した直後、俺はこの圧倒的な知識格差を武器に、
自分一人が贅を尽くして成り上がる未来を本気で描いていた。
――馬鹿だった。
浅はかなのにもほどがある。
この時代、個人でいくら稼いだところで、そこに継続性も安全性も存在しない。
例えば百両。
千両。
あるいは万両。
仮にそれだけの富を積み上げたとしても、それを守る「仕組み」がなければ一晩で全てが終わる。
幕府という巨大な暴力装置。
松前藩という強固な身分の壁。
こいつらは、近代的な合理性や所有権の概念なんてお構いなしに、
土足で踏み込んできて全部持っていく。
「棄捐令」なんて、その最たる例だ。
「今日からお前の貸した金はチャラな。異論は認めない」
はい終了。
商人の資産、一瞬で蒸発。
ふざけているのか。
現代なら大炎上どころか、内閣が十回は吹っ飛ぶレベルの超法規的略奪だ。
……いや、まあ、この時代にSNSがあったところで、翌日には「不敬罪」で全員打ち首、
炎上の物理的な消火活動が始まるだけか。
余計に地獄だな。
とにかく。
「個人で稼ぐ」という戦略は、この封建社会においては完全に詰んでいる。
金という「動産」は、権力という「暴力」の前ではあまりに無力だ。
だが、恐ろしいのは「上」からの略奪だけじゃない。
「横」や「下」からの暴力だって、この時代には日常茶飯事だ。
どれだけ蔵を金銀で満たしたところで、
飢えた群衆が「一揆」という名の暴力となって
押し寄せれば、頑丈な門など一溜まりもない。
打ちこわしの喧騒の中で、積み上げた財産は文字通り灰に帰す。
あるいは、街道をゆく商人を狙う野盗や強盗。
法による統治が届かない場所では、一振りの刀の重さが、
俺の持つ万両の価値を軽々と上回ってしまう。
この時代、個人が所有する「富」は、あまりにも脆い。
金を持っていることは、それだけで「奪うべき獲物」であるという標識を掲げているようなものだ。
強固な壁を築けば築くほど、外側からは「中にはさぞかし宝があるのだろう」と火を放たれる。
さらに、何より厄介なのが「内部」の不条理だ。
金を守るために番人を雇えば、その番人に寝首を掻かれるリスクを背負う。
前世で聞いたことがある。
豪商の蔵が襲われた際、最も信頼されていたはずの古参の奉公人が、
実は盗賊団の内通者だったという話を。
夜陰に乗じて内側からかんぬきを外し、主の一族が眠る奥の間へ凶刃を引き入れる。
昨日まで忠誠を誓っていたはずの男が、一攫千金の誘惑、
あるいは何らかの弱みを握られた結果、最大の「脆弱性」へと豹変する。
「人は裏切る」
それを前提にしない仕組みなんて、
この時代では自殺行為だ。
つまり、ただの「金持ち」になることは、全方位から狙われる標的になることと同義だ。
幕府には「公」の名で、
一揆には「義」の名で、
強盗には「欲」の名で
――結局のところ、誰もが俺の富を掠め取る正当な理由を見つけ出してしまう。
ふざけている。
「努力して稼いだ結果」を守るためのセキュリティコストが、収益を上回る。
そんな「個人経営」のモデルは、この封建社会においては完全に詰んでいるのだ。
……かといって、じゃあ誰も信じずに一人で全てを背負い込めるかと言えば、
そんなのは傲慢な絵空事でしかない。
この広大な蝦夷地で、たった一人で何ができる?
帳簿をつけ、交渉し、荷を運び、背後を警戒する。
それを二十四時間、三百六十五日、死ぬまで一人で完璧にこなすなんて、
聖徳太子でも不可能だ。
結局、何かを成し遂げるには、誰かに背中を預けなきゃならない。
だが、預けた背中を刺されるリスクは常に付きまとう。
信じなければ組織は動かず、信じすぎれば足元を掬われる。
「どうしろっていうんだ」と、暗闇の中で吐き捨てたくなるような、出口のない二択だ。
前世のコンサル時代、何度も見てきた。
粉飾決済、横領、情報の持ち出し。
それを行ったのは、決まって「最も信頼されていた人間」だった。
裏切りとは、信頼というコストを支払った代償として返ってくる最悪のリターンだ。
……だから、俺は「心」を信じるのをやめた。
代わりに信じるのは、強固な「利害の一致」だ。
だが――。
それでも、理屈を超えて「信じなければならない瞬間」というのは、どうしても存在する。
どれほど精緻な仕組みを組み上げ、利害の網を張り巡らせたところで、
そのシステムを動かす「最初の鍵」だけは、誰かの手に預けなければならない。
だからこそ、俺は今日、このタイミングでセタリさんを試したのだ。
『俺を止めるなら今ですよ』
あの言葉は、単なる挑発じゃない。
俺の全存在、俺が描く未来の全てをチップとしてテーブルに積み上げた、
正真正銘の命懸けの博打だった。
もし、利害だけでつながる「悪魔」であることを彼が拒絶したのなら、
そこで俺の歴史改変は終わりでいい。
そう思えるほど、セタリさんは俺にとって「仕組み」の根幹だった。
彼のマキリが俺を貫かず、その大きな手が俺の肩を抱いたとき。
俺はようやく、この不透明な時代で「人を信じる」ための、最低限の切符を手に入れたのだ。
だが、だからといって、明日から全員を無条件に信じられるほど俺の心は強くない。
むしろ逆だ。
セタリさんという唯一無二の「例外」を繋ぎ止めておくためにこそ、
俺は、彼以外の全てを冷徹な合理性の檻に閉じ込めなければならない。
彼との絆という、脆く不確かな「一点」に全てを委ねるわけにはいかないのだ。
この絆を壊さないために、俺は「裏切らないでくれ」と祈ることを、自分に禁じる。
代わりに、「裏切るよりも協力し続ける方が、圧倒的に得だ」という状況を、
逃げ場がないほど精密に作り上げる。
裏切った瞬間に、その人間が手に入れている全ての利益が崩壊し、
二度と再起不能になるような――そんな、冷徹で、かつ誰にとっても温かい「檻」を用意するのだ。
俺を刺せば、お前も死ぬ。
俺を支えれば、お前はどこまでも豊かになれる。
精神論や忠誠心なんて不確かなものに頼るから、寝首を掻かれるんだ。
裏切るインセンティブを、徹底的に潰す。
それが、一人の男に命を預けてしまった俺の、精一杯の強がりであり、
彼を破滅させないための誠実さなのだ。
「支配」とは、恐怖で縛ることではない。
「俺なしでは生きられない」という依存の網を、この広大な北の大地に広げることだ。
---
それにしても時間が足りない。
タイムリミットまで、あと十九年。
十九年で、経済圏を構築し、政治に食い込み、外敵を抑止する?
無理だろ普通。
飢饉、延期してくれないかな。
してくれるわけないか。
誰に陳情したらいいんだよ。
せめて、生まれが大名とか将軍とかだったら全然違うのに。
蝦夷地の北の果ての漁師の子供ってハードモードすぎるだろう。
ブラック企業でももう少し余裕あるぞ。
……いや、なかったな。
俺の前世も大概だった。
ああ、思い出したくない。
零細企業の立て直し案件。
資金繰りは火の車、現場は疲弊しきった末期症状。
俺は身を削る思いで働いていた。
三日三晩、エナジードリンクとサプリメントだけで命を繋ぎ、
エクセルと格闘し――。
それなのに、リストラした現場からは
「口だけコンサルが、現場も知らないくせに勝手なことしやがって」と罵倒され、
肝心の経営陣からは「コンサルのくせに態度がでかい」と陰口を叩かれる。
結果が出れば経営陣の手柄。
悪くなればコンサルの責任。
「部外者」というレッテルを貼られ、どれだけ誠意を尽くしても、最後には疎まれて終わる。
そんなギリギリの精神状態で、ようやく……ようやく黒字化の形にしたんだ。
そんな地獄を抜けても、最後に勝つのは「力」を持っている側だった。
これで救われる。
そう確信した矢先のことだった。
――大手に買収。
はい、終了。
経営陣は一瞬で退場させられ、俺が心血を注いだ現場は効率化の名の下に解体。
俺の仕事?
「御苦労様、あとはこちらで適当にやるから」で、知るか、だ。
……あれは、きつかったな。
囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。
あの時、骨の髄まで理解したんだ。
「正しいこと」を積み上げても、それだけじゃ報われない。
「勝つための力(政治力)」を持っていなければ、
他人の引いたレールの上で踊らされるだけで終わるんだと。
……はあ。
……思い出しただけで、胃が軋む。
なんでこんなことやってるんだ俺は。
ただ、普通に生きたかっただけなのに。
飯食って、寝て、たまに酒飲んで、適当に仕事して。
そんな人生でよかったのに。
気づいたら、蝦夷地支配とか言ってる。
意味がわからない。
……本当に、意味がわからない。
誰か止めろよ。
……いや、止められたら困るんだけど。
大体、俺以外誰も締め切りに気づいていない。
だから、温度感が致命的にズレている。
十九年後。
すべてが灰燼に帰す地獄が来るというのに、
周りの連中は、今日の飯と明日の天気の話をしている。
――当たり前だ。
知らないのだから。
そんな彼らからすれば、血相を変えて仕組み作りに奔走する俺の姿は、
奇異で、どこか滑稽な空回りにしか見えないだろう。
「子供なんだから、そんなに根を詰めずに遊んでいろ」
向けられるのは、悪意ではなく善意だ。
だからこそ、余計に質が悪い。
……腹が立って、仕方がない。
俺だって、好きでこんなことをやっているわけじゃない。
全部忘れて、ガキらしく泥にまみれて、笑って過ごしたい。
何も知らないまま、今日と明日だけを見て生きていたい。
前世の知識をほどほどに使って、
手近な利を拾い、そこそこ豊かに暮らして、
適当なところで折り合いをつけて生きる。
――その方が、どれだけ楽で、どれだけ幸せか。
それでも。
リラが笑って、
セタリさんが胸を張って、
村の連中が冬を越せるなら。
――それでいい。
やるしかない。
「そこそこ」で満足して、死ぬ瞬間に「もっと備えていれば」と後悔するなんて、
――そんな転生、何の意味もない。
だから、俺は「悪魔」と呼ばれても、奇行を繰り返す狂人だと思われても構わない。
そもそも、過去に転生してる時点でまともなわけがない。
正気でいられるほうがどうかしてる。
ブラック企業顔負けのデスマーチだろうが、やってやる。
囲炉裏の火が、小さく爆ぜた。
その小さな音に、やけに現実へ引き戻される。
俺は目を閉じる。
休息は重要だ。
明日からも続くデスマーチに備え休まなければならない。
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