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第79話:悪魔の告白――蝦夷地の理を握る者

 宝暦十三年(一七六三年) 初春 蝦夷地・山間のコタン


 会合という名の嵐が過ぎ去り、俺たちは懐かしい宗谷の空気に包まれていた。

 チセの中では、危機を脱した安堵からか、エカシたちの談笑がいつまでも続いている。  


 だが、その喧騒を背に、勘太は俺の袖を無言で引いた。  

 その手の冷たさに、俺の胸の中で消えない火種がわずかに爆ぜた。


「ちょっと、どこに行くのよ」


 火の傍らで薬草を整理していたリラが、怪訝そうに顔を上げた。


「ちょっとお花を摘みにね」


「男二人で? こんな時間に? 

 ……まあいいわ、気を付けてね」


 勘太は適当な言い訳であしらったが、リラはすぐに興味を失ったように作業に戻っていった。  

 その何気ない日常の光景が、今の俺にはひどく遠い場所のことのように感じられた。


 夜の帳が下り、コタンの火影が遠ざかる。  

 凍てついた残雪を踏みしめる音だけが、闇夜に孤独に響いていた。


 丘を下り、藪を抜ける。  

 足元が砂利に変わると、前方に川の白い光が見えてきた。


 月を映した川面が揺れ、波に砕けては消える。  

 その水際で、ようやく勘太が足を止めた。


 空を見上げ、月を眺めている。


「今日は月が......よく見えますね。  

 満月じゃないのが少し残念です。  

 まあ、欠けているのも風情がありますけどね」


「そうだな」


 月を見ているのか、考え込んでいるのか分からない。  

 ただ、話しにくそうにしていることだけは分かった。


 やはり、そう簡単に口にできる類のものではないのだろう。  

 だが、ここまで来たということは、話す覚悟があるということだ。


 向こうが切り出さないなら、こちらが切り出すしかない。


「なんでここなんだ? チセなら床暖房もある。わざわざ冷える川辺に来なくても……」


 俺が問いかけると、勘太はゆっくりと振り返る。


 その瞳には、あの会合で見せた「商人の冷徹さ」ではなく、

 もっと深くて暗い、正体不明の光が宿っていた。


「ここなら、誰かが近づけば音でわかりますから。

 ……これから話すことは、他の人にはまだ聞かれたくないんです」


 勘太の声は、川のせせらぎに混じって低く、重く響いた。


---


 俺は息を呑み、勘太を真っ直ぐに見据える。


「……わかった。じゃあ、話してくれ。

 お前が何を見据えて、この地で何をしようとしているのか。あの約束の答えを」


 勘太は一度、夜空を仰いだ。

 そして、覚悟を決めたように視線を俺の目に固定する。


「俺は、この地の掟を作る側に立ちたい」


 視線を外さずに続ける。


「――そのために、この蝦夷地の長になるつもりです」


「――なっ!?」


 言葉が喉に詰まる。


 蝦夷地の長。


 この大地を――この子供が?


「松前を敵に回すというのか? それこそ戦になるぞ」


「戦にはなりません」


 即答だった。


「力で奪う必要がないからです。

 経済と情報で、この地の“ことわり”を書き換える」


 静かに、言葉を落とす。


「そうすれば――争う必要そのものが消える」


 わずかに目を細めた。


「その上で、俺にとって都合のいい形に整えるだけです」


 勘太は、まるで明日の天気でも語るかのように淡々と、だが揺るぎない確信を持って言い放った。

 背後の川の音が、やけに大きく響く。


 この少年の背負っているものの正体。


 それは、理想でも、夢でもない。


 ――この地の仕組みそのものを書き換え、支配するという意思だった。


「すでにその例をお見せしてますよ。あの会合がそうです。

 俺は矢の一本も撃ってません。


 それでも――宗谷周辺のコタンは、もう俺の裁量の内側にある」


「……言い過ぎだ」


 勘太の笑みが、わずかに歪んだ。


「結局、俺の匙加減次第じゃないですか?

 あの仕組み。

 なんなら数字をいじって懐を肥やすのも容易です。

 よほどあからさまにやれば気づくでしょうがね」


「皆をだましたのか?」


「そうですね。嘘はついてませんが、誘導はしました。

 それを騙すというなら騙したんでしょう」


「それを騙すというんだ」


「まあそんなのは大した問題じゃないです。

 だってそうでしょ?今だって、散々絞られているでしょう。

 

 その相手が和人から俺に変わるだけですよ

 むしろ俺のほうが控えめな分お得なぐらいです」


「そういう問題じゃない」


「それに、気づいていないようですが――  

 窓口を俺に任せるというのは、  

 自分たちの財布のひもを俺に渡すということです。


 財布のひもを握られるというのは、生きるかどうかを決められるのと同じです。

 つまり宗谷周辺のコタンは、実質的に俺の支配下に入ったも同然なんですよ」


「な、そんなわけあるか」


「そうですか?  

 じゃあ皆がこの仕組みに頼りきりになったころ、  

 俺が“言うことを聞かないコタンは除外する”と言い出したらどうします?


 逆らえます?  

 他のコタンはそれに賛同しないと思います?


 むしろ――  

 “逆らったコタンの取り分を、従うコタンに回す”と言えば、  

 皆、喜んで俺の側につくでしょうね」


「それは」


「そうでしょう?あのゴゥドルのような者にさえ、実権を渡そうかというほど追い込まれているんです。

 他のコタンの面倒まで見ていられるほど余裕があるはずがない」


「ぐ」


言葉が出ない。


「どうしますか?  

 止めるなら今ですよ。  

 誰も見ていない。  

 あなたなら、文字通り赤子の手をひねるようなものでしょう」


 計画はすでに動き始めている。  


 ここで降りるなど、できるはずがない。  


 そんなことをすれば、俺の居場所はなくなる。  

 俺だけじゃない。  

 リラや他の家族、宗谷コタンの皆まで責められるだろう。


 そして――  

 こいつはそれを分かった上で、今この言葉を口にした。


 試している。  

 

 俺がどこまで腹を括れるかを。


 こんなとき、こいつならどうする?  

 利と損を比べ、迷いなく“利の多い方”を選ぶだろう。


 では、俺はどうする。


 ――考えるまでもない。


 家族を守る。  

 それが、俺が何よりも優先することだ。


 ……そう思おうとした。  

 だが、脚がわずかに震えているのが自分でも分かった。  


 胸がざわつき、手のひらが汗ばむ。  

 獣なら迷わず仕留められる。  

 だが、人間に手をかけるのは――初めてだ。


 もし踏み出せば、もう戻れない。  

 それでも踏み出さなければ、守れない。  

 その二つの思いが胸の中でぶつかり合い、息が詰まる。


 長い沈黙のあと、ようやく脚に力を込めた。  

 勘太に手をかけるために。

 

『次からは走り出す前に、一呼吸だけ考えてください』


 いつかの勘太の言葉が、脳裏に浮かんだ。


 一呼吸。


 よく見ると、笑みを浮かべている勘太の肩が、わずかに震えていた。


 もう一度考える。


 本心を明かせば、俺がこういう行動に出ることは予想できたはずだ。  

 それでもこいつは約束を守った。


 もっと自分の安全に配慮した場を整えることもできた。  

 自分に有利なカネクルの拠点で呼び出せば、俺は手出しできなかった。


 ただの誠意で済むはずがない。  

 

 ――いや、違う。


 こいつは、俺に“踏み込ませようとしている”のか。


 そう思った瞬間、ふと脳裏に浮かぶ。


 一年前、あの夜、この場所で。  

 俺が何を思い、こいつが何と言ったのか。  

 そして、その発端となった、あの勝負。


 あの時、俺は自分の武力を過信し、こいつに負けた。  

 そして今、俺は何をしようとしている。  

 こいつは、この一年で何をしてきた。


 出来事が走馬灯のようにめぐる。  

 そして、ついさっきのやり取りが蘇る。


 力で奪う必要はない。


 “ことわり”を書き換える。


 争う理由そのものが消える。


 こいつが理を書き換えれば、  

 俺がこいつを手にかける理由も消える――そういうことか。


 足の震えが止まり、全身から力が抜けた。  

 これは、こいつなりの“試し”だったのか。


 この一年で、俺がどう変わったのかを確かめるための。


「これがお前の言っていた、“誰にも負けない力”というやつなのか」


 勘太の笑みが消え、震えも止まった。


「……その通りです。これぐらいやらないと幕府には対抗できません。  

 嘘をつかずに騙す。  

 騙されていることに気づかなければ、人は幸せでいられる。  

 ――悪魔的でしょう?」


「そうだな。  

 馬鹿正直にすべてを伝えて破滅するより、秘密を墓まで持っていくほうがいい」


 俺の答えを聞いた勘太は、ゆっくりと口角を上げた。

 その笑みは――かつて、この場所で見たものと同じ、不気味な三日月だった。


「素晴らしい。  

 それでこそ――俺が見込んだ英雄です。」


 英雄か。  

 俺はシャクシャインのような英雄になりたかった。


 だが、力を求めた結果、  

 気づけばその真逆の存在に魂を売ってしまったのかもしれない。


 それでも――  

 シャクシャインのようにはなれなくとも、  

 皆を守ることだけはできるかもしれない。


 この蝦夷地を統べると豪語する、この“悪魔”から学んだ力を使えば。


 それにしても、それなりに深い関係を築いていたというのに、

 こんな秘密を隠していたとは……。


 正直、少しやり返してやりたい気持ちがあった俺は、  

 かつてこいつが漏らした独り言を思い出し、意趣返しに使うことにした。


「それで――クナシリやメナシの問題も、ついでに解決してくれるのか」


不意を突かれた勘太が、わずかに目を見開いた。


「ど、どうしてセタリさんがそれを……」


「さあな。俺にだって、秘密ぐらいある」


「う、ぐぐ……」


「まあいい。用は済んだ。  

 冷えてきたし、帰るぞ」


「……はい」


 チセへ向かって歩き出す俺の背に、勘太が続く。


「ところで、『悪魔』というのはどういう意味だ。  

 なんだかろくでもないもののような気がしているんだが」


「ああ、『悪魔』というのはですね……」


 勘太の説明を聞き、俺は納得した。


「なるほど。まさにお前のようなやつのことだな」


 俺の言葉に、勘太が笑った。  

 年相応の、ただの子どもの笑顔だった。


「ははは。誉め言葉として受け取っておきますよ」


 その夜、俺たちは――あらためて同じ側に立った。

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