第78話 ゴゥドル失墜――新しき理の誕生の夜
宝暦十三年(一七六三年) 初春 蝦夷地・山間のコタン
勘太が俺の横に並び、一歩前へ出た。
その瞬間、チセを支配していた静寂が、沸き立つようなざわめきへと変わった。
「ふん、何を言い出すかと思えば……」
ゴゥドルが、鼻で笑いながら周囲を見渡した。
「皆、騙されるな。そいつはアイヌの衣を着てはいるが、中身は和人の小僧だ。
……エカシ、正気を疑うぞ。一族の命運を決める場に、なぜ敵(和人)の子供を招き入れた!」
その言葉に、他の長たちからも「そうだ」「和人の言葉など信用できるか」
と同調する声が上がり始める。
エカシが制止しようと口を開きかけたが、ゴゥドルはそれを遮るように声を張り上げた。
「エカシも焼きが回ったか、あるいはこの小僧に何か弱みでも握られたか!
でなければ、こんな理にかなわぬ真似をするはずがない!」
根も葉もない出鱈目だ。
だが、疑心暗鬼に陥った長たちの目には、その言葉が毒のように染み込んでいく。
俺はたまらず一歩踏み出し、場を収めようとした。
だが、その時だった。
「……話だけでも聞こうではないか」
声を上げたのは、宗谷原の長だった。
続いて、宗谷奥の長も重々しく頷く。
「セタリが身を削って集めた記録だ。
その知恵袋が何を言うのか、聞かずに追い返すのはあまりに度量がない」
有力な二人の言葉に、騒ぎ立てていた長たちが渋々と口を閉ざす。
空気が落ち着くのを待って、勘太がようやく口を開いた。
その声には、怒りも焦りも、感情の一切が混じっていなかった。
「私の出自など、この際どうでもいいことです」
勘太は、ゴゥドルを視界にすら入れず、淡々と言い放つ。
「話を聞く気がない方は、どうぞこのまま退席してください。
私は、興味のある方にだけお話しします。
……もしこの場に私がいるのが問題だと言うなら、日を改めて個別にお伺いしても構いません。
無理にここで話すつもりはありませんので」
「……っ、ならばさっさと出て行け!」
ゴゥドルが叫ぶが、宗谷原と宗谷奥の長、さらに数名の長たちが首を振った。
「いや、俺たちは今聞きたい。後で個別に予定を決めよう」
勘太は「承知しました」と短く応じ、背を向けて去ろうとする。
その徹底した「執着のなさ」に、逆に焦りを見せたのはゴゥドルの側だった。
「……待て! 待ちやがれ!」
自分のいないところで、有力な長たちが和人の小僧と密談を交わす。
それが何を意味するか、狡猾な彼には理解できたのだろう。
「俺のいないところで良からぬことを決められても困る。
……おかしなな真似をせぬよう、この場で話せ!」
勘太は、仕方ないという風に小さく肩をすくめ、再び火の側へと戻った。
俺が突き立てた板の横に立ち、説明を始める。
俺はその背後を壁のように塞ぐ。
「では、結論から述べましょう。我々が取るべき戦略は、三つの柱で成り立っています」
勘太は、俺が突き立てた板の図をなぞりながら、俺よりもさらに理路整然と言葉を紡いでいく。
「第一の柱は、窓口の一本化です。
……これは、先ほどゴゥドル殿が提案された通り、
バラバラに交渉せず、群れとして当たるということです。
――一人で値を決められる状況を、作らせない」
ゴゥドルが苦々しく顔を歪めた。
自分の主張を取り込まれたことで、否定する術を奪われたのだ。
「第二の柱は、情報の共有。
我々が配った紙と鉛筆を使い、全ての取引を可視化します。
誰が、誰に、いくらで売ったか――それが隠せなくなります。
商人の『嘘』が通用しない環境を作るのです」
「……それでは、抜け駆けができぬということか」
「その通りです。
そして――損をした者も、誤魔化せなくなる」
「そして第三の柱は、検品と備蓄。
質の悪い品は弾き、相場が悪い時は売らずに蓄える。
――安く買い叩かれること自体を、許さない。
……商人の都合ではなく、我々の都合で市場を動かす仕組みです」
「そんなことが……できるのか?」
誰かの呟きに、チセの空気がわずかに揺れる。
「だが、もし、そうなれば……」
「……興味深い」
長たちが、一人、また一人と身を乗り出し、勘太の言葉に呑み込まれていく。
そのあまりに完璧な「理」の前に、反論の余地などどこにもなかった。
だが、ゴゥドルは最後の悪あがきを捨ててはいなかった。
「……なるほど、理屈は分かった。
ならば、その『窓口』は実績のある俺が引き受けてやろう。
そんな和人の小僧に任せるより、長年商人と渡り合ってきた俺の方が適任なのは明白だ!」
長たちが揺れる。
確かに、和人の子供に全てを委ねるよりは、同族の有力者に任せた方が
安全だという心理が働いたのだろう。
その様子を冷めた目で見ていた勘太が、懐から一通の封書を取り出した。
「……迷っておられるようなので、判断材料を提供しましょう」
勘太は静かに封を開け、中の書付を取り出した。
そして、末尾に記された署名を、火の明かりの下に差し出す。
最も近くにいた長が、吸い寄せられるように身を乗り出し、その名を読み取った瞬間――
「……ま、松前……道広……!?」
声はかすれ、ほとんど悲鳴に近かった。
手から力が抜け、長の身体が崩れ落ちかける。
「何だと……?」
「今、何と……」
ざわめきが、波のようにチセの中を走る。
だが、誰もその書付に手を伸ばそうとはしない。
ただ、その名だけが、確かに全員に届いていた。
――松前道広。
その瞬間、場の空気が変わった。
火の爆ぜる音さえ遠のき、
言葉は凍りつき、
誰もが無意識に息を呑む。
それは、ただの名ではない。
蝦夷地における支配の根に連なる名だ。
松前藩の嫡男。
その署名が、いま、ここにある。
長たちは言葉を失い、ただ目を見開いたまま動かない。
そして――
ゴゥドルもまた、口を開いたまま、
何一つ言葉を紡げずに立ち尽くしていた。
「付け加えると、この書付を受け取る際に道広様と直に交渉を行ったのは、こちらのセタリ殿です」
勘太のその一言は、火に油を注ぐどころか、大チセ全体を爆心へと変えた。
長たちの視線が、一斉に俺に突き刺さる。
驚愕、戦慄、そして畏怖。
先ほどまで「世間も知らぬ若造」と見ていた彼らの目は、
今や得体の知れない怪物を仰ぎ見るような色に変わっていた。
「……セ、セタリが? 松前の次期当主、あの道広様と……直に?」
誰かが震える声で呟いた。
松前藩主・資広公の嫡男。
いずれ蝦夷地を担う立場にある存在だ。
商人が顔色をうかがい、役人が逆らえぬ相手。
その「血筋」と直接やり取りしたという事実は、
この場にいる者たちにとって、軽く見過ごせるものではなかった。
その衝撃は、ゴゥドルにとって致命的だった。
彼は自慢のマキリの鞘を握りしめていたが、その指先は目に見えて震え、
自慢の艶やかな衣も、今はただの飾りに見えた。
彼がどれだけ商人に贈り物を積み、媚びを売ろうとも、
次代の藩主との繋がりを持つ俺たちの足元にすら及ばない。
その差は、もはや埋めようがなかった。
「……さて。改めてお聞きします」
勘太は、凍りついたままのゴゥドルを冷徹に射抜いた。
「窓口は、道広様と直接の信頼を築き、その威光を背負う我々が担うべきか。
それとも、末端の商人に小銭を握らせ、顔色を窺うのが精一杯のゴゥドル殿に任せるべきか。
……どちらが皆さんの『未来』を救うか、もはや考えるまでもないでしょう」
ゴゥドルは、喉をひくりと鳴らしたが、もう「若造」と罵る言葉すら出てこない。
彼は救いを求めるように周囲を見渡したが、さきほどまで彼の言葉に揺れていた長たちは、
すでに目を逸らしていた。
それどころか、宗谷原の長をはじめとする有力者たちは、深く、恭しく俺たちに向かって頷いていた。
「勝負あったな」
影の中に座るエカシが、満足げに目を細めた。
ゴゥドルは視線を地に落とし、チセの隅へと追いやられた敗残兵のように見えた。
だが、そこで勘太は追い打ちをかけるのをやめた。
ふっと表情を和らげ、まるで親しい友人に語りかけるような、穏やかな声を出した。
「……もっとも、ゴゥドル殿」
勘太は、一歩だけゴゥドルに近づいた。
「あなたが仰った『窓口の一本化』は、極めて正しい。
そして、各地の商人と長年渡り合ってきたあなたの『経験』と『顔』は、
我々のような若造にはない貴重な財産です。
……それをこのまま腐らせるのは、宗谷全域にとっての損失ではないでしょうか」
意外な言葉に、ゴゥドルが顔を上げた。
「……何……?」
「商人との交渉そのものは我々が行います。
あなたにお願いしたいのは、その交渉が『壊れないように現場を整えること』です。
相手の癖を読み、余計な摩擦を消し、取引を成立させ続ける。
その現場判断には、あなたの経験が必要なのです」
勘太は、懐からもう一枚の紙を取り出し、ゴゥドルに手渡した。
そこには、新しく設立される「仕組み(シクミ)」における、ゴゥドルの役割が記されていた。
「もちろん、その務めに見合うだけの“取り分”は保証します。
贈り物を積み重ね、その場の機嫌で左右されるやり取りではありません。
これより相定める一定の口銭をお支払いする形です」
ゴゥドルの喉が大きく鳴った。
このまま引き下がれば「見栄っ張りの愚か者」として失脚する。
だが、勘太の提案に乗れば、藩主と繋がる者と縁続きになる。
面目を保つどころか、さらに大きな利権を手にできるのだ。
「……お、俺に、それをやれと?」
「ええ。――断ることもできます」
一瞬、チセの空気が張り詰めた。
「その場合は、この仕組みから外れていただくことになるだけです。
……あなたが、これまで通り商人と渡り合えるのなら、それでも構いませんが」
ゴゥドルの体は小刻みに震えていた。
周囲を見渡す。
だが、誰一人として視線を合わせようとはしなかった。
「ただ、あなたにしかできない仕事です、ゴゥドル殿。
……いかがですか? 共に、この蝦夷地の理を書き換えようではありませんか」
ゴゥドルは震える指で紙に手を伸ばした。
一瞬――その動きが止まる。
ゴゥドルの肩が、音を立てて落ちた。
その瞬間、彼は“長”ではなく、ただの一人の男に戻った。
そして、観念したように、それを受け取った。
――逆らってはならない。
そう理解してしまった者の顔だった。
「……わかった。そこまで言うなら、協力してやらんこともない」
絞り出すような承諾。
チセの中に、安堵の溜息が漏れた。
緩んだ空気の中、いつの間にか勘太の傍ら、
俺と対になる位置に腰を下ろしていたリラが、止めとばかりに動いた。
マキリの柄を指先で弄びながら、鈴を転がすような声で問いかける。
「……勘太。その理屈は、森の神にも通るの?」
俺は、勘太が答えるより先に低く応じた。
「通るさ。こいつが言うならな」
俺が口を開いた瞬間、車座になっていた長たちの肩が、びくりと強張るのが見えた。
誰も、もう口を挟まなかった。
勘太は、板をリラの前に差し出した。
「神様への捧げもの(カムイノミ)も含めて計算済みだ。
……さあ、始めようか。俺たちの第二創業だ」
勘太は炭を手に取ると、板に書き込まれた会合に参加しているコタンを、
一つの大きな円で一気に囲んでみせた。
(……演技が過剰じゃないか?
……第二創業?
宗谷で始めたあれを“第一”とするなら——
こいつは、本気で蝦夷地全体を一つの商いにするつもりなのか……?
……いや、違う。もう、始まっていたのか)
俺の内心の動揺を余所に、一人の長が「試してみよう」と声を上げ、それが次々と連鎖していく。
最後には、ゴゥドルまでもが、喜色に満ちた声で賛同を口にした。
全会一致。
春の雪解けと共に、蝦夷地の「血管」、
——情報と物流を支配する網が、静かに、しかし確かに脈打ち始めた。
---
会合の熱狂が冷めやらぬまま、俺たちは山間のコタンを後にした。
踏みしめる雪は水分を含んで重く、だが俺の心は、
先ほどチセの中で繰り広げられた「理の書き換え」の余韻で、見たこともないほど高揚していた。
背負った巨大な木の板の重みさえ、今は心地よい。
ふと、隣を歩く小さな影に視線を落とした。
八歳の子供の歩み。
だが、その足跡は、蝦夷地の未来を踏み固めているように見えた。
「……勘太。一つ聞いてもいいか」
「なんです? セタリさん」
勘太は前を向いたまま、事もなげに問いを返してきた。
「ゴゥドルのことだ。あいつは和人の商人と通じて、自分だけ得をしようとしていた男だぞ。
……本当に協力者として引き入れて、大丈夫なのか? 下手をすれば、また裏で糸を引かれかねない」
当然の懸念だった。
あんな油断のならない肉食獣を身内に置くのは、火種を抱え込むようなものだ。
「ああ、彼ですか。……心配いりませんよ」
勘太の笑みは柔らかかった。 ……だが、その奥にある何かは、俺には読み取れなかった。
「むしろ、彼のような人間こそが必要なんです。
彼は『利』に敏い。和人の商人の汚い手口を誰よりも熟知し、それを利用してきた。
……その知識は、これから始まる『検品と備蓄』の現場で、最高の防波堤になります」
「毒を以て毒を制す、ということか」
「ええ。それに、もし他に『裏切り者』が出た場合、まず彼に接触を図るはずです。
彼を監視下に置いておけば、内部の不穏な動きをいち早く察知できる
……いわば、最高級の『検知器』でもあるんですよ」
「……どこまでも合理的だな、お前は」
「失脚させて敵にするより、利権と恐怖という鎖で繋いで走らせる方が、はるかに効率的でしょう?」
合理的すぎる答えだ。
勘太にとって、ゴゥドルすらも「仕組み」を回すための部品の一つに過ぎないのだろう。
俺は小さく息を吐き、視線を空に向けた。
そして、胸の奥にずっと燻っていた「あの言葉」を口にする。
「……わかった。それから勘太。会合は終わった。……約束、覚えてるな?」
会合前に交わした約束。
こいつが隠している「本当の目的」を聞くという約束だ。
勘太は足を止め、一瞬だけ俺を見上げた。
「……もちろんです。忘れていませんよ」
その表情は、先ほどまでの冷たい商人のものではなく、
冬の間、共に囲炉裏を囲んでいた頃の「子供」の顔に戻っていた。
「宗谷コタンに帰ったら、全部お話しします。……俺が、何を見据えてこの地に来たのかを」
勘太は再び前を向き、歩き始めた。
その背中は相変わらず小さかったが、そこには蝦夷地の、
いや、この国の歴史全てを背負うような、途方もない覚悟が宿っているように見えた。
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