第77話 春の雪解け、古い理の崩れる音
宝暦十三年(一七六三年) 初春 蝦夷地・宗谷コタン
大チセの中は、冬の間に積もり積もった鬱屈が、焚き火の煙と共に天井へとぐろを巻いていた。
十数名の長たちが放つ威圧感は、物理的な重みとなって俺の肩に食い込んでくる。
冬の間に仕立てた上等な衣が、今の俺にはひどく薄い鎧のように感じられた。
誰も、すぐには口を開かない。
ただ、回し飲みの椀が静かに、重々しく円を描くだけだ。
「……カネクルの連中が、また値を下げてきた」
低く、地を這うような声が沈黙を破った。
「どれくらいだ」
「去年の半分だ。鮭も、鹿皮も……」
「半分……だと?」
あちこちで、小さく息を呑む音が重なる。
勘太の「収奪の地図」に刻まれていた数字が、当事者たちの生々しい絶望となって目の前に現れる。
俺の心臓が、衣の下で早鐘を打った。
「嘘だろう」
「……俺のところも同じだ。数を増やせと詰め寄られるばかりで、手に入る鉄は一向に増えねえ」
「売らなきゃいいじゃないか」
どこからか、若い声が落ちた。
だが、それはすぐに老いた溜息にかき消される。
「その間の鉄はどこから来る? ……鍋も刃も持たぬまま、次の冬を越せと言うのか」
逃げ場のない沈黙。
それがこの場を支配する「正解」になりかけた、その時だった。
「……ずいぶんと、情けない話だな」
鼻で笑うような声が、場の端から割って入った。
一斉に視線が集まる。
そこにいたのは、一際身なりの整った男だった。
毛皮は艶やかで、縫い目の一つひとつまでが細かい。
腰に差したマキリの鞘は、わざと見せびらかすように囲炉裏の火を反射して鈍く光っている。
男はわざとらしく、遅れて椀に口をつけた。
まるで、自分だけが一段高い場所からこの惨状を眺めているような、傲慢な顔で。
「うちはな」
ゆっくりと椀を置く。
「例年より、高く買ってもらえたぞ」
一瞬、チセの中の音が消えた。
火の爆ぜる音さえも、遠のいた気がした。
「……なんだと?」
「どこの商人だ。カネクルか?」
「ああ、そうだ」
男は退屈そうに答える。
詰め寄る他の長老たちを、足元の虫でも見るかのように。
「何をした」
「どうやって値を上げたんだ」
男は小さく肩をすくめた。
一拍置いて、勝ち誇ったように笑う。
「別に大したことじゃない。……『贈り物』をしただけだ」
空気が、ぴたりと止まった。
「酒と、質の良い毛皮をな」
男は指先で、自分の衣の縁をなぞった。
「この程度の物も用意できないのか? ……向こうも人だ。
何も持ってこない奴より、話を聞くのは当然だろう」
「……それは、ただ媚びを売っているだけだろう」
誰かが低い声で吐き捨てた。
だが、男は柳に風と受け流す。
「だからどうした? 結果が出ている。……お前たちは何だ。
何も渡さず、ただ言われた値に頷いて、『下げられた』と騒ぐだけか」
「……言い方があるだろうが!」
「馬鹿馬鹿しい。優しく言っても値は上がらん」
焚き火が、パチリと大きく弾けた。
「誇りだの何だの言っている間に、手元の鉄は減っていく。
……誇り(アイヌ・イタッ)で、冬は越せんのだよ」
淡々と、残酷な事実が突きつけられる。
誰も言い返せない。
正しい。
理屈は通っている。
だが、喉元に煮え湯を注がれたような、嫌な熱さが腹の底に溜まっていく。
「……で、どうするつもりだ。それを全員にやれと言うのか」
「違う」
男は首を振り、ニタリと口角を上げた。
「そんなことも分からんのか。……『まとめろ』と言っているんだ。交易をな」
ざわ、と空気が波打つ。
「バラバラに行くから叩かれる。贈り物も、出す量も、値も、全てを揃えるんだ。
……そのくらい、誰かが音頭を取らねば、話にならんだろう」
視線が交差する。
苛立ち。
反発。
そして、この絶望的な状況から救い出してくれるのではないかという、身勝手な期待。
「……誰がやるんだ。そのまとめ役を」
低く問われた声に、男は待っていましたとばかりに応じた。
「俺だ。この俺――ゴゥドル様が代表になってやろう。
……少なくとも、お前たちよりは上手くやれる自信がある」
その言い方は、相談でも提案でもなかった。
弱った群れを支配しようとする、肉食獣のそれだった。
火が爆ぜる。
空気が、鉛のように重く沈む。
隣に座る勘太を見る。
……奴は、微動だにしていない。
だが、囲炉裏の火を映したその瞳が、獲物を罠の入り口へと誘い込んだ猟師のように、
冷たく、冴え渡っているのが分かった。
(……頃合いだな。)
勘太がエカシの背に触れ合図を送る。
エカシがゆっくりと口を開いた。
「——待たれよ」
しわがれた、だが重みのある声がチセに響く。
「話を進める前に、一つ。……今回の会合には、宗谷の将来を担う若者も連れてきている。
そやつに、少し話をさせてもらいたいのだが、構わんか?」
一斉に、戸惑いの視線が俺へと向いた。
先ほど代表に名乗りを上げたゴゥドルが、鼻で笑う。
「若者だと? エカシ、ここは遊び場ではないのだ。
一族の命運を決める席に、世間も知らぬ若造を立たせて何になる」
「まあ、そう言うな。こやつは昨年、この周辺のコタンを回い、
皆のコタンの窮状をその目で見てきた男だ。
中には顔を見知った者もいるだろう?
……座興にしては、少々重い土産を持ってきているようでな」
エカシが俺を顎でしゃくった。
それが、開戦の合図だった。
俺は音を立てぬよう、だが力強く立ち上がった。
勘太に叩き込まれた「歩き方」で、一歩、中央の火の側へと踏み出す。
英雄の衣が火に照らされ、文様が生き物のように蠢いた。
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「……失礼する」
俺は、後ろに置いていた巨大な木の板を、囲炉裏のすぐ脇にドスンと音を立てて突き立てた。
火の粉が舞い、長たちの眉が跳ねる。
「なんだ、その汚い板は」
「俺が、皆さんのコタンを回って集めてきた『真実』の欠片だ」
俺の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
勘太の練習で枯れるまで出した声が、自然と腹の底から響く。
「さきほど、代表に名乗りを上げたそちらのゴゥドル殿は仰った。
……『贈り物をすれば、値は上がる』と。だが、本当にそうだろうか?」
俺は板を覆っていた布を、一気に剥ぎ取った。
「見てほしい。これが去年の、各コタンの取引の流れだ」
赤々としたベンガラの線が、巨大な地図となって浮かび上がる。
長たちが、身を乗り出した。
「この赤い矢印は、俺たちのコタンから出された獲物の行く先を示している。
そして、その先の和人の元から、どの程度の鉄や米が返ってきたのか。
……その実態を、隣に記した『数(数字)』が語っている」
俺は板に近づき、特定の二つのコタンを繋ぐ線を指でなぞった。
「矢印が向かう先は同じ。
渡した獲物の数もほぼ同じだ。
……だが、得られた報いの数は、どうだ?
このコタンとこちらのコタンで、明らかに『差』があるのがわかるだろう」
チセの中が、にわかにざわつき始めた。
長たちの視線が、自分が治めるコタンの名と、そこに刻まれた「数」に釘付けになる。
「商人は江戸で鮭が余っていると言った、だったか。だから値を半分に下げると。
……だが、俺が回った十のコタン、どこも不漁で鮭の数は去年の半分も獲れていない。
江戸の人間が、去年の半分しか鮭を食わなくなったとでも言うのか?
こうして横に並べてみれば、それが真っ赤な嘘だとわかる。
彼らは俺たちが互いの状況を知らないことを利用し、俺たちの富を少しずつ、
だが確実に啜り取っているんだ」
俺はそこで言葉を切り、沈黙で長たちを追い詰めた。
勘太が教えた「間の取り方」だ。
「和人の商人は、俺たちを分断している。
……全体で何が起きているかを知る者がいなければ、彼らの『不正』は永遠に闇の中だ。
この板に描かれているのは、俺たちがこれまで騙されてきた、和人の『嘘の証』に他ならない」
俺はゴゥドルを見て彼のコタンの取引を示す数字を差した。
「あなたが商人に渡した上等な毛皮の価値は、上げてもらった値の倍に相当する。
……商人は、あなたに色をつけてやったふりをして、
実はそれ以上の利益をあなたのコタンから、いや、ここにいる全員から掠め取っているんだ!**」
チセの中に、雷が落ちたような衝撃が走った。
ゴゥドルの顔が、火に照らされて土気色に変わる。
「……何を……! 出鱈目を言うな! そんな数字に、何の信憑性がある!」
「出鱈目かどうかが知りたいなら、今ここで、値を照らし合わせてみればいい。
……俺が持ってきたこの『不完全な記録』を、今ここで皆の記憶で埋めてくれ。
……そうすれば、誰が本当の嘘つきか、嫌でも理解るはずだ」
俺は、隣に座るリラへ、わずかに視線を送った。
それが、勘太と打ち合わせていた「第二幕」の合図だった。
リラは静かに、だが流れるような所作で立ち上がった。
タマサイが揺れ、火影に青い光を散らす。
彼女は脇に抱えていた包みを取り出すと、円を描いて座る長老たちの前を一人ずつ、
音もなく回り始めた。
彼女の手から配られたのは、俺たちが冬の間に漉き上げた「紙」だ。
長たちがそれを受け取った瞬間、チセの空気が変わった。
「……紙か。和人の商人が持っているものより、随分と厚く、色が濃いが……」
「……炭で書いたにしては、手が汚れぬ。」
長老たちは、慣れた手つきで紙の感触を確かめる。
だが、その上を走る線は、見慣れた墨の滲みとは違う。
鋭く、それでいて力強い鉛筆の跡を、長老たちは不思議そうにしげしげと見つめていた。
彼らにとって、紙は「和人の権威」の象徴だった。
和人が一方的に条件を書き込み、自分たちはただ頷かされる。
そんな忌々しい記憶と結びついた道具だ。
だが今、その手にある紙には――
自分たちのコタンの名と、流した汗の対価が、アイヌの言葉として並んでいる。
「そこにあるのは、皆のコタンの名前と、去年の取引の値だ」
リラが、鈴を転がすような、それでいてチセの隅々まで染み渡る声で告げた。
「商人の帳面を覗き見る必要はない。これは、俺たちが俺たちのために記した目録だ」
一拍、重い静寂が落ちる。
「……ゴゥドル殿。あなたのコタンの分も、そこに」
リラが、ゴゥドルの前で足を止めた。
ひらり、と紙が落ちた。
ゴゥドルは、すぐには拾わなかった。
「……くだらん」
吐き捨てるように言う。
「こんなもの、いくらでも書き直せる。捏造など――」
だが、言葉は続かなかった。
視線が、紙に吸い寄せられる。
無視しようにも、そこに並ぶ整然とした「記号の列」が、彼の老獪な勘に警告を発していた。
それが何を意味するか、理解してしまったのだ。
ゆっくりと、震える指先が伸びる。
「……っ……」
そこに並んでいたのは、残酷なまでの「平等」だった。
贈り物を積み、言葉を尽くし、和人商人と特別に繋がっているはずだったゴゥドルのコタン。
だが、記録されている値は――隣の、贈り物などしていないコタンと、ほとんど変わらない。
「……違う」
掠れた声が漏れる。
「これは……何かの間違いだ。俺の装いを見ればうちが裕福なのは――」
「……裕福? そうですね。ゴゥドル殿のコタンは、確かに見事な衣を纏っておられる」
遮るように、俺は一歩踏み出した。
「だが、それは商人が高く買ったからじゃない。
あなたが、自分のコタンの仲間に無理をさせ、本来なら自分たちが冬を越すために
蓄えるべき上等な品まで、商人の機嫌取りに差し出させているからだ」
俺は、板に描かれた「矢印」の一本を叩いた。
「皆のコタンから吸い上げられた獲物は、和人の拠点(運上屋)で一つにまとめられる。
そこから先、商人は皆の顔など見ていない。
ただの『荷』として、松前や江戸へ送るだけだ。
……商人があなたの顔を立てて値を上げる理由が、どこにある?」
ゴゥドルは、喉をひくりと鳴らし、俺を睨みつけた。
だが、その視線はもはや俺を射抜くことはない。
一度逸れ、また戻り、焦点の定まらぬまま泳ぐように激しく揺れている。
「……黙れ! どこの馬の骨とも知れぬ若造が!
商人と直に話したこともない分際で、知ったような口を叩くな!」
ゴゥドルに、もはや余裕はない。
噛み締めた歯の奥で、かすかな音が鳴る。
視線は俺に張り付いたまま、離れない。
――守るために、噛みつくしかない。
「ふん、数字だの記録だのと……。そんなお遊びで腹が膨れるか!」
ゴゥドルは震える指先で、板に描かれた図を忌々しげに指し示した。
「……いいか、皆。こいつが言っているのは、ただ商人のやり方をなじっているだけだ。
不満を並べるのはガキでもできる! だがな、商人がそっぽを向けば、
明日から俺たちの手元には塩一つ届かなくなるんだぞ!」
男はチセを見渡し、恐怖を煽るように声を張り上げた。
「おい、若造。そこまで偉そうに言うなら聞かせてもらおうか。
商人が『じゃあお前らとは取引しない』と言い出したら、お前はどうするつもりだ?
この汚い板を削って食わせるのか? この薄汚い紙を、冬を越す毛皮の代わりにするのか!」
ゴゥドルが、醜く歪んだ笑みを浮かべて俺に詰め寄る。
「具体的にどうする!和人を黙らせるだと?
俺たちに、これまで以上を持ってこさせる――そんな真似が、
――お前にできるのか!」
その問いが投げかけられた瞬間、チセの視線は再び俺へと集中した。
それは不信感というよりは、「救い」を求める飢えた目だった。
俺は一度、深く息を吸った。
ここで言葉を誤れば、全てが崩れる。
だが――
「できる。奇しくもあなたが話していたのと同じ仕組みだ、ゴゥドル殿」
俺の声は、自分でも驚くほど静かに、だがチセの隅々まで染み渡るような重みを持って響いた。
勘太の特訓は、俺の喉を枯らしたが、同時に「言葉を突き立てる場所」を俺に教えたのだ。
「商人がそっぽを向く? ……いいや。向かせない。これからは俺たちが、彼らを選ぶ側になるんだ」
ざわ、と空気が大きく波打つ。
長たちの目が、不信から驚愕へ、そして「救い」を求める切実な輝きへと変わっていく。
「一つのコタンが抵抗しても、商人は他から買うだけだ。
だが、この板にある十のコタンが一つにまとまれば
……それは商人にとって、無視できない巨大な『力』になる。
俺たちは一つにまとまってこそ、和人と対等に渡り合える」
「……そんなことが、本当にできるというのか!」
誰かが、祈るような声を上げた。
俺は影の中に座る勘太へと、静かに右手を差し出した。
「できる。……そのための具体的な『仕組み』を、俺の知恵袋が、今ここでお教えしましょう」
その言葉を合図に、影が動いた。
今まで石像のように静止していた勘太が、ゆっくりと立ち上がり、
囲炉裏の火が照らす円陣の中へと歩を進める。
子供の姿をした、底知れぬ怪物。
勘太が俺の横に並び、長老たちを見渡したその瞬間、チセの温度が一段下がったような錯覚に陥った。
「……はじめまして、長の皆様。 今日は、あなた方の“未来の形”を決めに来ました」
勘太が、不敵な笑みを浮かべて口を開く。
「商人を黙らせ、首を縦に振らせる方法……。
それは『誠意』ではなく、彼らの『損得』を、この紙と数字で支配することにあります。
……さて、お互いに『利』のある話を始めましょうか」
火が爆ぜ、勘太の影がチセの天井まで巨大に伸びる。
――春の雪解けと共に、蝦夷地の古い理が、音を立てて崩れようとしていた。
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