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第76話 仕込みの冬、始まりの春――英雄か、役者か

 宝暦十三年(一七六三年) 初春 蝦夷地・宗谷コタン


 春の陽光が、ようやく硬い雪の層を溶かし始めた頃。

 俺たちは、これまで見たこともないような姿でチセの前に立っていた。


 まず目を引いたのは、リラだ。

 フチ(祖母)から借り受けた深い海のような青いガラスタマサイが胸元で誇らしげに輝き、

 腰にはシモンから借りた銀の細工が施された立派なマキリ(小刀)を携えている。


 普段の活発な少女の面影を消し、

 伝統あるシャーマンの家系の娘のような風格をまとっていた。


「どうだ? 似合うか」


「なんだ、その喋り方は?」


「セタリの真似よ。こうすると威厳が出るんだって」


「……そういうものか」


「そうなんだって。それより、セタリも似合ってるわよ。それ。馬子にも衣裳ってやつね」


 俺自身も、冬の間にサラたちが精を出して縫い上げてくれた、丁寧な衣を纏っていた。

 厚手の布に、細かく織り込まれたアイヌモシリの文様が鮮やかに浮かぶ。

 鏡はないが、勘太が「まさに英雄の貫録です」と太鼓判を押すだけのことはある。


 そして勘太だ。

 奴は俺のお下がりを仕立て直し、ぱっと見は和人に見えないように

 「アイヌの子供」として擬態していた。

 

 肌の色も、立ち振る舞いも、この土地に自然に溶け込んでいる。

 その瞳に宿る知性だけが、かろうじて彼が「ただの子供」ではないことを示していた。


---


 話は少しさかのぼる。


 長老会への参加をエカシが許したその日から、

 勘太の言う『新しい取引の仕組みの説明プレゼン』の準備が始まった。


 真っ先に彼が手をつけたのは、意外にも新しい服の仕立てだった。


 「セタリさん、交渉において『見た目』は、情報の説得力を左右する重要な要素です」


 勘太は淡々と言った。


 みすぼらしい者がどれほど正論を述べても、誰も耳を貸さない。

 ならば、まずは「この者の話は聞く価値がある」と思わせるだけの格好をする――それが理屈だ。


 かくして俺は「どこぞの有力者の子弟」のような風格を、

 リラは「伝統あるシャーマンの家系の娘」という神秘性を背負わされることになった。  

 

「俺も一見して和人の子供だと思われてはつまみ出される恐れがありますから

 お二人の身内と思われる程度には擬態しておきます」


 準備は服だけではなかった。  

 

 勘太は巨大な木の板を、すすとベンガラ(紅色の顔料)で塗りつけ始めた。

 俺たちが苦労して作り上げた「紙」を使わないのかと尋ねると、勘太は不敵に笑って答えた。


「紙は便利ですが、今回は『はったり』が重要なんです」


 緻密な図形、蝦夷地の海岸線、そして各コタンからの物の流れ。  

 それらを、巨大な木の板に力強い線で刻み込んでいく。    

 

 確かに、小さな紙を覗き込ませるよりも、この巨大な板を突きつけたほうが、

 大勢の大人たちを圧倒できる。  

 

「合理的なだけでは人は動きません。『凄み』を見せつけて、圧倒して、初めて言葉が届くんです」


 こいつの言葉は、いつも冷徹で、それでいて驚くほど頼もしかった。  

 そして、その「言葉」を、ただの音から「抗えぬ真実」へと変えるための準備が始まった。


「では、実際にやってみましょう」


 勘太はそう言うと、チセの壁に巨大な木の板を立てかけた。

 煤とベンガラで血のように赤い線が引かれたそれは、囲炉裏の火を背に受け、

 不気味な存在感を放っている。  

 

 逆光の中に立つ勘太の影が、チセの奥へと長く、巨大に伸びた。


「……誰もいないぞ」


「いますよ。ここに」


 勘太は板の前に立つと、ゆっくりと周囲を見渡した。

 

 ――もちろん、そこには誰もいない。

 

 だが勘太の視線は、確かに「誰か」を捉えていた。

 

 一人ひとりの顔をなぞるように、わずかに目線をずらしていく。

 

 空っぽのチセの中で、俺は息を呑んだ。


「――これらは、各コタンにおける取引の記録です」


 さっきまでの勘太とは、まるで別人だった。

 

 七歳の子供とは思えないほど、落ち着いた声。

 無理に張り上げているわけでもないのに、すっと耳に入ってくる。

 

 言葉の切り方や、わずかな間の取り方。

 視線の動かし方にも、どこか迷いがない。

 

 拙さが消えたわけではない。

 だが、それを補って余りあるだけの「整い方」があった。


「それぞれのコタンで提示された値を並べただけのものですが――」


 そこで一拍、置かれた。  

 わずか数秒の、静寂。  

 

 だが、その空白が、無人のはずの空間に

 「次を聞かなければならない」という緊張を生んでいく。


「――こうして並べてみると、ある傾向かたが見えてきます」


 板を指し示す指先が、無駄のない動きで滑っていく。

 煤で引かれた線も、その動きに合わせて意味を持って見えてきた。

 

 俺は話の流れを追いながら、

 まるでその場にいる一人になったような気分で聞き入っていた。


 ふと我に返ると、勘太はすでに説明を終えていた。

 短いはずの時間が、不思議と長く感じられた。


「セタリさん」


 不意に、日常の調子に戻った声で名を呼ばれ、肩が跳ねた。


「本番までに、今のを全部覚えてください。

 セリフは多少言いやすくしても構いません。

 身振り、手振り、間の取り方――すべて真似してください」


「……それはどうだろう。無理じゃないかな」


 一朝一夕で身につくものとは思えない。


「大丈夫。時間はあります。

 冬は長いですからね」


 先ほどまでとは打って変わって、すがすがしい笑顔で追い詰めてくる。


「やるしかないのか」


「はい。これも世界平和のためです」


 なんともわかりやすい嘘だ。


「そうだな。世界の平和を守るためにも、頑張るとするか」


 ――とはいえ、ここは乗っておくしかない。


「その意気です。じゃあ、最初は台本を見ながらやってみましょうか」


 そうでもしないと、途中で挫折しそうだった。


 ――その日の練習は、のどがかれるまで続いた。

 

 気づけば、外はすっかり薄暗くなっている。


 囲炉裏の火だけが、巨大な板に描かれた「収奪の地図」を赤く浮かび上がらせていた。


 その前に立つ七歳の影は、火に揺られて、実際よりも大きく見える。

 

 迷える民を導く聖者か。

 

 それとも、世界を欺く詐欺師か。

 

 俺には、まだ見極めがつかなかった。


「なんかお芝居みたいで楽しそうね。私もやりたいわ」


「それじゃあ、リラの台本も用意しよう。

 でも、主役はセタリさんだから、あまり目立つなよ」


「ふふん、それはどうかしら。

 私の演技に圧倒されちゃうかもね」


 リラと戯れる勘太を見ていると、さっきまで一人で重く考えていたのが、少し馬鹿らしくなってくる。


(余計なことを考えるのはやめよう。今は、この台本をしっかり覚えないと)


 こうして俺の修練は、長い冬のあいだ続くことになった。


---


 そうして迎えた、会合の日。


 宗谷奥のコタンよりもさらに内陸――宗谷川の源流にほど近い、山間のコタンを訪れた。


 森に囲まれたその場所は、まるで天然の要塞のようだった。


 宗谷のコタンとは比べものにならないほどの、古びた気配。

 長い年月を、この地で積み重ねてきたことが、肌でわかる。


 ここが会合の場に選ばれた理由も、自然と理解できた。

 

 コタンの中心にある広場には、いくつものチセが円を描くように並んでいた。

 その間を、各地から集まった人々が静かに行き交っている。


 笑い声はある。

 だが、それはどこか抑えられていた。


 互いを探るような視線が、あちこちで交差している。


 ――ただの集まりではない。


 そう感じさせる空気が、はっきりとあった。


 俺たちが足を踏み入れると、いくつもの視線がこちらに向く。


 冬の間にサラたちが縫い上げた衣のせいか。

 それとも、見慣れない顔だからか。


 値踏みする目。

 興味を隠さない目。

 そして、露骨に警戒する目。


 居心地の悪さに、肩に力が入る。


「……気にしなくていいです。見られるのは、『演出』の想定内ですから」


 隣で、勘太が小さく囁いた。


 その声に、わずかに息を吐く。


 ……言うのは簡単だ。


 この圧を「演出」と言い切れるあいつの神経が理解できない。


 ふと横を見ると、リラはそんな空気など気にも留めず、興味深そうにあたりを見回していた。

 与えられた役を、すでに楽しんでいるようだった。


---

 

 やがて、一際大きく、古びた威厳を放つチセの前へと案内された。


 入口には、各コタンの長たちが集まっている。


 年季の入った衣。

 深く刻まれた皺。

 そのどれもが、この地で生き抜いてきた時間を物語っていた。


 軽く会釈を交わす。


 だが、返ってくるのは歓迎ではない。

 値を測るような、静かな視線だった。


 俺たちは、そのまま中へと通された。


 内部は、外から見た以上に広かった。


 中央には囲炉裏。

 その周囲を囲むように、席が整えられている。


 誰がどこに座るのか。

 それだけで、この場の力関係がわかる配置だった。


 俺たちは、用意された場所へと腰を下ろす。


 ――視線が集まる。


 無言のまま、じわりと。


 試されている。

 そんな感覚が、肌にまとわりつく。


 ふと、勘太に目をやる。


 奴は、いつも通りだった。


 いや――いつも以上に、静かだ。


 余計な動きは一切ない。

 ただ、来るべき瞬間を待っている。


 その横顔を見ていると、妙な確信が湧いてくる。


 ――こいつは、もう準備を終えている。


 やがて、最後の一人が席についた。


 囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てる。


 それを合図にするかのように、場のざわめきが、すっと消えた。


 会合が、始まる。

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