第75話 走るセタリ、繋がる情報
宝暦十二年(一七六二年) 初冬 蝦夷地・宗谷コタン
勘太の「ろくでもない計画」は、想像を絶する強行軍となった。
俺は各コタンを巡り、自分たちで作り上げた紙と鉛筆を配り歩いた。
代わりに受け取るのは、協力者たちが保管していた木簡だ。
行く先々で「よく来た」と温かく迎えられたが、
挨拶もそこそこに発たねばならないのは、やはり心苦しかった。
「セタリ、泊まっていけ。また、狩りの話を聞かせてくれ」
そんな誘いを「急いでいるから」と固辞するたび、後ろ髪を引かれる思いがした。
(……次は、何か手土産でも持って詫びに行かねばならんだろうな)
ふと、そんな「義理の貸し借り」を計算している自分がおかしかった。
まるで勘太のようではないか。
俺も随分、あいつの毒が回ってきたらしい。
そんな考え事をする余裕があったのは、最初の数件だけだった。
回収した木簡は、物理的な重みとなって俺の肩に食い込んできた。
一度ですべてを回り切るのは無理だと悟り、俺は何度も宗谷へ戻っては荷を下ろし、
また飛び出すことを繰り返した。
ある時、荷を下ろして息を整えていると、勘太がいくつかの小さな包みを差し出してきた。
「これ、移動中でも食べられるようにしておきました。干し肉の切れ端を紙で包んだものです」
手渡されたのは、俺たちが作った紙に包まれた小分けの食料だった。
(……待てよ。これはつまり、食事の時間すら惜しんで歩けということか?)
合理的すぎて笑えてくるが、今の俺にはその気遣いがありがたかった。
走りながら、紙を破いて肉を口に放り込む。
噛みしめるたびに溢れる塩気が、悲鳴を上げる筋肉の糧になるのがわかった。
それからも、俺は行っては戻り、行っては戻りを繰り返した。
十以上のコタン。
踏みしめる落ち葉が、いつの間にか霜に覆われ、やがて視界の端々に白い粒が混じり始める。
最後の一箇所を回り終え、宗谷のコタンへ辿り着いたとき、
大地はすでに薄っすらと冬の白装束をまとい始めていた。
足はすでに自分のものではないようだった。
足の感覚が戻らない。
感覚の消えた足を気力だけで動かし、よろよろとチセの戸を引く。
「……戻ったぞ」
誰に言うでもなく呟き、俺は食事をとることさえ忘れ、その場に倒れ伏した。
かつてないほどの深い眠りに落ちてしまった。
目が覚めたのは、翌日の夜だった。
意識が戻ると同時に、鼻腔をくすぐったのは濃厚な潮の香り
——カニの出汁がこれでもかと効いた、熱い汁物の匂いだった。
「……起きたの? セタリ」
リラが、火にかけたままの鍋をかき混ぜながら、眠たげな目で俺を見た。
彼女の目の下には、くっきりと深い隈ができている。
俺は、ろくに回らない頭で這い出し、差し出された椀をひったくるようにして啜った。
五臓六腑に染み渡る旨味。
熱い液体が喉を通るたびに、十以上のコタンを駆け抜けた際、
冷たい雨に打たれて麻痺した筋肉がようやく解れていくのを感じた。
ふと視線を落とすと、チセの奥、囲炉裏の僅かな光を頼りに、小さな影が忙しなく動いていた。
「……勘太」
勘太は、俺が各地から回収してきた山のような木簡に囲まれ、
必死に鉛筆を走らせていた。木簡の表面に刻まれた、文字とも記号ともつかぬ各地の記録。
それを、自分たちで作り上げた滑らかな紙の上に、
「整理された情報」へと落とし込んでいる最中だった。
「おはようございます、セタリさん。……おかげで、ようやく『傾向』が見えてきました」
勘太が顔を上げた。
その目は充血し、傍らには書き損じや計算の形跡が残る紙が散乱している。
「すべての取引が記録されているわけではないので完ぺきとは言えません。
ですが、これだけ数が集まれば十分です」
勘太は、俺が各地から回収してきた、汚れや染みのついた木簡や紙を指差した。
「一つ一つの記録は不完全でも、それらを並べて横串で刺せば、
特定の商人が吐いている『嘘の型』が浮かび上がってきます。
……どの時期に、どのコタンで、どの程度の嘘を吐けばアイヌを騙せるか。
商人が無意識に繰り返している『収奪の癖』が、この山のような木簡の中に隠れていました」
勘太は手元の紙に、最後の一線を鋭く引いた。
「これで、この辺りのコタンの有力者たちの集まり――
会合に持っていく手土産も揃いました」
「……また悪だくみか?」
「人聞きの悪い。
和人の商人が吐いている『余ってるから安く買う』という嘘を、数字で叩き潰してあげるだけです。
まあ、結果的には助かるでしょうけど」
「正義の味方ってわけか」
「それはちょっと違いますね」
勘太は、手元の紙に最後の一線を引いた。
――その瞬間、勘太の目から温度が消えた。
「俺とアイヌのコタン。
『和人の商人によって損をしている』――その一点で利害が一致した。
それだけです」
その冷たさに、思わず心を突かれ、一瞬納得しかけるが、すぐに疑問がよぎった。
こいつは――松前の商人と通じ、巨額の銭を動かしているはずだ。
カネクルに拠点を構え、船を買い、職人まで抱えている。
嘘を言っているようには聞こえなかった。
本当のことを言っている――だが、全部ではない。
それでも、勘太が自分をだましているとは思いたくなかった。
(こいつは何か、致命的なことを隠している。
今こうして俺たちと暮らしているのも、
すべてはその『何か』を成すための隠れ蓑に過ぎないのではないか)
では、もし。
俺たちといることが、こいつの『利』にならなくなった時は――。
背中に、つめたい氷を押し当てられたような戦慄が走った。
時々、こいつのいう『利』がわからなくなる。
同じものを差しながら違うものを見ている気がする。
思い返せばこういった疑念はこいつと過ごすようになってから何度もあった。
そのたびに有耶無耶にしていた。
信じたい気持ちの方が、強かった。
だが、ことは俺だけの問題ではなくなりつつある。
周辺コタン全域の存続が脅かされる規模に発展しつつある。
確かめなくてはいけない。
こいつの――真意を。
今ここで。
「勘太、お前の本当の目的は何だ。
俺が知りたいのは、その先だ」
勘太は手を止め、こちらに向き直った。
その顔からは表情が消えていた。
「……今は言えません。
ですが、会合が終わったら必ず話します。
今は、それで納得してもらえますか」
問い詰めたかった。
だができなかった。
それをすれば、こいつはここを去る――そんな気がした。
「わかった。だが、会合が終わったら話してもらうぞ。必ずだ」
「ええ、約束します」
それだけ言うと、勘太はまた作業に戻った。
囲炉裏の火が爆ぜ、勘太の横顔に深い影を落とす。
俺は、ろくでもない考えを振り払うように激しく頭を振った。
---
数日後、降り積もった雪がチセを白く包み込む中、勘太が静かに口を開いた。
「エカシさん。春に開かれる周辺コタンの長老会、私を連れて行っていただけませんか?」
囲炉裏の火を見つめていたエカシが、ゆっくりと顔を上げた。
その眼光は、いつになく厳しい。
「勘太……。あの場は、コタンの行く末を決める場だ。
和人の子、ましてや年端もいかぬお前を――連れていくことはできん」
当然の拒絶だった。
だが、勘太は動じなかった。
懐に手を入れ、あの「紙」を取り出す。
静かに広げ、エカシの前へ差し出した。
「……これを見てください。セタリさんが、この辺りのコタンを回って集めた――
周辺の取引記録です」
勘太が差し出したのは、自分たちで作り上げた、まだ粗さの残る紙だった。
エカシの視線が落ちる。
囲炉裏の火に照らされたその眉間に、深い皺が刻まれていく。
整然と並ぶ数字。
コタンの名。
干し魚、毛皮――そして、それらと引き換えに和人の商人が提示した「買取の値」。
チセの中に、重苦しい沈黙が落ちた。
「……っ、これは」
エカシの喉が、引きつったように鳴った。
震える指先が、紙の一点で止まる。
そこには、俺が集めてきた、残酷なまでの「差」が記されていた。
隣のコタンと比べて、半分以下の値。
さらに別のコタンでは、目を疑うほど低く買い叩かれている。
言葉が出ない。
エカシはそれを「何かの間違い」だと否定しようとして、
その鋭い目で記録を凝視し、やがて諦めたように肩を落とした。
「……何かの間違いではないのか。これほどまで、露骨に……」
「いいえ」
勘太の答は、氷のように冷たかった。
「これらは実際の取引記録です。
すべてではありませんが、集められるだけ集めました。
各コタンで提示された値を、並べています。
理由はいくらでも付けられる。
不漁、質の差、運びの手間――。
和人の商人は、そうやって納得させてきたのでしょう。」
勘太はそこで言葉を切ると、鉛筆の先で紙を軽く叩いた。
「ですが、互いに知らなければ、比べようがない。
――それを前提に、取引が組まれている」
囲炉裏の火が、パチリと爆ぜた。
「――これが、今の取引の現実です」
静かな断定だった。
俺は、その横顔を見て再び背筋が寒くなった。
勘太はただ事実を突きつけたのではない。
エカシの中に眠っていた「和人への不信」と「現状への危機感」に、正確に火をつけたのだ。
「……勘太。これを知らせて、何をさせるつもりだ。
周辺の若者を焚きつけて、和人に戦を仕掛けさせるつもりか?」
エカシの声には、鋭い警戒が混じった。
憤りはあっても、和人と戦えば多くの人死にが出る。
それはエカシが最も恐れる事態だった。
「そんなことをしても、人が死ぬだけで状況は良くなりません。……むしろ悪化します」
勘太は、氷のように冷徹な声で言い切った。
「なら、どうするのだ。このまま黙って奪われ続けろと言うのか」
「いいえ。……俺が間に入ります」
勘太は、エカシの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺が間に入ります。
アイヌの皆さんの獲物は妥当に引き取り、場所請負人には納得できる値で引き取らせる。
――両者の間を取り持ちましょう」
「そんなことが、本当にできるのか? 和人の商人どもが、子供の言いなりになるはずがない」
「可能性があるから提案しているんです。そのための準備はもう整っています」
勘太は、自らが作り上げた宗谷商会、
そしてそこで働くことになるであろう子供たちを指しているのだろう。
その自信に満ちた態度に、エカシは長く、深い溜息を吐いた。
「……そこまで言うのなら、連れて行く。
お前の知恵が、コタンを救うか、あるいは滅ぼすか。
この目で見極めさせてもらう」
エカシは一度言葉を切ると、釘を刺すように続けた。
「ただし、俺は援護しない。
お前を『ただの連れ』として連れて行くだけだ。
和人の子供の分際でと怒り出す長老もいるだろう。
……それを黙らせるのは、お前自身の力だ」
「十分です」
勘太が、満足げに微笑んだ。
その「悪だくみ」の顔を見て、俺は背中に得体の知れない寒気を感じた。
こいつ、本当に大丈夫なんだろうな……。
そんな俺の懸念を見透かしたように、勘太がこちらを向いた。
「もちろん、あなたも行くんですよ、セタリさん。
というか、あなたが話すんですよ。さすがに俺が前に出るのは無理があります」
「……俺が」
「そうです。
大丈夫、会合までにシモンさんやエカシさんにも負けないぐらい、
貫禄のある振る舞いができるように、ちゃんとプロデュースしてみせますから!」
どん、と胸を叩く勘太。
「プロデュ? なんだそれは……それを俺がやるのか?」
「そうと決まったら、いろいろ準備しないとですね。いやあ、忙しくなるな」
「うう……断れないのか」
思わず呻くと、隣で鍋を洗っていたリラが、弾かれたように顔を上げた。
「私も行くわよ! セタリにばっかりいい格好はさせないんだから!」
「いいね。この際だからリラにも手伝ってもらおう。
名高いシャーマンの秘蔵っ子、これはプロデュースし甲斐のある存在だ」
「任せといてよ。フチの後継者として、威厳を見せつけてやるわ!」
不敵に笑う勘太と、意気込むリラ。
春の雪解けと共に、俺たちはただの家族から、
この蝦夷地の理を根底から揺さぶる『一つの集団』へと、動き出そうとしていた。
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