第72話:初めての紙づくり――書けない“紙”
宝暦十二年(一七六二年) 初秋 蝦夷地・宗谷コタン
長いようで短い旅を終え、俺たちは宗谷コタンへ戻ってきた。
波乱だらけだった日々も、これでようやく落ち着く――その時の俺は、本気でそう思っていた。
だが、この帰還が新しい試行錯誤の始まりになることを、その時の俺はまだ知らなかった。
コタンの入り口に立った瞬間、俺の肩から、
知らず知らずのうちに張っていた力がふっと抜けていくのを感じた。
懐かしい匂いがした。
宗谷の剥き出しの潮風とは違う。
木々と土の匂いが混じった、柔らかく湿った空気だった。
「エカシ、フチ! 遅くなってごめんね、ただいま!」
リラが真っ先に駆け出した。
その後ろを、俺と勘太が重い荷車を引いて続く。
出迎えてくれたのは、リラの祖父であるエカシと、祖母のフチだった。
「気にするな、リラ。無事に戻ったのなら、それで十分だ」
エカシが、穏やかな笑みを浮かべて頷く。
フチも俺たちの顔を一人ずつ見て、ようやく安心したように微笑んだ。
「随分と長く感じたぞ。……それで、旅の様子はどうだった? 何か困ったことはなかったか」
「ええ、もう。いろいろありすぎましたけど……全部、この通り無事に解決しました」
勘太が、胸を張って答える。
その顔は、宗谷で道広のような「化け物」を相手にしていた時とは違い、
年相応の子供の柔らかさに戻っていた。
俺たちが運んできた荷を下ろすと、家の中からシモンとサラが顔を出した。
「おかえりなさい! ……わあ、すごい荷物!」
「よく戻った。 これはまた、すごい量だな」
こうも喜ばれると重い荷車を引いてきた甲斐があるというものだ。
「これ、お土産ですよ。フチにはこの布、サラにはこの簪を」
勘太が手際よく荷をほどき、和人の道具や布を配り始める。
フチは、色鮮やかな布を手に取り、シワの刻まれた目尻をさらに下げて目を輝かせた。
「これは見事な……。こんなに良いものをもらって良いのかい」
「もちろんです。セタリさんも協力してくれたんですよ」
サラも、珍しい簪を髪に当てては、はしゃいだ声を上げている。
そんな女たちの横で、シモンさんは俺が運んできた和人の道具に釘付けになっていた。
「ほう……これは、和人の道具か? それも、見たこともない細工だな」
物珍しそうに道具をひっくり返し、仕組みを確かめるシモンさんの姿は、
まるで新しい玩具を見つけた子供のようだった。
「それは紙づくりに使う道具です。」
勘太が誇らしげに解説を始める。
そんな賑やかな会話を耳にしながら、俺はただ黙って、囲炉裏から立ち上る煙を眺めていた。
宗谷での日々も、決して悪くはなかった。
あそこの子供たちに懐かれ、弓を教える約束までしてきたのは、俺にとっても新しい経験だった。
だが、こうして家族の笑い声に囲まれ、他愛もない会話を交わしていると、
胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていく。
(……ああ、やっぱり、ここが俺の家なんだな)
自分の居場所がここにあるという確かな手応え。
長い旅の果て、ようやく辿り着いた安らぎ。
俺は、隣で楽しそうに笑う勘太とリラの姿を見つめながら、心の中で静かにそう呟いた。
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宗谷コタンに戻った俺たちを待っていたのは、静かな日常ではなかった。
そこにいたのは、リラという名の暴風だった。
カネクルで仕入れた竹製の簀や植物の繊維が整然と並び、
俺の役割は早々に「動力」として固定された。
「……セタリ、手が止まってる! もっと叩いて! 繊維が水の中でほどけるまで、徹底的に!」
「無茶を言うな。もう一刻は叩いてるぞ。繊維の前に俺の腕が壊れちまう」
巨大な杵を振り下ろすたび、腕が悲鳴を上げる。
ふと気づけば、いつの間にかコタンの子供たちが周りに集まっていた。
「なにやってるの?」
「それ、食べ物?」
無邪気な声が飛ぶ。
その中の一人が、桶の中の白い繊維に指を突っ込みかけて――
「触るな!」
リラの声が鋭く飛んだ。
子どもはびくりと手を引っ込める。
「……これは遊びじゃないの。台無しになる。今は、近づかないで」
普段の面影が消えた真剣な声音に、子供たちは顔を見合わせ、そそくさと離れていった。
「……怖いな、お前」
「当たり前でしょ。今はそれどころじゃないのよ」
リラは一瞬だけこちらを睨み、それからすぐに桶へと意識を戻した。
「そんなことより集中して! その“粘り”が紙の命なのよ!」
「……セタリ、悪いが諦めてくれ。これは未来への“投資”だ」
勘太が横から涼しい顔で口を挟む。
この単調で終わりの見えない作業は、骨の芯までこたえる。
ようやくリラから「よし、止めていいわ」と許しが出た。
彼女は真新しい簀を構え、祈祷でも捧げるような真剣な面持ちで、
木桶の中の白い濁り(繊維)を掬い上げた。
「いくわよ……。一回で決める……!」
だが、現実は残酷だった。
簀の上に残ったのは、均一な膜ではない。灰色の泥のように固まった、不格好な塊だった。
水が抜けるそばから繊維は一方に寄り、端からぼろぼろと崩れていく。
「……なんで。水の混ぜ方が足りない?
それとも叩き方が甘いの……?
道具は最高のものを用意したはずなのに!」
リラが濡れた指先を見つめ、唇を噛む。
「……なあリラ、これ、どう見ても湿った土壁の破片じゃないか?」
「うるさいわね! 分かってるわよ!」
コタンを吹き抜ける冷たい風が、失敗作の青臭い匂いを、どこか嘲笑うように鼻に運んできた。
「リラ、一度で上手くいくなら『技術』なんて言葉は生まれない。
セタリさん、悪いけどもう一回お願いします。今の失敗で『粘り』の不足は証明された」
勘太の平坦な声が、かえって場を引き締めた。
「もう一回、か。俺の腕が明日、弓を引けるか怪しくなってきたな」
「頼むよ、セタリさん。ここが踏ん張りどころなんだ。
ほら、リラもお願いして」
「お願い、セタリ!夕食多めにしてあげるから」
「……分かった。やればいいんだろ」
俺は再び杵を握り直す。
今度は倍の時間をかけ、繊維を木っ端微塵にする勢いで叩く。
腕の筋肉が熱を持ち、汗が冷気に触れて蒸気となる。
リラの、あの何かに取り憑かれたような横顔を見ていると、弱音なんて言葉は喉の奥に引っ込んだ。
「今度はどうだ、リラ。石臼の底が見えるまで叩き潰してやったぞ」
「……いいわ、完璧。今の感覚、忘れないで。……次、いくわよ!」
水を替え、粘り剤となる植物の根をさらに加え、リラは何度も指先の感覚を確かめる。
二度目の挑戦。リラの腕が、水面の下で繊細に、かつ迷いなく動いた。
夕闇が辺りを包み始める頃、ようやく「紙」らしきものが板の上に張り出された。
焚き火の熱でじっくりと乾かし、慎重に剥がし取る。
パリパリ……と、乾いた冬の木の葉を踏むような音とともに、
俺たちの前に一枚の「白い板」が姿を現した。
「……できた。形には、なったけど……」
リラがその一枚を、壊れ物を扱うように指先でつまみ上げた。
だが、それは「完成」と呼ぶには程遠い代物だった。
表面はささくれ立ち、光にかざせば、薄い部分は雲のように透け、
厚い部分はゴワゴワと重なっている。
道広が残していったあの封書とは、比べるべくもなかった。
「……ただの出来損ないね。筆を乗せればすぐ穴が開く。
あんなに準備して、セタリをここまでこき使ったのに、情けない……」
リラがその場に座り込み、うなだれた。
「……なあ、これでも十分じゃないか。切って整えれば使えそうだぞ」
俺は精一杯の慰めを口にしたが、リラは顔を上げない。
いつもはコタンの誰よりも強気な彼女の背中が、今は驚くほど小さく見える。
俺は汚れた杵を握りしめたまま、立ち尽くすことしかできなかった。
その時、勘太が静かに歩み寄り、その不格好な紙を手に取った。
「リラ。お前は今、自分が何をしたか分かってるか?」
「……失敗したのよ。あんたが一番よく分かってるでしょ。
時間と手間を、捨てたって言いたいんでしょ」
「違う。お前は今、この蝦夷地で初めて紙を作ったんだ」
勘太の声には、慰めではなく、確信があった。
「いいか、これはただの紙じゃない。
俺たちが、この土地にあるものだけで作り出した『最初の紙』だ。
品質が悪い? ああ、ゴミ同然だろう。
俺が商人なら、値打ちなしとして見向きもしない」
「……やっぱり、そうじゃない」
「品質は悪い。売り物にもならない。
でも、それでいい。
お前の目的は、今すぐ銭に換えることじゃないだろ。
自分の手で、いつでも紙を作れるようになることだ」
勘太は紙をリラに返した。
「もう形にはできた。
ここからは、出来を揃えていくだけだ。
急がなくていい。少しずつ良くしていこう。」
リラは黙って、自分の手で作った歪な紙を見つめていた。
やがて、彼女は乱暴に目元を拭い、俺の方を向いた。
「……セタリ。明日は、もっと細かい網の簀を試す。
それから、繊維を煮る時の灰の配合も一から見直すわ。やることは山積みよ」
「……ああ、その調子だ。明日も朝からか?」
リラが立ち上がる。
その瞳には、焚き火の火の粉よりも熱く、鋭い光が宿っていた。
「明日の朝一番、またあの石臼の前に立ちなさいよ!
逃げたら承知しないから! 全員で工程を見直すわよ!」
「……ああ、分かったよ。お前の気が済むまで、いくらでも叩いてやるさ。腕が棒になる前にな」
俺は苦笑いしながら応えた。
俺たちは、この頼りない、ムラだらけの一枚の紙から、新しい世界を書き始めていくのだろう。
「さて、その『最初の一枚』に、何を書くか決めてるか?」
「……決まってるわ。明日のための『もっとマシな配合表』よ!」
リラの即答に、勘太が今日一番の笑みを浮かべた。
焚き火の煙が、高く、静まり返ったコタンの夜空へと真っ直ぐに昇っていった。
---
それから、チセの片隅の紙の残骸が小さな丘になるほどの月日が流れた。
秋はさらに深まり、朝晩の冷え込みが紙の乾きを早くした。
俺の右腕は、もう杵の重さを覚えてしまっていた。
「……できた。見て、二人とも。これが私たちの『一歩』よ」
リラが、震える指先で掲げた一枚。
それはもはや「泥の塊」でも「透けた膜」でもなかった。
表面は滑らかに整えられ、指で弾けばピンと小気味よい音を立てる。
光にかざしてもムラは少なく、コタンの厳しい冬にも耐えられそうな、力強い白さを湛えていた。
「実用に耐える質だ。ようやく『紙』と呼べるものができたな」
勘太がその一枚を指でなぞり、鑑定士のような目で頷く。
リラはその言葉を聞くや否や、地面にへたり込んだ。
「やった……。これで、私の頭の中にあるものを全部残せる……!」
「だが、問題もある。リラ、この一枚にどれだけの時間や材料がかかったか分かってるか?」
勘太が、目に見えない算盤を弾くような手つきで現実に引き戻す。
「俺たち三人が丸二週間つきっきりで働いたうえに、カネクルから仕入れた貴重な粘り剤まで使った。
……正直、これ一枚を作るだけで、本州の紙の十倍はかかる。
商売にするには、大損だ。」
「……大損なのか? せっかくできたのに」
俺は思わず杵を放り出しそうになった。
だが、リラは汚れた顔を上げ、不敵に笑った。
「いいじゃない、赤字で。私はこれを売りたいわけじゃないもの。
私が知りたいことを書き残せて、あんたの『算術』とやらを記録できれば、それで十分。
赤字なんて、後からどうにでもなるわよ」
リラが商人が聞いたら卒倒しそうなことを口にする。
計算はできるはずなのに、銭勘定の感覚が皆無だ。
「……ふむ。次は、無駄を減らして質を上げる番だな。
手順が固まって数が作れれば、ようやく利も出てくる。」
勘太がまた難解な言葉を並べ始めた。
どうやら、勘太の中ではもう次の段階の図面が描かれているらしい。
「……なあ」
俺は焚き火のそばの紙を見ながら、ふと口を開いた。
「……で、これ、どうやって書くんだ?
墨も筆もないだろ」
その瞬間、場が凍りついた。
パチ、と焚き火が爆ぜる音だけが響いた。
リラが「あ……」と口を開けたまま固まり、勘太はといえば、
見たこともないような「バツの悪そうな顔」をして夜空の星を数えるように視線を泳がせた。
「……しまった。書く道具のことを、すっかり忘れてた。」
勘太が額を押さえて呻く。
リラも、さすがに言葉を失っている。
紙はあっても、記す手段がない。
これでは、ただの焚き付けだ。
「……そんなに難しい話か?
前にリラが作ってた、あの白い石みたいなやつ……チョークだったか。
あれの黒いやつを作ればいいんじゃないのか。煤を固めるとか」
俺が何気なく提案すると、勘太の目がカッと見開かれた。
「……それだ。セタリさん、あなたは天才だ」
「え?」
「グラファイト……いや、この辺りなら良質な木炭と、リラが貯めこんでる粘土を混ぜればいい。
それを棒状にして焼き固める。
筆も墨もいらない。
……そうか、『鉛筆』だ。
これなら多少紙が荒くても書ける。」
勘太が弾かれたように立ち上がる。
それ以上に、リラが猛烈な勢いで俺に詰め寄ってきた。
「セタリ! すごい!
……ただの筋肉馬鹿だと思ってたのに、たまには冴えるじゃない!
そうよ、黒くすればいいのよ。煤ならいくらでもあるわ。
私、なんで気づかなかったの……!」
「お、おい、顔が近い……」
「セタリ、最高!
今日からあんたを『宗谷コタン一の知恵者』って呼んであげるわ!
さあ、すぐに煤を集めて!
最高の『鉛筆』を作って、この歴史的な一枚に名前を刻むんだから!」
リラに肩をバンバンと叩かれ、俺は照れ臭さを通り越して、少し腰が引けた。
勘太も、恥をかかされたどころか、新しい「商品」の予感に目を輝かせている。
「よし、方針決定だ。リラ、粘土の配合を考えるぞ。
セタリ、次は木炭を細かく粉砕してくれ。
……次は鉛筆だ。こっちも形にしてみせる。」
……結局、俺の仕事は「叩く」ことから「砕く」ことに変わっただけのような気がする。
だが、リラのあんなに弾けるような笑顔と、勘太の不敵な笑みを見ていると、
まあ悪くないか、と思ってしまうのだ。
(そもそも、紙って売るためじゃなくて、
コタン同士の連絡に使うために欲しかったんじゃなかったか?
……まあ、いいか。
今は、とても言い出せる空気じゃない)
先を読んでいるようで、目の前のことにはしゃぎもする。
勘太というやつは、最後まで正体がつかめない。
この時はまだ、俺たちも知らなかった。
この一枚の紙と黒い棒きれが、やがてこの地の暮らしを変えることになるなんて。
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