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第73話:鉛筆づくり――未来を変える一本

 宝暦十二年(一七六二年) 仲秋 蝦夷地・カネクル


 俺たちは再び、カネクルの拠点へと足を踏み入れていた。

 目的は、紙づくりのための新たな道具の調達。

 そして、リラがぶち上げた「鉛筆」なる黒い棒を作るための材料探しだ。


 だが、扉を開けた瞬間――俺たちは言葉を失った。


「……え?」


 最初に声を漏らしたのはリラだった。


 かつての薄暗い廃屋の面影は、どこにもなかった。

 煤けていた床は磨かれ、窓からは新しい風が通り抜ける。

 傾いていた柱は大工の手で補強され、建物全体が“仕事場”として生まれ変わっていた。


 そして何より、漂う匂いが違う。

 男やもめの埃臭さではなく、どこか瑞々しい“生活の匂い”がした。


「お帰りなさいませ。徳蔵さんから伺っております。お連れの方々で?」


 奥から現れたのは、一人の女性だった。

 控えめな物腰だが、芯の強さを感じさせる目をしている。

 年は徳蔵より少し下か。


「……ちょっと、徳蔵! これはどういうことよ!

 ここ、私たちの場所でしょ……?」


 リラの鋭い声が拠点に響き渡る。

 慌てて奥から飛び出してきた徳蔵は、俺たちの顔を見るなり、見事に狼狽した。


「あ、いや、これはその、だな……!」


「……やれやれ。作業場を整えるようにお願いはしましたけど、随分と大胆な解決策を選びましたね」


 勘太が深いため息をつき、こめかみを押さえる。

 リラは顔を真っ赤にして徳蔵を問い詰めていた。


「仕事の拠点に女性を引っ張り込むなんて、何を考えてるの! 

 私たちは真面目に働いてるのよ!」


「待て、リラ。まずは話を聞こう」


 俺は一歩前に出て、二人の間に入った。


 徳蔵は寄り添う女性――おみつと名乗った――を庇うようにしながら、事情を話し始めた。


 おみつは身寄りがなく、夜の商いで暮らしていたところ、徳蔵と知り合ったらしい。

 拠点を整えるための一時的な手伝いとして雇ったところ、

 炊事、洗濯、掃除、驚くほどの働きを見せたという。


 大工や井戸掘りの手配で天手古舞だった徳蔵にとって、

 身の回りを任せられる存在は、それだけで大助かりだったそうだ。


「……ちゃんと回してたんですね」


 俺は周囲を見渡す。

 確かに拠点は見違えるほど整っていた。


 床は掃き清められ、物はきちんと収まり、

 以前の雑然とした空気が嘘のように消えている。


 ただの器だったはずの場所が、

 いつの間にか“暮らしのある家”になっていた。


 ただ、その過程で二人が“親密”になったのは……まあ、見れば分かる。


「すまん! おみつが居てくれたおかげで、ここまで早く整ったのは本当なんだ!  

 でも、その……俺も男なんだ……!」


 徳蔵が平謝りし、おみつも「徳蔵さんには、本当に良くしていただきまして……」と頬を染める。


 リラはまだ納得いかないようで、「そういうのは自分の家でやってよね」と毒づく。

 勘太は「徳蔵さんに任せ過ぎたか。やはり人を増やさないと独断で動かれるのは危険だな」

 と難しい顔をしていた。


 ここで、俺は助け舟を出すことにした。


「いいじゃないか。いい年をした男が一人やもめで寂しかったんだ。仕方ないだろう。  

 それに徳蔵には、これまで相当に世話になっている。  

 

 俺たちのいない間、この拠点を守り、整えてくれた。

 その苦労を考えれば、これくらいの役得があってもいい」


「セタリ……!」


 徳蔵が感激したように俺を見上げる。


「それに、身の回りの世話をする人がいるのは悪いことじゃない。  

 ここに来るたびに飯炊きや掃除に追われるより、専門の誰かがいた方が助かるだろ?」


 二人は言葉を詰まらせた。


「……それは、まあ。確かに綺麗になってるし、助かると言えば助かるけど……」


 勘太も頷く。


「……確かに。悪くない判断ですね。徳蔵さんのやる気にも繋がっているし」


「勘太、あんたも納得しちゃうの?」


「理にかなってるよ、リラ」


 その言葉で、ようやく場の緊張が解けた。

 おみつは深く頭を下げ、「お役に立てるよう、精一杯働かせていただきます」と言った。


 その夜、拠点ではささやかな宴が開かれた。

 おみつの料理は驚くほど旨く、徳蔵は終始嬉しそうだった。


 想定外の“家族”の増加だったが、拠点の空気は以前よりずっと明るく、温かかった。


「……作業場というより、家みたいだな」


 俺が呟くと、徳蔵が笑みを浮かべ、おみつが照れる。

 ――なんだ、この新婚夫婦の家に遊びに来たみたいな雰囲気は。


 俺が戸惑っていると勘太が真面目な顔で口を開いた。


「徳蔵さん。今回は事後承諾でしたけど、次は事前に相談してください。

 徳蔵さんのことは信頼していますが、徳蔵さんの知った人まで無条件に信じるわけにはいかない」    

 

 勘太の冷徹な声に、徳蔵もおみつも、打たれたように居住まいを正した。  


「ああ、わかってる。不義理なまねをして済まなかった。……この通りだ」    


 深々と頭を下げる徳蔵の肩に、勘太がそっと手を置く。  


「頭を上げてください。……本当はこんなこと言いたくないんです。

 でも、俺たちの商いはこれからどんどん大きくなるんです。

 

 そうなってから今回のようなことがあると、他の者に示しをつけるために、

 俺は徳蔵さんにさえ罰を与えなきゃならなくなる。

 ……そんなこと、したくないんですよ」  

 

「……ああ、身に染みた。二度と勝手なまねはしねえ」    


 不安げに二人を見守るおみつに、俺は努めて穏やかな声をかけた。  

 

「心配しないでください。おみつさんを疑っているわけじゃない。

 ただ、俺たちは松前の旦那と『商いの種は外に漏らさない』と固く約束してましてね。

 むやみに部外者を入れられない事情があるんです」    

 

 俺が九兵衛との契約の話を持ち出すと、おみつは息を呑んだ。

 カネクルの街でもその名を知らぬ者はいない。  

 

「徳蔵さんが見込んだ人だ、おみつさんが口の軽い人だとは思っていません。……そうですよね?」  


「え、ええ、もちろんです! 私、口の堅さだけは自信があります。決して、滅相もない……!」  


「それならいいんです。いろいろお世話になると思いますが、よろしくお願いしますね」  


「はい、私にできることなら何でも言いつけてください!」


 おみつさんのその言葉は、単なる社交辞令ではなかった。  

 

 翌朝、俺たちが資材の買い出しに走る間、彼女はすぐに発てるように荷物を整えていてくれた。

 徳蔵が惚れるだけあって、彼女の気配りは、俺たちの動きを円滑にさせた。


 おかげで、予定よりも早く、カネクルを出ることができた。

 カネクルを後にする荷車は、以前よりさらに重くなっていたが、不思議と足取りは軽かった。


 宗谷コタンに戻れば、またリラの“暴風”のような開発が始まるだろう。  

 だが、おみつという新たな協力者が加わり、

 この拠点が「ただの廃屋」から「俺たちの城」になったことで、

 事業はまた一歩、確かな形へと近づいた気がした。


---


 カネクルから戻った俺を待っていたのは過酷な力仕事だった。


「……セタリ、水を足して。

 でもその前に、もっと細かく砕いて。粉のままだと粒が残る。

 指で触って、ざらつきが消えるまで潰してからよ」


 リラの容赦ない指示が飛ぶ。

 俺は石の鉢の前に座り込み、杵で炭を叩き潰していた。


 ごり、ごり、と鈍い音が響く。

 乾いた炭は思った以上にしぶとく、砕いても砕いても細かい粒が残る。


 紙の繊維を叩くのも地獄だったが、炭をここまで潰すのはまた別の苦行だ。


「……そこに水を少し」


 言われるままに、水を数滴垂らす。

 黒い粉がゆっくりと湿り、まとわりつくような重さに変わった。


「そう、そのまま練って。

 粉じゃダメ。泥みたいに均一になるまで」


「……要求が細かいな」


 俺は息を吐き、杵を握り直す。

 叩くというより、押し潰しては石の底に擦りつける。

 炭はやがて粘り気を帯びた黒い塊へと変わっていった。


 しかも使っているのは、ただの炭じゃない。

 わざわざ選んだ、堅木をじっくり焼いた、やけに硬い炭だ。


 少しでも油断すれば鼻の穴まで真っ黒になり、クシャミをすれば細かい炭が煙のように舞い上がる。

 だが――それでもまだ足りない。


「……止めないで。そこでやめたら芯が割れる。

 指で触って、完全に引っかかりが消えるまで」


「……まだやるのかよ」


 俺は呻きながら、さらに力を込めて杵を動かした。

 ごり、ごり、と鈍い音が石の鉢の中に響く。


 やがて――


 炭は粉でも泥でもない、

 均一に練り上げられた、指で押すとわずかに弾くような粘りを持った黒い塊へと変わっていた。


「……これならいい」


 リラがようやく頷く。


「リラ、そんなに細かくしてどうするんだ。炭なんて、黒けりゃいいだろ」


「バカ言わないで。粒が残ってたら紙を傷つけるし、芯はそこから割れる。

 書き味もガタガタになるわ。

 勘太の言う『最高の使い心地』には、絹みたいな均一さが必要なのよ!」


 横では勘太が、カネクルで特注した小さな天秤を使い、

 炭の泥と、細かくこねた土を恐ろしい精度で計量していた。


「セタリさん、炭と土の比率が命なんです。

 炭が多ければ柔らかくて濃く出る。

 土を増やせば硬くなって、細い線が引ける。

 俺たちが目指すのは、その中間――折れず、滑りすぎず、止まりすぎないところだ」


「……ビーとかエイチとか言ってたやつか」


「そうそう。まあ名前はどうでもいいんですけど。問題は“手の感覚”ですね」


 混ぜ合わされた黒い泥は、細い棒状に成形され、チセの外に作られた小さな窯へと運び込まれた。


「火、強すぎないか?」


「焼きすぎちゃダメ。

 これ、陶器みたいに固めるわけじゃないの。

 

 水気を抜いて、崩れない程度に締めるだけ。

 中までじっくり乾かす感じね」


 リラは火を落とし、じっと窯の様子を見つめる。

 炎を操るというより、材料の“機嫌”を伺っているようだった。


「強く焼けば固くはなるけど、そのぶん脆くなる。

 逆に足りないと……ただの泥棒どろぼうね」


「それ、ただの泥だろ……」


 数時間後。

 ゆっくりと冷まされた窯から取り出されたのは、細い、しかし確かな締まりを持った黒い芯だった。

 表面はざらついているが、指で軽くこすっても崩れない。


「……よし。軽くしならせても折れないし、指でこすっても粉が出すぎない。

 これなら使える。次は『さや』だ」


 ここで出番となったのが、和人の道具に興味津々だったシモンだ。

 「紙づくり」の道具を見て目を輝かせていた彼は、勘太の説明を聞くや否や、器用に木を削り始めた。


「これの真ん中に溝を掘って、芯を挟めばいいんだな? 任せろ、こういう細かい細工は得意だ」


 シモンが削り出した二枚の薄く細い木の板。

 その溝にリラの焼いた芯を置き、膠で張り合わせる。


「しっかり乾かして。湿気ると剥がれるから」


「わかってるって」


 最後に持ちやすいよう周りを削り、角を落とす。

 木の肌は滑らかに整えられ、手に吸い付くような感触になっていった。

 

「……できた。これが、『鉛筆』か」


 俺は、自分の指よりも少し細い、一本の木の棒を手に取った。

 見た目はただの小枝のようだが、不思議と道具としての気配を持っている。


「リラ、書いてみてくれ。お前の紙に、お前の鉛筆で」


 勘太が、促すように言った。

 リラは緊張した面持ちで、例の「一歩目」の紙を広げた。

 震える手で鉛筆を握り、紙の上に芯の先を落とす。


――す、と。


 かすかな抵抗とともに、黒い線が素直に伸びた。

 筆のように滑りすぎず、しかし引っかかりすぎもしない。

 紙の上に、意思がそのまま線になる。


 墨を磨る手間も、筆を浸す時間もいらない。

 ただ触れるだけで、そこに「記録」が残る。


「……書ける。滲まないし、乾くのを待つ必要もない。……すごいわ、これ」


 リラは縦横無尽に紙に線を引く。

 太さを変え、力を抜き、確かめるように線を重ねていく。

 その筆跡は自由で、迷いがない。


「セタリさん、これで『記録の高速化』が達成された。

 情報は武器だ。そして、それを手軽に扱える俺たちは、その先端に立ったことになる」


 勘太が満足そうに頷く。

 俺は自分の真っ黒になった手を見つめ、苦笑した。


「……まあ、これだけスラスラ――いや、思った通りに書けるなら、

 俺の右腕が棒になった甲斐もあったってもんだ」


「ふふ、お疲れ様、セタリ。お礼に、ほら」


 リラがいたずらっぽく笑い、俺の手の甲に鉛筆で何かを書いた。

 そこには、俺にもわかる簡単な印――以前、勘太が教えてくれた「笑顔」の印が描かれていた。


「消えないのか、それ」


「洗えば落ちるわよ。……でも、私たちの歴史は、もう簡単には消えないわ」


 焚き火の光に照らされたリラの笑顔は、朝日のように輝いて見えた。


 ――夕食前、手を洗った俺は、あいつに騙されたのだと知る。


「おい、リラ。これ、全然消えないんだが。どういうことだ?」


「……だから言ったでしょ。私たちの歴史は、簡単には消えないって」


「いいこと言ってごまかすな。消えないじゃないか、これ。どうすんだよ!」


「うるさいわね。何日かすれば消えるわよ」


 あっさり言い切ると、リラは火の方へ顔を戻した。

 その横顔は、さっきと同じ顔で――少しだけ、楽しそうだった。


 ――結局、三日たっても消えなかった。

 ……あいつの言う通り、簡単には。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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