閑話:毒か、良薬か
宝暦十二年(一七六二年) 晩夏 蝦夷地・宗谷沖
波が船べりを叩く音が、単調に繰り返される。
潮の匂いと湿った板の匂いが鼻をつく。
松前へと向かう船の上、俺は遠ざかる宗谷の岸辺を睨みつけていた。
村での出来事を思い返す。
初めて目にする、大勢の同じ年ごろの子供たち。
整然と働くその姿。
見たこともない道具に、見たことのない食べ物。
すべてが新鮮で、目を奪われた。
だが何より心を揺さぶったのは、俺の命よりも、場の掟を守ろうとするその姿勢だった。
そして——自分の名を正確に言い当てたあの小僧、勘太。
問い詰めようとする手を、まるで柳のようにかわす。
そのあまりの軽やかさに、つい腹が立ち、「献上せよ」と口にしてしまった。
半分は本気、半分は意趣返しのつもりだった。
さらに、あのアイヌの男。
年齢は成人しているかも怪しいが、剣術指南役よりもなお強そうで、
近習の者らよりも、よほど知恵が回る。
少なくとも、自分の知るアイヌではなかった。
世の広さと面白さを思い知らされる——だが、無様に負けたことにはやはり腹が立った。
手すりを握る指先に力が入った。
「此度の漫遊、良い勉強になりましたな、若。」
守屋新左衛門の穏やかな声が、潮風に乗って届く。
「……どこがだ。あんなアイヌ風情に言い負かされて……松前家始まって以来の、いい面の皮ではないか。」
「負けを負けと認められたのは、ご立派です。
よいではありませんか。
あの場でのことなど、記録には残りませぬ。
あの者どもが言いふらしたところで、誰が信じますか。
ただの座興で済む話です。」
「むう……それはそうだが。だが、あの『石高』の理屈……思い出すだけで虫酸が走る。」
吐き捨てるように言うと、守屋の表情は一転して真剣なものになった。
「若。気づいておらぬようですが——下手をすれば、我らは命を落としていた可能性すらあったのですぞ。」
「なに!? あのアイヌ、それほどの手練れだというのか。」
「左様。正直、武力で来られたらこちらが詰みでしたな」
守屋はいつになく真剣なまなざしだった。
「こちらは帯刀しておりましたが――狭い室内のこと。
刀を抜くより早く、つかまれ首の骨をへし折られておったでしょう。」
自分の首に手をやる。
(港町で、あの者に抱えられたとき――まるで岩に挟まれたようだった。
もし、あの力で首を掴まれれば――)
――枯れ木のように乾いた音。
自分の首が折れる光景が、脳裏に浮かんだ。
背中に、ジワリと汗がにじむ。
「命拾いしたのはこちらということか」
知だけでなく武でも上をいかれていた。
忌々しさに、思わず歯噛みした。
その様子を見て取ったのか、守屋が続ける。
「それに――セタリだけではございません。
まことに恐ろしいのは、勘太という小僧の方です」
「は? 何を言う。あんな子供に何ができる。最後は震え、今にも泣き出しそうだったではないか。」
「やはり、何もご覧になっておられぬか。」
守屋は目を細め、遠くの水平線をじっと見つめた。
潮風に吹かれながらも、その声は揺るがない。
「——あの者の目です。底の見えぬ井戸のような、暗く、冷え切った目。
震えながらも、あの場のすべてを、計っておりましたぞ。
若の提案を受けたときの『利』と、退けたときの『損』を。
あれは――市井の子供の目ではありませぬ。
――『政を知る者』の目です。」
「……!」
「仮にあの場で、強引に油煮の製法と子らを得たとしましょう。
その後、我らがどのような報いを受けていたことか。
セタリが『立ち合い』を申し出てくれて、某は――心底、胸をなでおろしたのですぞ。」
「な……。少し口が達者なだけの子供が、それほどの『毒』を持つというのか?」
「今はまだ、小さく弱い『毒』に過ぎませぬ。しかし、あの手の輩は厄介です。
こうと決めたら、どれだけ時間と手間がかかろうと、こちらを害してきますからな。
兵法にて説いた通りにございます。
敵の退路を断って死兵にしてはなりません。
逃げ道を用意しておかねば――窮鼠となりますからな。」
「それは……そうかもしれん。だが――」
「あのような辺鄙な村の子供らが、城の小姓よりもきびきびと働く――あの『宗谷商会』。
それを一人で整えた小僧が、本気でこちらを害そうとしたとき……何が起こるのか」
守屋は、ぶるりと身体を震わせた。
「それに、あの二人の絆の強さ。想像以上に、強固に結びついておりました。
一人でも手に追えぬ者らが結びついておるのです。」
勘太が屈しそうになった時のことが思い浮かぶ。
それまで後ろで控えていたセタリが、勘太の肩に手を置き、『自分に任せろ』と前に出た、あの光景。
(自分には、あのようなものはおらん。
守屋は――違う気がする)
「もし若が負けを認めず話がこじれていたら……。
わしも若も、こうしてのん気に、海を眺めてはおれんかったでしょうな。」
守屋は、カカカと乾いた笑いを漏らした。
「笑い事ではないぞ、守屋。それは『謀反』ではないか。」
「左様。ですが、それを誰が咎めます?
何より――若のお命を狙う輩は、本拠(松前)にもおるのですぞ。
道中でアイヌに襲われ、行方不明――。
これ幸いと、望む後継を立てる口実を与えるだけです。」
「それは……。」
「あの小僧、勘太は、味方にすればこれ以上ない良薬となりましょう。
次に相まみえた折には、少し下手に出て、よしみを結ぶところから始めるとよろしかろう。」
「……く……屈辱だ。この俺が、あんな子供に。」
「それも、人の上に立つ者の務めですぞ、若。」
「……若、言うな。」
忌々しげに顔を背けた。
だが、胸中にあるのは屈辱だけではない。
守屋が「厄介」と評した勘太への、歪なまでの期待が渦巻いていた。
――残してきた封書のことを思い出す。
怒りに任せ、叩きつけるように筆を走らせた。
“次に会う時”と書いた。
無意識にまた会いたいと思っていたのかもしれない。
会いに来るか?
(――まあいい。居場所は分かっている。
待つのに飽きたら押しかけてやろう。
驚く顔が、目に浮かぶ。)
勘太が慌てふためく様子を思い浮かべるとふっと笑みがこぼれた。
宗谷の村ははるか遠く、影もなくなっていた。
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