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第68話:慈悲という名の脅迫――敵対的買収(ホスタイル・テイクオーバー)への反撃

 宝暦十二年(一七六二年) 晩夏 蝦夷地・宗谷


「油煮の製法と、あの作業場の者どもを買い取ってやる」


 道広は、当然のように言い放った。


「十両でどうだ。  あいつらの人生など、その程度の値だろう?」


 勘太の思考が、完全に止まった。

 

 一瞬、音が消えたように感じた。

 囲炉裏の火だけが、やけに大きく爆ぜる。

 

「……それは、さすがに」


 声がかすれる。  

 言葉を濁すしかなかった。


「本来なら召し上げてもいいところだがな。  

 やつらは使えそうだから、ちゃんと対価を払ってやる。  

 十両あれば、暮らしには困らんだろう?」


 道広は笑った。  


 その笑みは、子どもたちの未来を値札で切り捨てる残酷さに満ちていた。


 奥歯が、ぎしりと鳴る。


 怒りが、胃の奥からせり上がってくる。


 拳に力が入る。

 爪が食い込み、じん、と鈍い痛みが走った。


 ――それでも。


 だが、抑えた。


「……俺の一存では決められません。  

 あそこは村にとっても大切な場所なんです」


「なら二十両だ。  一生遊んで暮らせる大金だぞ?」


 軽い調子だった。

 まるで駄賃を積み増すような口ぶり。


 人の一生が、値札のように扱われている。

 

 ふざけるな、と叫びたかった。

 

 だが、俺は答えなかった。


 沈黙が落ちる。


 囲炉裏の火が、ぱち、と爆ぜた。


(……経済合理性だけで言えば、売るのが正解だ。

 レシピを渡したところで、教育システム――いわばOSは、俺の手元に残る。

 得た金で村は潤う。親たちは表向き渋い顔をするかもしれないが、内心では安堵するはずだ。

 子供はまた増える。なら、もう一度育てればいい。

 宗谷商会のバランスシートは、間違いなく改善する)


 理屈は、いくらでも並ぶ。


 むしろ――正しすぎるくらいに。


 昼間の三吉とのやり取りが脳裏をよぎる。


 道広に対し、売り物は渡せないと言い切った顔。

 自分がいない間、俺たちの城を必死に守ってくれた仲間。


 それを、売る?


 ありえない。


 宗谷商会そのものは、問題じゃない。


 取引相手は伊勢屋の九兵衛――付き合いは、まだ一年程度に過ぎない。

 朔弥も、すでにあちらの懐に入り込んでいる。


 いざとなれば、いくらでも立て直しは利く。


 だが――


 仲間を失う損失は、そんなものじゃない。


 取り返しがつかない。


 ――そう言えたら、どれだけ楽か。


「強情な奴だな。

 まだ値を吊り上げようというのか?」


 道広が、くつくつと喉を鳴らす。


「……まあ、よい。

 手放す気がないというなら、それでも構わん」


 一拍。


 視線だけが、すっと細くなる。


「だが、商いというのはな。

 時に、望まぬ形で終わることもある」


 笑みは消えていなかった。


 ただ――温度だけが、なくなっていた。


 身分の差が、抗いようのない大波となって宗谷を飲み込もうとしていた。


 逃げ場はない。


 ここで誤れば、すべてが終わる。


 俺の思考は、かつてのコンサル時代の苦い記憶を反芻していた。


 ――数字だけで、人を切り捨てたあの感覚を。


---


 薄暗い応接室。  

 

 机には契約書。


「御社を二億円で買収します」


 買収担当は穏やかに言った。


「馬鹿な、うちがこれまでどれだけこの技術に投資してきたと……」


「話にならない。社長。こんな話、受け入れる必要はありません」


 買収担当が小さく息を吐く。


「まとまらないなら、手を打ちます。  

 競合投入でも、取引見直しでも。  

 御社には厳しいでしょう?」


 大資本を持つ奴らの常とう手段だった。

 圧倒的な力の前に弱いものは喰われるだけだ。

 

 俺は睨んだ。


「脅しですか」


「例えばの話です」


 沈黙。


「……現金で二億か」


 社長の手が震えていた。  

 俺は、その震えを止められなかった。

 

 俺にできたのは、薄っぺらい励ましを垂れることだけだった。

 自分の声が、ひどく情けなく聞こえた。


「社長、まだやれます

 まだ何かできることはあるはずだ」


 俺の声は空虚だった。  

 選択の余地がないことは分かっていた。

 だが、言わずにいれなかった


「いいんですか、そんな口だけコンサルに頼って?

 このままだと本当に終わりますよ。」


 余りの暴言に、にらみつけるがこちらを見ようともしない。

 完全に相手にされていない。


 社長も俺ではなく契約書に集中している。

 結局、この場に至っても、俺はよそ者でしかなかったのだ。

 

「俺は……社員を守らなきゃいけないんだ」


 社長は短く言い、ペンを取った。


 署名の音が響く。


「賢明です」


 買収担当は、最初とは別人のような笑みを浮かべた。


 社長は椅子に沈み込んだ。  

 

 あの場で一番弱かったのは、社長でも会社でもなく――俺だった。


 対案を出すことも、苦渋の決断をする社長をなぐさめることも、何もできなかった。

 

 その無力さが、今も胸の奥で鈍く疼いている。


---


「どうした、さっさと答えろ」


 道広はしびれを切らしたように体をゆすりだした。


 こうなるのをさけたかった。


 強者に目をつけられれば弱者は奪われるだけだ。


 そのために力をつけるためにやれることはやってきた。


 仲間を集め、拠点を作り、外の世界に出て、情報を集めた。


 その結果がこれだ。


 どこで間違えた。


 油煮を作ったのが悪いのか?


 作らなければ鉄太と朔弥が奉公に出されていた。


 ……結局、出されたのだから同じかもしれない。


 道広を探さなければよかったか?


 どのみち、油煮の製造元を探りに来ていたはずだ。


 俺がいないときに来られていたら手の打ちようがなかった。


 連れ去られる三吉や子供たちの姿を幻視する。


 背筋が凍った。


 不運だと思ったが最悪の事態ではない。


 まだ誰も失ってはいない。


 取り返しはつく。


 買収は仕方ない。


 あの時と同じだ。


 生きていくには受け入れるしかない。


 誰が逆らえる?


 金額はとても受け入れられるものではないがあきらめよう。


 悔しい。


 子供である身がうらめしかった。


 俺に力があれば、逆に脅し返してやるのに。


 金も権力も腕力も、何もない。


 それでも、売らないと決めた。


(まただ……また、守れないのか)


「勘太」


 その時、セタリが俺の肩に手を置いた。

 

 重かった。


「力が必要か」


 俺には何もないと思った。


 金と権力はない。


 だが。

 

「俺は役に立てないか」


 傍らに座るリラが、射抜くような視線を道広に向けている。


 彼女もまた、この場が刃ではなく言葉の戦場であることを悟り、

 従兄の背中にすべてを託すように一歩退いた。


 セタリの声は静かだった。

 

 力はあった。


 オオカミの群れを蹴散らし、熊と一騎打ちを行う、とっておきの武力が。


「セタリ……」


「前に、一人で全部やる必要はない、そういったな。

 なら、ここは俺に任せろ」


「は、アイヌの猟師に金勘定ができるのか、鹿の数を数えるのとはわけが違うのだぞ?」


 道広ができるはずもないとあざ笑う。


「できるかどうか、試してみたらどうだ?」


「面白い。ならお前が見積もってみろ

 守屋、お前が判定しろ。忖度などするなよ。

 そんなものなくとも俺の計算は正しい」


「……御意。この守屋、武士の誇りに懸けて、『理』のある方を勝者と認めます」


 守屋が短く答え、セタリに視線で確認する。


「守屋の判定なら俺にも否やはない。

 短い付き合いだが、正式な立ち合いで小細工を弄するような男でないことはわかっている」


 セタリが堂々と答える。


 俺が一瞬、暴力で解決を図ろうかと揺らいだ瞬間、

 セタリ――俺が見込んだ英雄は、力ではなく、理を選んでくれた。


 その一言が、場の空気を変えた。


 囲炉裏の火が、ぱち、と爆ぜる。


 守屋の視線が、わずかに動く。


 そして――


 道広の笑みが、ほんの一瞬だけ、歪んだ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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