第62話:裏切るは誰か
宝暦十二年(一七六二年) 晩夏 蝦夷地・宗谷原の西
宗谷原を出てから、風の匂いが変わった。
西へ。
ただそれだけを目指し、俺たちは歩いた。
最初のコタンでは、火を囲み、酒を分け、話を聞いた。
勘太は木簡に何かを書きつけ、満足げだった。
だが次のコタンでは、「去れ」の一言で追い返された。
夜、焚き火で焼く干し肉は石のように硬い。
「悔しくないのか」
俺の問いに、勘太は火の向こうで笑った。
「面白いじゃないですか。同じことをしても、反応が違う。
全部うまくいったら、つまらないでしょ?」
火を見つめる目は、凪のように静かだった。
こいつは、失敗すら拾って血肉にしている。
歩みは止まらなかった。
「着きましたね」
旅の期限が迫る中、俺たちが最後に訪れたのは交易が盛んだというコタンだった。
結論から言うと、このコタンに来たのは失敗だった。
俺は、いいことをしたつもりだった。
だが、掟を破り、理を汚した。
そして何より……俺はあいつに裏切られたのだ。
土牢の冷たい床に横たわり、俺は思い出す。
引き立てられる俺を、冷淡な目で見送った勘太の顔を。
---
そこは、これまでのコタンとは明らかに空気が違っていた。
海沿いの小さな港には、和人の交易船が数隻停泊している。
潮の香りに酒や油の匂いが混ざり、普段のコタンとは違う人の流れに、思わず足を止めた。
まるで、海の向こうの世界に迷い込んだような錯覚を覚える。
岸辺の市では、見慣れない布や漁具、山積みの道具がところどころに並んでいた。
活気に圧倒され、肌が粟立つ。
――そして、その喧騒を切り裂くように事件は起きた。
一人の子どもが、並べられた小さな干魚袋をこっそり掴んで走り出したのだ。
「こら、待ちやがれ!」
怒号が響く。
子どもは数歩駆けたところで、道を横切ろうとした和人に正面からぶつかった。
干魚の入った袋が宙を舞い、子どもはそのまま地面に転がった。
ぶつかられた和人は尻もちをつき、汚れた着物を払う。
顔を真っ赤に染め、怒りと驚きが入り混じった。
「このガキ……貴様、誰にぶつかったのかわかっているのか!」
和人の手が腰の刀にかかる。
鯉口を切る金属の鋭い音が響いた。
子どもは珍しいものでも見るかのように固まっていた。
体が、考える前に動いた
和人の肩を強引に突き飛ばし、地面の子どもを片腕でひっつかむ。
驚愕する和人の視界から消えるべく、全力で地を蹴った。
周囲の景色が流れるように後ろへ過ぎ去り、足先が石に躓きそうになるたびに、心臓が跳ね上がる。
「……くそっ……!」
短く呟きながら、片腕で子どもを抱き直す。
体温の低い腕、硬い小さな身体――だが、奴の力は想像以上だ。
反抗もまた、力の一部だった。
角を曲がり、船の間をすり抜ける。
背後の怒声は、次第に波の音にかき消されていく。
どこをどう走ったのかはわからない。
ただ、背後から聞こえる怒号が遠ざかるまで、喉が焼けるような疾走を続けた。
腕の中の子どもが「おろせ!下郎」と暴れ始める。
手を放すと、その子どもは礼の一言も残さず、慌てることもなく不遜な態度で去っていった。
「……あんなものか」
荒い呼吸を整えながら、独りごちた。
同じ子どもでも、あの「悪魔」とは大違いだ。
自分の中の『子ども』の基準が、あの七歳のガキのせいで狂っていることに気づき、
思わず乾いた笑いを漏らした。
---
ようやく元いた場所まで戻ると、和人の姿がないことを確認し、勘太とリラを探した。
しばらくして、空き地のような場所に腰を下ろしている二人を見つけた。
セタリの姿を認めると、二人は穏やかに手を振った。
「やあ、ようやく帰ってきましたね」
勘太が、いつもの涼しげな声で言った。
「待ちくたびれましたよ」
「ああ、すまなかったな」
セタリは苦笑いして歩み寄った。
「とっさに身体が動いてしまってな。……お前たち、大丈夫だったのか。
さすが勘太だ、上手く隠れていてくれたようだな」
「いえいえ、とんでもない」
勘太は立ち上がり、懐から一本の太い縄を取り出した。
「そんなことより、ちょっとこれを両手で握ってもらえますか?」
「ん? 何の真似だ。おい」
不審に思いながらも、セタリが手を伸ばした瞬間だった。
勘太の指先が、目にも止まらぬ速さで動く。
獲物を縛り上げる猟師のような、あるいは拷問官のような、淀みのない手つき。
止める間もなく、両手を固く縛り上げられていた。
――ピー。
横で控えていたリラが、鋭く口笛を吹く。
「なんだ、何が起こってる! おい!」
叫ぶ俺の周囲を、あっという間に和人の番人たちが包囲した。
抜かれた刀が、夕日に光る。
「おい、どういうことだ勘太! いったい何を考えてる!」
声を荒げる俺に、勘太は冷淡な三日月のような笑みを向けた。
「あなたが悪いんですよ。
……和人に手をあげるから。おとなしく縄についてください」
「ふざけるな……! おい、リラ! 何とか言ってくれ!」
縋るように従妹を見た。
だが、リラはただ悲しそうな顔をして、目を伏せるだけだった。
頭の中で何かが崩れ落ちる音がした。
抵抗する間もなく、俺の体は番人たちに押し潰された。
引き立てられる背後で、勘太が番人に何やら和語で交渉しているのが聞こえた。
「よくやった」
「いえいえ、とんでもない。
お役に立てて何よりです。
それよりも、例の約束は守っていただけますよね?」
「ああ、もちろんだ」
「それは、よかった。
では、私はこれで。
後はお任せします。」
「勘太……本当にいいの?」
リラの消え入りそうな声。
「辛いけど、こうするしかないんだ。
説明しただろ?」
「そうだけど……でも、やっぱり……。」
「さあ、いつまでもここに居るわけにはいかない。行こう。」
視界がにじんだ。
それは、友を助けるための嘆願ではなく、冷徹に結果を見極める者の目のような響きだった。
俺には、ただ、勘太の背を追うリラを見送ることしかできなかった。
そうして俺は、薄暗く、湿った土牢の奥へと囚われたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
少しでも「面白い」「続きが気になる」と感じていただけたら、
下の【☆☆☆☆☆】での評価、そしてブックマークで応援いただけると嬉しいです。
いただいた反応が、そのまま更新の励みになります。
今日は18時、21時にも投稿します。




